ツインレイの性エネルギー交流を自力で起こしていく仕組みの理解(男女人格の合体)

2024年11月2日

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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性エネルギー交流を定義すると、エネルギーが子宮に入ってきてぽかぽかするようなもの——とする。クンダリーニとは別物である。感覚的に恍惚とするような温かさがある。脱力ではなく、身体全体を包み込むようなエネルギーが生じること。

これが第二チャクラの課題に挙げられ、男女におけるエネルギー交流を自己のなかで確立させていく必要性がある。

このエネルギー交流なんだが、自力で起こすことができる。性欲を利用してやるんだが、まだ私も過去に何度か成功しただけで、コツをそこまでつかめてはいないんだが、これを『デフォルト』として維持できるようにする。

これが男女人格の融合にある。

その前に、性エネルギー交流を「ツインレイの相手」を「自分」という認知の違いについて解説する。

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性エネルギー交流の相手の違い

前回、こんなものを描いた。

図の説明:男性と女性の成長の違い

引用:地上のツインレイによる男性人格と女性人格の分離と統合の課題

ここから第二チャクラにおける男女の違いが生じている。

図の説明:性エネルギー交流は「自分」と「ツインレイ」の違いがある
図の説明:性エネルギー交流は「自分」と「ツインレイ」の違いがある

もともとツインレイ女性が性エネルギー交流について書いているケースが多いんだが、性エネルギー交流は『合体』により生じている。(おいおい説明する)

この合体な訳なんだが、想像する通りの釣りバカ日誌的な合体でOK。

性エネルギー交流を起こすとは『男女の統合』を意味しているわけなんだが、初手の『男女共依存』という父と自分の統合状態のとき、ツインレイの相手へ依存を示している。

その状態と、ツインレイの相手へ依存を示していない場合、それが男性とは『自分』として認識する。

ここで「ツインレイの相手=自分」という方程式の問題が出てくる。いわゆる、ツインレイへのこだわりが消失されていくと、あれ、ツインレイだと思っていた部分って自分の異性人格ジャンという理解が進む。

しかし、ツインレイの相手への依存があると、依存とは相手を自分の一部だと思い込んでいることを意味しているのもあって「異性人格はツインレイの相手」だと感じるために、性エネルギー交流はツインレイの相手により起きている——と捉えることになる。

性エネルギー交流がツインレイにより起きました! というのは、ツインレイへの依存が残っていますねって話でもある。これを自立とは呼ばない。

しかし、現象としては『同じ現象』がおこりえる。単純に、ツインレイへの依存が残っている人は、父との融合状態をツインレイへ挿げ替えたような状態であり、確かに性エネルギー交流を起こすことになる。

ツインレイへの依存が残っていない人は、自分のなかに起こりえる全てが自分の現象である——として認識する為に性エネルギー交流を自ら起こすことが出来るようになる。

 

性エネルギー交流の相手を「ツインレイ」と感じるのか「自分」と感じるのかによって依存の有無を認識できる。

性エネルギー交流を自力で起こすための知識まとめ

じゃあ、男性人格が「自分」なのであれば、性エネルギー交流は自力で起こすことが出来るよね? って話になってくる。

自分のなかの人格が『男性人格』と『女性人格』として存在し、この男性性と女性性を併せ持つ人間として成立するとき、私たちは常に『男女の統合状態』という合体技が出来るようになる。

つまりなんだが、、こう、言葉を濁さずに言えば、竿を常に中に挿入している状態が常に起きつづけている状態——を男女の統合状態と言えるようになる。

女性側が男性側を心から受け入れ、男性側が女性側へ心から受け入れてもらえたとき、性エネルギー交流がおこりえる。

男性の性欲を女性が本当の意味で受け入れることが出来たとき、性エネルギー交流の基盤がずっと続いているっていうスペシャルな現象が起こる。つまり「常に挿入状態」を維持し続けているってことになる。

男性はずっとおせっせし続けていたいし、入れ続けていたい生物だって話だよ。

いわば、エネルギーが男性から女性に注がれ続けているんだが、それもまた男性であるために『常に循環し続けているエネルギーが存在している』って話にもなってくる。つまり、、そうだな。つまり、うん。常におせっせしてます! って話だ。

 

出し続けている状態が続く——というよりも、創造したいときに出すっていう方が正しいかもしれない。大事な時だけ出す。でも、それ以外はいつも挿入し続けている。

男性人格「いつだってだせるぜ。」

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性エネルギー交流の男女人格の感覚の違い

このとき、男性人格の感覚だと精を漏らさないことが大事になる。まァ、簡単に言えば「ださない」ことになる。BLとか読む人は知っていると思うが、出さないと逆流するって話だよ。これだよ、これ。

男性からすると「我慢する」のではなく、だしているが自分のなかに出すのである。

女性人格の感覚だと、常に出され続けている状態にある。これは「受け入れ続ける」ことになる。出され続けているのもあってこれは「男性に支配され続けている」ってことでもある。だけれど、それが持つ支配を受け入れ続けていくってことでもある。

これがデフォルト化するって話だ。

第二チャクラが完全に開花し、創造性を広げていくとき、私たちはとってもエロティシズムな世界にいる。まさに、言葉を詰まらせながら、私も敢えて言葉を選びながらもそれなりにストレートに説明しているが、経験としてはエロティシズムだ。

 

自分におかされつづけている状態を維持する。言ってて意味わからんのだが、自己完結とはこのようなことなのである。

ツインレイ女性にとって現実的な男性って何か?

では、このような自分のちんちんが自分のなかに入っている状態がずっと置き続けていることが性エネルギー交流として。

現実的な男性とは何か。ツインレイ男性とは何か——だが。遺伝子と言う現実的な種を持っている存在ってだけである。

単純に「遺伝子が優秀で気に入ればOK」ってだけの話。

男性からすると、女性のなかにある精神的な自立性とは、子供に対して提供される精神になってくる。

だから女性を選ぶとき、男性は「依存してくれる女性」を優秀な精神を持っているとして考える。依存とは「自分にすべてを預けてくれる女性人格を持っている」ということで、男性人格としては支配しやすい構造をとっている。

支配と依存の関係性で与え与えられるという相関性が成立している女性である人は『依存がある』のである。しかし、それが依存と言う支配であってはならない。相手に何かを与えてもらうことに期待しているのではなく、与えられているものを喜んで受け入れてくれる女性が子供に与えたい精神となる。

なぜならば、最終的には「統合者」が一番に優秀な存在へとなるため、統合者に近づきやすい精神を持っている女性が優秀な女性となる。

この遺伝子が優秀な男性と、精神が優秀な女性によるカップリングがツインレイだとも言える。

ツインレイ女性がどうしてこんなに性エネルギー交流にこだわるのかもわかる。それが「精神の優秀さ」を意味しているからである。

しかしトラップとして『依存』があり、

  • 共依存をしているのか(男性人格をツインレイの相手だと感じる)
  • シンデレラコンプレックスなのか(男性よりも優位に立ち、依存を否定する)

という依存による履き違えも存在してくる。

女性にとって男性は「種でしかない」のであって、ツインレイ女性にとってツインレイ男性は「種が優秀なら誰でもいい」みたいなところはあると思われる。あんまり関係ないねん。

なんなら、自分の男性人格と似ている相手を好きになるツインレイ女性にとって、ツインレイ男性は「ツインレイ」でしかありえないとも言える。

男性人格=ツインレイではない——という男性人格とツインレイの分離的認識が出来れば、次には男性人格=ツインレイであるということも理解が出来るようになってくる。

否定ができなければ肯定することも出来ない。先ずは否定せよ——という世界観なのである。否定する強さが依存を断ち切り、依存を断ち切った世界で自立した私たちは「真実」を見つけることができる。

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最後にすべてが起点に帰す

最後にはすべてが起点に帰すことにある。すべてが起点に帰すが、そのときの私たちは「私のなかに他者はどこにも存在しない統合者」として認識される。

ツインレイの相手も精神内に必要としないことが精神的自立である。

そして、現象においては『起点』と同じである。赤子の私たちが母子同一化を起こし、父子による共依存を起こしているように、私たちは私たちのなかだけで『同一化』と『依存』を構築することができる。

全なとりにより精神が構築されることになる。

そのとき、私たちが他者を必要としない。精神に他者など必要がないのである。

しかし、現実的には子供が欲しいと思えば「種馬」が必要である。

精神が統合されているとき、私たちは現実では多くの人たちと現実的な交流をしたいと感じていくことになるだろう。

私たちは現実に必要としているものがある。精神に存在しているものは『自分のみ』であるからこそ『他者』を必要とするのである。

それはワンレイへの到達を済ました後でいい。

私たちは、魂として独立したいと思っているし、精神として独立したい。その独立心は、己のなかに存在しているシャドウをすべて除去していくことであり、私たち自身が「たったひとつの統合者」への昇格をも意味している。

すべては精神のなかにあるのではなく、すべてが現実のなかに備わっている。