ツインレイ、だから私は自立する。それは期待をやめること。
今、私は私の価値を認め、私の存在を認めた。
ツインレイへ私は多くの期待をしたのだと思う。私は『ツインレイそのもの』へと期待をしたのではなく、彼へ期待をしたのだと思う。
彼は色々と将来の話をしてくれたし、何を与えてくれるのかの話をした。
だけれど、彼との将来はなくなったし、なんなら彼は何も与えてはくれなかった。
言葉よりも行動がすべてだと思う。愛とは行動だと思う。だけれど、彼は行動を起こしたことはない。
それがすべてだったんだと理解する。
ここまで語れば、きっと彼はひどい人だったと思うかもしれない。もちろん、ひとりの男性としては最悪な存在だと思う。
私が言いたいことは彼がひどい人間だということではない。私がいいたいことは、だから私は自立したということ。
彼は私へ多くの期待を持たせるようなことを言った。
それが期待というカタチに着地した理由は、なにひとつ現実化されなかったからである。もとより、彼はそれを現実化させるつもりがあったのかさえ今ではわからない。
期待をさせるようなことを私に言い、私はそれに乗っかり。期待をしているからこその結果がでた。期待しただけの結果、それは期待になにひとつ答えが出なかったことだ。
元々私は人に期待するようなタイプではない。だけれど、根っこの部分では期待していたのだと思う。期待している部分が浮き彫りにされ、すべてが破壊された。
ツインレイとしてなのか、何かの役割なのかはわからないが、彼は私の期待したすべてを裏切ることになった。
だから私は、彼を酷い人間だ——と言葉にすることは容易い。
私は期待していた分だけ自立が出来ていなかったのだ。
彼に期待している量があるだけ、私は自立が出来ずにいた人だったんだと思う。
自ら期待に乗っかってしまった部分が、私の中にある「甘え」の実体だったようにも感じる。
理解したことがある。
人の言葉を信用してはならない、その人の行動を信用しなければならない。
私は言葉ばかりを信じていた。
たとえば、ラインの返事を送る行動があるのか、ないのか。
ほかにも、約束が守られないときに告げてくれるのか。それとも守れない旨を伝えてくれるのか。
会いたいと言葉にしながらも、まったくもって計画を立てない人なのか。
するっていって、したのか。
けっきょく、なにひとつ行動を起こさなかったツインレイの彼に、私は「彼が行動してくれるだろうという期待」を寄せていたのだ。
期待を捨てることが私の自立につながった。
たとえば親が私に何かをしてくれると言ったはずなのに、容易に裏切られた経験を再び体験しているかのような気分だった。
人は私の期待に応えてくれるわけではない。
言葉を信じるから詰む。信じるべきは行動であり、その行動が伴っているのかどうか——である。またそれが誠実性なのだと思う。
期待を捨てるとは「こいつはもうダメだ。」ということを理解することだと思う。
見捨てることでもある。期待を捨てることで、私たちは楽になれる。期待をし続けても、誰も与えてはくれない。
『そこ』にそもそも何もない。何もないから、行動が伴わない。
親が自己愛に溢れ、子供を破壊するように。破壊されて尚「愛している」と言葉にされ、言葉を信じるしかない子供たちもいる。
そこには何もない。何もないものを「ある」と思い込みたい。
愛されてなんていないのに、愛されていると思いたい。言葉しかなかった人たちにとって言葉こそが至極である。しかし、本当に欲しいものは行動である。
行動こそが重要であるのに、言葉を信じることでしか自分を保てない子供時代の人たちもいる。
期待とは言葉に生まれる。行動が伴わない言葉を持つ親の元に育つ子は期待が強い。
そして、そんな親に育てられたからこそ、自らも行動と言葉が伴わない自己愛性の高い人たちが生まれたりもする。
このふたつが結びつくとき、私たちは「相手を追い詰める(追いかける)」「相手に追いつめられる(逃げる)」という構造をとる。
追い詰めるのをやめるには、期待を捨てることだ。追いつめられたくないならば、相手に期待させないことだ。
だけれど、追いつめる人は期待したい、愛があると思いたい。
追いつめられる人は期待されたい、自分には価値があると思われたい。
ツインレイに置き換えてみる。
残念ながら「相手には愛がない」し「自分には価値がない」。どんまい。構造からすると、ツインレイ男性ってクズそのものだよね。愛もなければ価値もない。最悪やん。でも、これが本心。
相手には愛がないから愛がほしいと嘆き、自分には価値がないから価値が欲しいと相手に期待させる。
反対を言えば、自分には愛があるし、相手には価値がある。ツインレイ女性ってものすごい光ってる。愛もあれば価値もある。
ツインレイ女性は『自分のなかにある愛に気づこう』ってことと、ツインレイ男性は『ツインレイ女性の価値を認めよう』ってこと。
ただ、このツインレイ女性が自己愛に溢れたときに「自分のことしか考えられない」って状態になるわけではないと思う。愛とは受け取る心と書く。そこに「心があった」ってことに気づいていくことに意味がある。
傷ついたよね、たくさん。傷ついていることに気づいていくことも、心がここにあることに気づくことでもある。だけれど、ツインレイ女性と関わってきた私からすると、ほとんどの女性が自分が傷ついていることを受け入れられていないような感じがした。
自分の心に鈍感になってしまっている。表面的な欲求や反射が己だと思っていると思うんだが、根っこの部分ではずっと傷ついている事実に気づいてほしい。インナーチャイルドが傷だらけ。
そして、ツインレイ男性はツインレイ女性という存在そのものに価値を認めていかなければならないと思う。
これは期待という相手から裏切られる構造ではない。ただ「存在を認める」ことに繋がっている。「在る」ことを認める。
ツインレイ女性は自分の存在を認め、ツインレイ男性は相手の存在を認める。
その先にようやく、ツインレイ男性側は自分の心に気づくし、ツインレイ女性側は自分の価値に気づくと思う。
心は相手からしか与えられない。ひとりでには発生しない。だからツインレイ男性は女性を認めることで心が発生する。
女性には価値があるけれど、男性には心がある。ひっくり返っていると思う。
本当に欲しいものは何なのか——。
ツインレイ女性は価値がある女性になりたくて、ツインレイ男性は心ある男性になりたいと思う。
欲しいものがそこにある。だから惹かれあうのだと思う。だけれど、最初は期待して与えられるのを待っている。
次に期待を捨てた後に自立した先に、本当に欲しいものを手に入れていくと思う。でも、当初はよくわからないよね。
だって、「じゃあ、本当にそれが欲しかったの?」と追及していくと、そうでもないものって結構あるよね。
残念ながら「相手には愛がない」し「自分には価値がない」。どんまい。構造からすると、ツインレイ男性ってクズそのものだよね。愛もなければ価値もない。最悪やん。でも、これが本心。
相手には愛がないから愛がほしいと嘆き、自分には価値がないから価値が欲しいと相手に期待させる。
で、本当にそうだったの?
期待することは必要だったのか? 必要だったのは自分が自分で自立することが出来ていなかったから。
愛が自立せず、価値が自立することが出来ずに、他人を必要としていたからこそ、人に期待を求める構造をとってしまっている。
愛が自立するとき、奉仕的でもなく、自己犠牲的でもない。ただ「存在する」ことに愛が生まれる。
価値が自立するとき、評価や順位などの他者評価に依存しない。ただ「存在する」ことに価値が生まれる。
それだけでいいのに、他人に期待して何かを得ようとする他者と自己の葛藤が生まれていたからこそ、その領域を抜けることで『自立』が生まれていく。
ツインレイのふたりは、元々『存在そのものに価値と愛を知っている』という領域の感覚を持っていると思う。
ただ、この世の俗世にまみれると、色々と記憶やら育ちやらの問題が出てくるよねって話。浄化しよ、浄化。