期待が打ち破られて恋が終わり、ツインレイからの愛に恐れを抱いて逃げ出したこと。
Kindle版
さよなら、ツインレイ
当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。
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前回、ツインレイの彼へ対して「期待している」と自覚した。
そして、私のなかにある『他者への期待』を理解していく。
先日、友達とモメた件。この件に対して感じたことがあって。友達は私と縁を切ろうとはしないって思っていた。でも、自分の都合が悪くなると言うか、自分を傷つけている(という思い込みだが)と感じたら、ブロックされてしまうわけで。
そのことにちょっとショックだった。今まで私は、友達に対して嫌なことを言われたりされたとしても、ブロックするという選択肢はなかったからであり、彼女もきっとそうだろうという思い込みがあった。
だからこそ、傷ついた。彼女が簡単に私と縁を切ってもいいって思っていることに傷ついた。そうやって私は「目が醒めた」わけなんだが、私は本当の彼女をちゃんと見ていたわけではないんだろうなと思った。
等身大の彼女は「誰だろうが自分を傷つける存在は切り捨てる」わけであり、それが彼女自身なのだと思う。そして、そういうことをする人なのだと思う。
これは私の期待なんだと思った。
私は彼へ期待していた。彼が私のことを未だに思っていてほしいと期待していた。だけれど、これは「私が彼に一方的に未だに引きずっている」だけの話であって、彼はまた別なのだろうということ。
これは私が持つ彼への期待で、それは私と同じであってほしいと言うことだ。
期待とは「私と同じであってほしい気持ち」であって、相手を直視しているわけではなく、相手のなかに自分がいることを見つけたがっているんだと思う。そして、相手のなかに「私」がいるだろうと思っている。
少なからず、友達のなかに「私」はいなかったのである。友達のなかに私が見つけた私がいなくて、私は期待していたものではなかったことを理解した。
これを「傷ついた」とするのであれば、それは本当におこがましい話だなと思った。
自分の思い通りではないことに傷ついても仕方ないわけで、他人は他人なのだ。どこまでも他者とは他者で私と同一になることはない。彼もまた同じように、彼が私と同一ではないのだということである。
それでも、私のなかに「彼」はいたし、彼のなかにも「私」がいた気がするから、これは「期待に応えている」のかもしれない。
傷つきたくないと思う気持ちはあるけれど、でも、そもそも「自分と同じ存在なのだ」という思い込みが無ければ、誰かに傷つけられることはない。
いわば、あなたが私と同じである期待が打ち破られ、裏切られるとき。私たちは私たち自身を傷つけられたような気がするのだ。
あなたがもしどんな残酷非道なことをしていようが、あなたのなかに私を見つけようとしなければ、私は傷つくことはない。あなたは私ではなく、私が私であろうとすることが傷つけられるわけではないのだ。
私のなかにいる「私」という存在が、あなたのなかにあると思っていた。勘違いしている。
ツインレイ。そのとき、私はあなたのなかに私を思い続けている私がいると思っていた。だけれど、そうではなかった。それが事実なのである。そして、それが他者であり、彼が「彼であること」なのだ。
そして、彼が彼であることに私は傷つくのである。
彼といっしょにいて傷つくこともしばしばあったが、なぜ傷ついたのか。
それは、私と同じではなかったからである。
共依存者と回避依存者が傷つけ合う理由は「双方のニーズが合わない」ことにあるとされている。だけれど、私はこのように思う。あなたが私ではないことに傷ついている。
共依存者は、相手が共依存者であることを望み、回避依存者は、相手が回避依存者であることを望んでいる。
しかし、そうではないという事実に傷つくのである。他者が自分とはまるで違う宇宙人であることに私たちは傷つき続けている。
一切は、自分の中にある認識が狂っていることにある。
あなたがあなたであることがおかしいわけではないし、私が私であることがおかしいわけではない。
そして、私は「彼を愛しきった」と思った瞬間があった。それは、彼が回避依存者として回避しまくる彼を受け入れ切ったときである。私は彼のすべてを丸ごと認め尽くすために1年半ほどの月日を要した。
しかし、私は「彼を認め切った」のである。同時にこれは、私は彼との関係性が破壊されることにもなった。
私たちは、あなたのなかに「私」を見つけるがゆえに関係性が生じているところがある。ゆえに、あなたのなかに私がいないのであれば、では、どのように付き合えばいいのかがわからないのである。いわば『無音』なのだ。
恋とは自己投影により生まれる。あなたのなかに私がいるから恋をする。
しかし、あなたのなかに私がいないことを理解すれば、私たちはどのように相手と接すればいいのかがわからない。
それは「彼を愛しがゆえに見えた世界」である。
彼を愛しきるがゆえに、私は、彼の中にいる私を見失った。
恋は終わり、愛が始まったのだ。
しかし、私は「愛し合うこと」がよくわからなかった。
愛し合ったことなど過去に一度もない。ほとんどが私のなかに自分を見つけた人が私に恋に落ち、私もまた、誰かのなかに私を見つけたからこそ、誰かと恋に落ちたのである。
私は「愛」を見つけるたびに、すべてを終わらせてきた。否、終わってしまうのである。彼もまた同じである。
恋の終わりにやってくる愛は破壊だった。愛はふたりの関係性を終わらせる存在だったのだ。
そして、彼に愛された瞬間、私は恐れを感じた。とても怖かったのだ。
等身大の私を直視されたことに恐れを感じた。
今まで隠しきれていたものがすべて暴かれたかのように、とてつもなく怖かった。
恋はよかった。何もばれない、なにも暴かれない。本当の私がバレることがない安心の中にいる。
だけれど、愛は本当の私がバレてしまう。
なんなら彼にはバレてしまったのだ。
彼は夢から覚め、本当の私がバレてしまった。恋の魔法が融けてしまったし、なんなら0時の鐘が鳴り響くなか、私はガラスの靴さえ落とす余裕もなく走り去ったというような気がする。
私は、愛されてしまったのだ。その愛は、まっすぐに私を見ている。愛に耐えられなかった私は逃げ出した。
本当の私と向き合わなければならないときがきたのだ。
サイレント期間とは、本当の私と向き合う期間。
私のなかにいた「彼」は消えた。なぜならば、彼は私が作り出した理想の姿をしている。それは私自身のことである。
サイレント期間に私のなかにいる彼と向き合う私は「私と向き合っている」のである。彼は私なのである。
そして、此度「彼と向き合いきった」のだと思う。
否、私が思う彼と言う理想という私自身と向き合ったのである。
私のなかにいた私が彼であり、彼は私と一体化して消え去った。
私は彼への期待を失い、彼がどのような存在なのかすら理解ができない世界に立ち尽くしている。
この世界に、私以外に「私」という存在はいないという事実を知る。ものすごく当たり前の事実ではあるのだが、私たちは「私を探している」のである。恋とは「私探し」なのである。
私を見つけ、しかし、それが私ではなかったことに私たちは傷つく。しかし、それは事実である。私たちは事実に傷つき続けているに過ぎない。
自分は自分しかここには存在しない事実を認めた暁には、私たちは恋に落ちるだなんてことはないのかもしれない。
そして、恋に落ちたあなたから畏れて逃げ出すとき、私たちは、本当の私がバレたくない想いでいっぱいだ。
しかし、すでにバレているのである。バレていることを受け入れなければならない。
それは、私がこの世に「ひとりしか存在していない事実」を受け入れることだ。
そして、私がこの世にひとりしか存在していない事実を教えてくれていることこそ、愛だと思う。
私は私でしかなかった。あなたは私ではなかった。
ツインレイ。それは、あなたが私ではないという事実を知ること。
そして、それが成せるのは愛でしかない。あなたがあなたであることを全て受け入れることだけでしか、私たちがたったひとりの存在でしかない事実を理解することは出来ない。
愛とは「あなたがたったひとりの存在」である事実を教えてくれる。
私たちがもし「この世でたった一つだけ」という部分に価値を見つけることがあるならば、きっと私たち自身に価値があることを教えてくれている。
それがツインレイの愛だと私は思う。
そして、その愛を受け取ったときの私たちは「この世でたったひとり」という価値を手に入れるべく、サイレント期間に入るのである。
自分の価値を認識し、自分の価値を受け入れ、私たちは「ひとつ」になるためにである。
ふたたび出会う際の私たちは、きっと「この世でたったひとり」として出会いなおすことになるだろう。
そのときの私たちは、あなたのなかに自分を見つけることは出来ないし、恋に落ちることはできないかもしれない。期待することも出来ないし、何かを求めることも出来ないかもしれない。
同じ分だけ傷つけ合うことも出来ないし、傷つくことも出来ない。
あなたがあなたであることを受け入れ、尊重し、そしてときには発見に喜びを感じながら生きていくことができる愛のある世界が生まれてくると思う。
愛=心受
ツインレイが双子であるとき
心——受
一方通行な関係性である。
ツインレイがワンレイを受け入れたとき
受——心——受
これが共感である。