ツインレイの統合は『思いやりが当たり前』『男女の諍いがない』ことを意味していると思う。

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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ツインレイの統合は、ふたつの魂の統合を意味しています――と言われているが、それで魂の統合ってどういう原理なのか、そしてその影響は現実にてどのように表現されるのか。

それについてはほぼ記述なし。再会=統合とも言えるけれど、では、再会したとして、その後、どのように変化が起きているのか――ということ。

で、私は思うわけ。

それって男女間における思いやりが通じ合えるようになるってことなのだと思った。

男は男の考えがあって、感覚があって。女には女の考えや感覚がある。

なんなら人間にもそれぞれの考えや生き方がある。少なからず、私たちは上手くやっていきたいと思う人達の前では、譲ったり譲られたりっていう関係性がある。

たいてい自分が譲っている時、自分が譲ったのだ――という自負があるものだけれど、相手が譲ってくれているかどうかは分からないものだと思う。

自分ばかりが頑張っていて、自分ばかりが譲っていると、人は自分のことしか分からないものだから、相手が何をしてくれているのかは気づかないもの。

ツインレイは男女の問題でもあるから、男性と女性という性の壁を乗り越えて、自分のなかに異性性を持つことが少なからず相手が何をしてくれているのかを知ることが出来るようになると思う。

それに私たちは相手になにかをしていると思っても、それだって独りよがりの話で、相手がそれを喜ぶかどうかと言えば、不満しかないのである。

どう頑張っても男女はそういう仕組みとなっている。

不満と我慢と、独りよがりという自己満足。

でも、相手に独りよがりの自己満足を、ふたりで満足ができるという世界へと切り替えていくこともできる。

それは自分のことを相手の視点と言葉で表現することでもあるのかなと思った。

つまり同一化してしまうこと。まさに統合。

それが息をできるようにかることがツインレイの統合ではないかと思うんだ。思いやりが当たり前っていうか。

 

例えばなんだが、私が「江ノ島に行きたい」と言ったとして、相手は「無理だよ」と答えたとする。

ここで何が起きているのかっていうと「いつでもいいから、そのうち江ノ島行きたいね」って話なのに、相手からすれば「今すぐ江ノ島行きたいね」に聞こえていることがある。

相手が行動派で、自分が空想家ならば「江ノ島行きたいね」の意味がまるで違ってくる。

なんでこんな齟齬が生まれたのかと言えば、空想家は今すぐ行動したいわけではないし、行動するってことを目的にはしていないから、「いつか」の言葉が抜けてしまうんだ。

行動派は行動することが目的だから「いつか」とは思わず「計画を練る」ことを考えると「無理だよ」ってことになってしまう。

こんな感じで、会話は常にすれ違っていくことになる。ので、空想家はしょんぼりするし、行動派は相手を傷つけて終わるわけである。

空想家も「そういう意味じゃないのに」っていう不満が生まれ、会話が通じないと思うのだ。

これは空想家に行動的意識が芽生えれば「いつか江ノ島に行きたいね」って言い方ができるようになるし、行動派も「それならば、来年に予定を立てようよ」って話が発展的になる。

空想家と行動派のすれ違いは改善され、お互いのメリットを活かし合うことが出来る。

でも、これが出来るようになるためには、空想家が行動派の視点を持つことと、行動派が空想家の視点を持つことが重要になる。

つまり、お互いの共通点となる相手の素養がなければ、相手にはまるで通じないのだ。

ツインレイの統合後は、今までは通じない、スムーズにいかなかった理由が改善され、相手と共存スタイルが確立されることになる。

それは一方が我慢する、一方が押し付けるのではなく、互いが活かしあえるという世界観である。

これが統合であり、私たちはこのとき、シャドウを統合していく必要性があると考えられる。

 

私たちはある時ごとに、自分の性格を決定していく。

たとえば、空想家へ進む人たちは行動派の意識ある人生を切り捨てたに過ぎないのだということ。

つまり、行動派の人たちは、空想を切り捨てたに過ぎない。

目の前に存在する人物とは、私たちのある側面に過ぎず、今まで自分が選ばなかった人生を生きている存在なのである。

出会いとは常に自分が選ばなかった人生を生きている人との出会いとも言えるのかもしれない。

その人生を生きている人たちの意識と統合されているとき、私たちは常にコミュニケーションが成立するのである。

この統合とは、分離と結合により生まれ、相手が自分が持つ秘めたる性質を発揮しているに過ぎない。

 

つまりなんだが、人生で切り捨ててきた自分という存在を自己統合していくと、相手との共存が可能なのである。

統合とは相手とのコミュニケーションが上手くいくってことであって、相手の気質が自分の中にあるのだという大きな気づきに他ならないのだ。

誰かを憎むということは、自分のひとつの側面を憎むことでしかない。

ツインレイにも同じことが言える。そして、ツインレイは最も大本となる『この世に生まれてくる前に選択を真逆にした存在』と言える。

産まれてくる前に選択を真逆にしたっていうのは男女とも言える。

性別がこの世にあるとして、その性別をまずは真逆に決めて生まれてくる。

私たちは胎児の時から性別を決定的に真逆に決めた存在であるのだから、ツインレイとは相手を『自分とは性別が真逆の存在』というよりも『自分とは別の性別の選択をした存在』というほうがしっくりくるのだと思う。

この世の究極の二分は性別だからである。

このふたつの結び付きが恋愛や結婚であるならば、確かに私たちは『真逆の存在』なのだ。

つまり、あなたは男を選択したけれど、私は女を選択した。だから真逆だね≡⊂( ^-^)⊃って言っている。爆

ゆえに、ツインレイが男性性と女性性を結合させ、両性具有となるならば、

あなたと私は同じ霊だけれど、男と女の選択を別にした、だから別の選択を統合する

っていう話になる。

サイレント期間中に私は彼の人生をリフレインするように体現していったけれども、このとき、私は私が男の子だったらどんな人生だったのか? を統合していったに過ぎないのである。

ツインレイの相手に対して私は「自分の男の子バージョン」って思っていたんだが、つまりは私が男の子を選択していたら、私は彼だったのだ。

シャドウの条件だが、

  • 大元の要素が同じ(一致)
  • 大元の要素に対して生じる分岐点の違い(不一致)

によって、生じるものだと思われる。

ツインレイの場合は

  • 霊の一致(魂の一致)
  • 男女の選択(どちらかの性別を得る)

により、ツインレイはシャドウ的存在なのだと思われる。

うまく会話が噛み合わない理由も男女の違いによるものではあるが、しかし、私たちは異性性を選択し生まれてきた可能性を統合するとき、私たちはツインレイとして統合されたとも言えるのではないだろうか。

また、統合されるとき、私たちは男女の諍いにより生まれた負による問題が解消されるのである。

なぜならば、男女が統合するのである。男女が統合するのに、そこに異性間における諍いがないということ。

いわば、男女のコニュニケーションが円滑になるってことである。

ツインレイが男女において生じるものならば、異性間の課題をアセンションしているってことになる。それ以外についてはノーアクションとも言える。

つまりなんだが、ツインレイとして統合している夫婦は、一切揉めないってことでもあるんじゃないかなと思った。不満もなければ、独りよがりにもならないっていうか。

諍いがないから統合しているんだもの。

統合してたら、絶対、ケンカなんてしないよね。だってそこに隔てている問題がないから。