ツインレイによる異性人格の確立の話

2024年10月30日

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

私のステージが進むごとに更新していくステージをひとつの記事にして販売しています。


さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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図の説明:父への人格へ男性人格を経由させなければならない

引用:仕事が負担の男性人格の副人格『父』をレイキする。

自分自身のなかに存在している男性人格は、幼少期に『自分の性別』を理解したときに分離した人格ではないかと思っている。

今まで自己統合もどんどんと幼少期へと時間が進んできている。

そのなかで自分の精神構造内で起きていることはすべて「自分のこと」であり、ツインレイは関係がない——ということを理解すると、今までツインレイ男性がいたような感覚もすべて「男性の自分の人格」ということになる。

 

私の男性の人格が『自立』したタイミングが5歳のタイミングだと思われる。

今回、閉所恐怖症の私に会いました。

私は「だしてーだしてー」とドアを叩いていました。

ドアが開き、だしてもらうと私に抱きついてくる。だけど、泣かない。

とても怖い思いをしたようでトラウマ化していました。

引用:閉所恐怖症へレイキの癒し――閉じ込められていたツインレイの男の子

この記憶も「ツインレイの相手のこと」だと思っていたのだが、これは私のなかに存在している男性人格が経験したもの。

母子分離が5歳で起こったときの経験だと思う。

私の男性人格は、このように育ってきたのだなと思いました。

 

男性人格が私のなかに存在しているのだが、この男性人格は「性別を自覚する」タイミングで、自分のなかにある男性ビジョンをすべて排除したときに、私は「自分が女性である人格」を自分とした。

つまり、元々赤子の私から三歳程度の年齢までは自分が『男性』なのか『女性』なのかは分かっておらず、ただ二つの人種が存在していることだけは理解していて、自分が女性なのだと自己の性別を獲得したとき、私のなかに存在している男性人格は排除されることになる。

このとき、私は『男性人格を解離させている』ということ。

男性人格はトラウマ人格ではないと書いたが、トラウマによって解離させた人格ではなく、ただ取捨選択で自分が現実的に女性であるように、精神内にも女性人格と同化したときに男性人格が切り離されたと考えて然るべきかなと。

そうしてみると、私のなかには『男性人格』と『自己として捉えている主人格の女性人格』の2種類が生じることになる。

とはいえ共、私のなかには男性人格と女性人格の2種類が存在しているが、男性人格は裏で存在していたとしても、表面的には出てくることがない人格となると言える。

 

自己統合が突き進んでいくと、解離させている異性性の人格に突き当たるとことになるが、この異性性の人格を私たちは「ツインレイとして探している」と言える。

私たちは副人格をシャドウとして他者に投影するように、異性人格も同様に恋愛中には他者に投影することになる。

「誰かを探し続けている感覚」がある人も多いと思うが、それは自分のなかに存在している男性人格である。私たちは投影により男性人格が現実に存在していると思い、ツインレイを探し求めるが、実際は自分のなかに存在している存在を探し求めているのである。

私たちが探し求めていく経緯で、絶対的に男性人格は見つからない。

人格統合を為さない限り、私たちは投影を終わらせることはない。

もし、男性原理による自己統合が終わっていない段階での恋愛や結婚は、必ず歪が生まれる。自分が探し求めているのは『異性の自分』であり、異性の自分が現実に存在し、探し求めてもどこに存在することはない。

現実に存在する異性と、精神に存在する異性による現実と精神の一致により、精神に存在する異性とは違う存在であるとき、現実に存在する異性へのいら立ち、絶望や怒り悲しみなどの感情が生じることになる。

いわば、自分のなかに存在している異性人格はシャドウの役割をもしているが、実際の人物とシャドウという投影が一致することはないため、結婚は打算となる。いわゆる、なにか自分の思い通りになることがないのが当たり前であり、我慢することが当たり前となる。

常に私たちは「思ってんのとは違うけれど、自分の気持ちからは目を逸らす」という打算を続けていくことが結婚生活の肝となりえるだろう。

精神に存在している異性人格=現実に存在しているツインレイの相手

という方程式が成立しているとき、私たちは妄想に走ることになる。現実に存在している相手に妄想を当てはめては絶望し続けているとも言える。ゆえに、現実にツインレイを追い求めることが終わらなければ、精神に存在している異性人格へ到達することはない。

異性人格に対しての投影を終わらせていくことで、私たちは本当の意味で「好きな人」と結ばれることができる。

 

それまではずっと自分に恋をして、自分を愛しているだけ。

ものすごく恥ずかしいなって思うんだけれど「あなたが好き」って投影の段階で語ったとしても、これはすべて「自分が好き」って言っているだけ。

投影を終わらせていくには『自分の性別による精神的自立』を迎えていく必要性がある。

 

しかし、この精神的自立を『現実的自立』として捉えてしまうと、独立と依存によるギャップが生まれ、理想が高い状態となっていく。(シンデレラ・コンプレックス)

現実的自立を果たすとき、私たちは独立をすることができるが、同時に裏側には依存を孕んでいる。つまり「自分はこんなに成功した」という割には精神的に満たされていないケースが多く、その場合、自分のなかに存在している依存と向き合わなければならない。

その依存は「ツインレイ」という用語を必要とする。

 

この男性人格を自己統合していくことにより、私たちは赤子の人格へと到達していく。

このときの私たちは『性別がない』状態にまでになっていく。

 

私はこの世に生まれてくるときに「みんな自分のことが大好きだと思っていた」という希望に満ちていた記憶があるんだが、それはこの世に生まれて打ち砕かれる。

期待は常に裏切られ、私は「好かれていない自分」を受け入れなければならないことになった。

ツインレイの魂はふたつに分離しているというが、私の場合『大好き』と『大事にする』という意識が分離して、ツインレイのふたりが分離している。

私は「大事にする」という魂側なので「みんなは自分のことが大好き」なのと「自分のことが大好きな人を大事にする」が当たり前である。

ツインレイの相手は「みんなのことが大好き」なのと「大好きな人は自分を大事にしてくれる」が当たり前である。

このときの記憶にまでさかのぼることができるのかなと思っている。

つまり、私は「みんな、自分のことが好きなわけじゃないと気づいた経験」や「大好きな人を大事に出来なかった経験」は、私の魂にとっては大事な経験だったんだと思われる。