ツインレイという共同幻想から脱却すること。
共同幻想については前も書いたことがあったよなと思います。
多くの人に周知されている共同幻想では『お金』があります。このお金ですが、私たちにとって価値があると感じていますが、現実のところ、このお金という概念はないものをあるとして感じることにより成立しています。
そもそもお金という存在はありません。ありませんが、私たちが共同に幻想を抱くことにより『存在している』と捉えられ、虚通による貨幣によって取引されているということです。
さて、この思想は他にも多く共通するところがあります。
たとえば、宗教です。宗教も同じように「神がいる」という共同幻想を抱くことにより『ある』のであり、しかし現実的には『ない』となります。すべての人が認識するわけではありませんので、これは共同幻想になりますね。
新興宗教にハマっている人を見て「ヤバくない?」って周囲の人は思いますが、当人たちは共同幻想のなかにいるので「ある」として認識しています。
同じように、私たちはお金を使ってやりとりをしていますが、お金のない概念の地球外生命体からすれば「ヤバくない?」って感じられているかと思います。いわゆる『共通認識となる幻想により成立している世界』があるんですよね。
ツインレイとは共同幻想である
これはツインレイにも転用して考えることができるかと思います。
私たちは『ツインレイ』という概念を知っています。その概念により共同幻想を起こし「ツインレイにより語り合う」という世界が生じますが、ツインレイという存在が「ある」かというと、現実的には判断しかねることですので「ない」とされ、私たちは幻想的な会話をしているということになります。
つまり、ツインレイという概念そのものが共同幻想なんですよね。ツインレイを知っている人たちが集まることによって幻想が成立する。その幻想によって『ツインレイが成立する』ことになります。
しかし現実的にはツインレイは存在しません。しかし「ツインレイは存在している」という幻想にハマった人は、共同幻想に沼ります。
共同幻想は悪なのか?
では、この共同幻想が悪なのか? についです。
貨幣のやりとりがありますが、そのやりとりは私たちが円滑に物を取引する為に必要なツールとなっています。このツールが破綻することによって物価上昇によって国民が貧困になる——等の出来事も起こりますが、基本的には、この共同幻想があることで私たちは『円滑に過ごすことができる』ということです。
ゆえに悪だと一概に言うことは出来ません。
しかし『悪』に転ずる瞬間があることも忘れてはならないような気がしています。
私たちには欲求があります。共同幻想にとって『欲』というものや『心の弱さ』により成立する概念として存在するものもあります。
たとえば、お金に対しても『欲』や『心の弱さ』によって、お金に振り回された人生を送ることにもなりかねません。つまり、共同幻想とは共同幻想である——ということ。そこに欲求や心の弱さが介入することで、共同幻想に取り込まれかねないということ。
お金をたくさん持っていたとしても、じゃあ、本当にその人は幸せなのか? というと別の話です。しかし、欲や心の弱さを持っている人たちにとって、お金をたくさん持っていることは幸福である——と捉えかねなく、お金のための行動を始めます。
これが『幻想世界に生きている』ということになります。
ツインレイという幻想世界の悪
ツインレイのお話の中には『欲』と『心の弱さ』が関わってくるかと思います。
ツインレイの共同幻想では、ツインレイと結ばれたい欲求、ツインレイがいなければ生きていけないという心の弱さ——。このような自分自身が『自分だけで成立していない』ことによる問題は、ツインレイの幻想に飲み込まれ、ツインレイの幻想に踊らされることになるということ。
だからこそ、ツインレイの幻想から抜けてくためには「自分と向き合いましょう」という課題があります。
最終的に「ツインレイという概念には意味がない」「ツインレイとは幻想である」という概念にまで到達した人たちは、ツインレイである肩書きを捨てていくのではないかと思います。そもそもそれには意味がないことを理解していきますから。
ツインレイの共同幻想の本質的部分には「ツインレイのステージ」があると思います。
このツインレイのステージですが、これを軸にして多くの人たちが「ツインレイ」を幻想します。ここが共同になることが共同幻想になります。
つまり「ツインレイの理論」そのものが共同幻想の本質にあり、では、なぜ『ツインレイの理論が必要なのか』という問題にぶちあたります。
その理由は自分の心が弱いからですね。自分の心が弱いので、ツインレイのステージやツインレイの展開など、皆同じようにステージを進んでいくことで安心が欲しいというのもあるかな、と思います。
このツインレイのステージを進むことで安心する——という考え方は、自分の人生の決断に不安があるということです。
共同幻想のなかで『自分が自分で決定する』ということが一番に重要になっていきますので、ツインレイのステージがこうだから——等のいいわけをしている限りはツインレイの共同幻想から抜け出せないということになりますね。
ほかにも「ツインレイという存在」にも共同幻想があります。
なぜ、ツインレイという存在が必要なのでしょうか。ツインレイでなければならない理由はなんでしょうか。結局のところ、ツインレイへこだわる理由が何かしらの理由があります。心の弱さや欲に関係しています。
共同幻想の本質に触れると幻想が融ける
ツインレイの共同幻想に対して『否定』と『肯定』するだけの根っこにある真実に触れていく必要性があります。否定は肯定ですし、肯定は否定です。
人を否定し続けている人は人を肯定し続けていますし、人を肯定し続けている人も人を否定し続けています。自分をも然りです。根っこには『本質』があります。
本質に触れるとき、私たちの共同幻想は融けていきます。
私の場合、ツインレイの共同幻想にかかった理由は『結婚がしたい』ですね。したいことがありました。そして『子供が欲しい』だと思います。
その欲求に対して目を背けているとき、私は共同幻想の罠にハマりました。
ほかにも、目を背けているわけではなく、欲求を肯定することができていないとき——というのが正解なのかもしれません。
つまり、共同幻想にかかるにはかかるだけの理由があります。
ツインレイの共同幻想に沼ってしまう理由も、本質的な部分に触れることで融けていきます。
その本質は人それぞれ違います。大事なのは「ツインレイの裏側に何があるのか」です。どうしてツインレイが必要なのか。その理由を読解していくと、共同幻想が融けていきますね。
ツインレイの共同幻想が融けるとどのようになるのか
ツインレイが必要なくなります。ツインレイである必要性もありません。
これは『ツインレイである当事者』を必要としなくなりますし、『ツインレイという肩書き』をも必要としなくなります。
このツインレイというワードですが、これは『ツインレイという共同幻想のなか』でしか、通用しません。
月で地球の貨幣は通用しません。そんなイメージです。
ツインレイという共同幻想を抱えている人にしか『ツインレイ』は通用しませんし、理解されません。たぶん、外から見れば失恋したんだなって感じだと思います。ツインレイに失恋した、単純にこれ。
失恋が受け入れられないから、共同幻想に入る人もいますので、失恋をしたことが受け入れられたら、共同幻想からは抜け出していくことが出来る人もいると思います。
ほかにも、ツインレイの相手に投影したものがあるとき、その投影を解除することで共同幻想からも抜け出していくことが出来ます。
そして、最終的には「ツインレイではなくなる」わけですし、現実的な人生へ戻っていくことになります。
この時間を私はモラトリアムのようにも感じていましたし、一時的な人生の夏休みのようにも感じられました。
この共同幻想世界から抜け出していくと『リアルな現実』が待っていますが、その現実を受け入れることが出来ないからこそ、ツインレイの共同幻想のなかにいる人たちもいます。
ゆえに、現実感が増した世界へ戻ってきます。戻ってきたら、なんかよくわからないんですけど「やば、現実めっちゃ面白い」っていう感覚が戻ってきます。生きている実感が戻ってくる感覚でしょうか。
幻想が融けると『本質』がわかります。
どうして、ツインレイの共同幻想にひっかかったのか——の本質的部分がわかるようになっている段階ですので、自分自身が本当はどうしたいのかの理由がわかります。
そして、一番には『ツインレイという共同幻想を客体的に観察することができる』ようになるかな? と思います。
ツインレイツールを利用することが出来るようになる——ということです。
共同幻想は楽しい場所
お金で説明してみようかなと思います。
私たちは貨幣を使っているとき、欲や心の弱さによってお金による共同幻想に振り回されることになる——と書きました。過剰にお金に振り回されている状態では、人生が楽しめません。ずっと貯金の人生で最後に死ぬとき「金は残ったが何も楽しめない人生だった」とかになりかねない感じでしょうか。
しかし、お金をうまくつかっている人たちは「お金を楽しく使って過ごしてきた」と死ぬときに思うんじゃないかな。
同じように、ツインレイに変換してみると——。
ツインレイという存在に振り回されている状態の人たちは、共同幻想に振り回されている状態です。単純に「未来にツインレイの相手がいるから、そのために今はこのようなことをしよう。」とか、ツインレイの存在を軸にして捉えているとき、ツインレイに振り回されているとも感じられます。
ほかにも最終的にツインレイは再会すると言われていますが、その幻想に囚われているとき「再会を軸にして考える」ようになります。つまりツインレイの共同幻想に囚われています。
このようなツインレイの共同幻想から抜け出すことになった人たちは『自分の人生を自分だけで完了して生きる』ようになっていくかと思います。
そして、共同幻想を起こしてしまった原因を解除していくことができた人たちは「ツインレイの期間を楽しかったな」と感じます。
幻想って『楽しむためにある』んですよね。その幻想が楽しくないのであれば、それは振り回されている証拠です。
最終的にツインレイの期間が楽しかった人たちは、ツインレイの幻想を楽しんだ人たちでもあり、その期間、ツインレイの共同幻想のなかで『本質に触れるまでの期間楽しんでいた』ってだけのこと。
ネズミーランドにいって楽しいでしょ? そんな感じ。でも、ネズミーランドが事実として捉えられている人にとって、あの世界観は地獄だと思いますよ。考えてみてほしい、リンゴに毒が入っている世界観です。しかし、それが幻想だってわかっている人たちにとっては『楽しい』んですよ。
ツインレイのなかに観測される3種類の人たち
ツインレイを語っている人たちは、いくつかの種類が存在していると思っている。
- 真実を見極めようとしてツインレイから脱却して現実性を取り戻す人たち
- 表面的にはツインレイを信じているが本気では信じていないから、今でもツインレイを疑っているために『ツインレイ』という肩書きや存在や理論を必要とし続け、ツインレイから抜け出せない人たち
- 自分をツインレイだと盲目的に信じ抜いて宗教的な教祖になった人たち
が、確認できているところかな。
私は最初のパターンですね。とりあえず真実を見極めようと努力をするタイプ。(真実見極めたら幻想ジャンに至れる)
多いのが2番目の、例えばツインレイと再会したとしても、疑いがあるからツインレイのことを調べ続けていたりなど、ツインレイの肩書きを外せなくなっていたりなど『自分をツインレイだと思いこませようとする活動』が生まれるタイプ。(真実が見極められないから幻想から抜け出せない)
三番目は、そもそも教祖にまで至ってしまったタイプかなと思います。それが幻想であるということも理解できずに、それが『事実である』と、現実と幻想がひっくり返ってしまったタイプ。現実性がありません。(幻想が真実だと思いこんでいるので教祖になって幻想の布教をする)
で、2番目の人たちが日和見の人たちですね。
1番目の『幻想ジャン』といって抜け出していく人たちと、3番目の『幻想を布教する人たち』のどっちにつきますか? って感じで、別れ道なんじゃないかなって思っている。
で、共同幻想を構築しているのが3番目の『教祖』であり、2番目が『信者たち』であり、1番目が『異端児』でいいでしょうかね。
私は、このツインレイという界隈からすればツインレイ否定派に入りますので、異端審問会にかけられて殺されちゃうやつですね、わかります。