PNSEかな、思考がなくなりました。未来を創造する「確信」の話。

Kindle版
さよなら、ツインレイ
当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。
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少し前にPNSEについて取り上げています。
今まで私の頭の中をすべて吐き出してきました。
今回、すべての人格が統合されたかな。
思考がなくなっている体感をして、ちょっと驚いています。
今まで雑念とかあったと思います。
頭のなかに彼が住まい、過去は巡りかえり続け、私はいつだって過去の住人だった。
しかし、今の私のなかに「誰か」という存在がいないような気がします。
そして、統合された私は、思考がない。
これは「思考停止」という状態にいくばか近く、違和感しかありません。
ふと気づいたとき、思考がありません。
いつもはふと気づいたときに思考があることに気づきます。逆です。
思考しようとして思考することは簡単です。
頭の中の対話がありません。誰もしゃべっていません。シーンって感じです。
今まで「やろう」と思って行動したりとか、思考を元に生きてきました。
そこには何かしらの基準があったといいますか。
正直、ここまで思考がないと「何したらいいのかわからない」というような感覚すらある。
とりあえず、公式ライン作ったので貼り付けています。よかったら、公式ライン登録してくださいペコリ(o_ _)o))
最近は、徐々に思考も減っていました。雑念も減ってたし、考えていない時間もいっぱいあります。
人は、こんななかで生きているんだなって思いました。
水の如く、静かな心です。
今まで「こうしたい」とか「こうしなきゃ」とか。そういうことに囚われていたのだと思います。
でもすべてが煩悩って言いますか、欲だったのではないかと思います。
彼とのこともそう。すべてが欲だったんじゃないか、と。
今は、私自身が今「私であること」に満たされている。
今、この現状。この瞬間。そして、過去と未来があって、その道をどうにかこうにかしてやろうだなんて思いません。
自分の思い通りにさせようとすら、自分の人生に感じません。
随分と私は足掻いたような気がします。
こうなりたい、こうあるべきだ。そんな私になろうと、足掻き続けてきた。
すべてが遠回りのように感じられますが、一周まわったんだなって思いました。
足掻き続けて一周まわって、偽物の自分が樹立し、同時に本物の私が樹立したような感覚がします。
偽物である自分が明確にわかったならば、本当の自分が明確にわかります。
人は比較することでようやく『自分』を知るものかもしれません。
今まで、自分の人生を返してほしいと思っていました。
ようやく返してもらえたんだなと思います。
縛られていたのだと思います。家族とか、神さんとか。私の人生が奪われていた。
それさえも、今は私の人生だったと思います。
憎しみさえ込み上げる感情がありません。
今は、生きているだけで、それだけでいいのだなということがしっくりきている。
何かをしなければならないとか、何かを為さねばならないとか。
使命にかられる感覚は、最初から私にはよくわかっていませんでしたが、私のなかで、私が望むこと以外しなくても構わないという感覚があります。
私は生きているだけの虫の私を生かし続けていくだけでいい。
毒にも薬にもならない、ただの水であっていい。
息をしているだけでいい。ただ、ここに私が地上のうえに立つことが全う出来ているだけでいい。
そうやって思考が消えていくのだと思います。
思考を生んでいたのは、死への恐れに近いところがあります。
それは『恐怖』と、恐怖を再び経験するのではないか——という『不安』。
そして、どうして私たちが恐怖を感じるのか。
それは「死にたくないから」です。
死にたくないし、生きたい。生への貪欲さを持っている私たちは、いつだって死にたくない。
それは、もしかしたら「今、生きていること」を肯定することが出来ていないからなのかもしれません。
今、この瞬間、私たちは思考することはありません。
思考は常に過去と未来に存在しているように思うのです。
つまりは、過去に分離した人格たちが思考を生んでいる。
その分離した人格たちがどうして存在しているのか。それは恐怖が由来しているのではないか——ということ。
自分の命を脅かされた時代を乗り越えた私たちは、心が分離しています。
分離して恐怖への鈍感さを持つべきなのか、それとも、恐怖を抱き続け、誰かに過剰な自己防衛を攻撃とするのか。
どっちにしたって、そこには『思考』が生まれます。
私たちはいかに生きるかを考えている。
でも、気づかなければならない。
私たちは、今、生きていることに。
ただ、それだけのことなのかもしれません。でも、そんな簡単なことに気づけない。
私たちは今、脅かされることもなく、今、存在し、生きていることが私たち自身が理解することができない。
自分が今、安住の場所にいること。今、安定の場所にいること。それだけで私たちは満足できている。
つまりは、必要がないのです。
そこに存在する恐怖。
それは未だ、私たちの身に押し寄せているわけではありません。
今から恐怖する必要性はないのです。しかし、私たちは恐怖を感じ、何かしらの予防線を張ろうとします。
それを『取り越し苦労』と言うのかもしれません。
今、予言の類があるけれど、そこに『苦しみ』『恐怖』が存在し、その苦しみや恐怖を呼び起こし、なんとかその恐怖と向き合うように——と言われているよな気がしてなりません。
その恐怖は、未来に向けた予行練習ではありません。
その恐怖は、私たちのなかに存在している地獄の在り処でしかありません。
私たちは、先んじて未来を体感することは出来ません。
私たちは『今、自らの中に存在する恐怖の地獄』が存在していることに気づくことができる。
今、気づくべきこと。
それは、今日も私が腹八分目まで腹が満たされたこと。
そして、朝寝坊して昼の二時まで寝てしまっていたこと。
テレビを見て、家族で笑っていたこと。
今日は、そんな日でした。とても平和でした。
もしかしたら、この日々がどこからかの脅威で脅かされることがあるのかもしれません。
しかし、今日、脅かされていません。それだけでいいのだと思います。
今の私が恐怖に脅かされ、戦々恐々としているわけではない。
それが事実であり、それだけを見つめればいいことでした。
もしかしたら、明日、ミサイルが飛んでくるかもしれません。
もしかしたら、明日、地震が来るかもしれません。
もしかしたら、明日、死んでしまうかもしれません。
いつどこで何があるのかを誰かが知っているかもしれませんが、私の明日を一番に知っているのは私自身です。
早くに気づくべきでした。
私の明日を、私が一番に知っているのです。だって、私のことだから。
私の明日も平凡です。今日のような日々が続いていきます。変わらない平和が私のなかにあるからです。
明日、何かがあるかもしれません。しかし、それが「私の身に及ぶ」ということはありません。
私の世界は常に平和に保たれ、私の心もまた平和に保たれているからです。
明日、恐怖があなたに及ぶかもしれません。
その光景を私は、どこかで知ることがあるかもしれません。
そのとき、私は胸を痛めます。あなたの苦しみや恐怖に、私は共感を示すからです。
どこかで援助をすることもあるかもしれません。私の財政はそこまで良いものではありませんが、差し出したいと思っています。
私は、自分が平和な世界にいるからと言って、あなたの世界が恐怖の世界であることを見捨てたいとは思いません。
それは、いつかの私がいた世界です。その世界がどれほど苦しいのかを私は知っているから。
そして、もし、万が一、私自身の平和な世界が破壊され、恐怖の世界に飲まれてしまうこともあるかもしれません。
そのときは、共に苦しみましょう。共に生きましょう。共に恐怖のなかで震えましょう。お腹ぺこぺこになりながら、いっしょに徘徊して分け合いましょう。
でもこれもまた「いつかの明日」の話で現実ではありません。
そうなる日がやってくることはありませんし、なるだなんて確証もありません。
考えても取り越し苦労な話だと思います。
大事なことは、今日もお腹が満たされたことだと思います。
大事なのは、今日も何事もなかったことの方が大事です。
その意識へシフトすることができたならば、明日もまた何事もありません。
明日もまた何事もない良き日がやってくることでしょう。
でも、別に、私はお腹が満たされてなくてもいいんです。
もし、私のお腹がぺこぺこだったならば、それは皆も同じぺこぺこだと思います。みんな、いっしょです。それでいいです。私は日本人ですし、日本と共にあります。
みんなといっしょに一斉に死ねる日がくるのであれば、それはもう本望なのかもしれません。
科学は確証をくれるかもしれません。
しかし、今の私たちに必要なのは確信だと思います。
何を信じるのか——です。確かに、それは『信じる』ですから、それは確証はありません。立証も出来ません。
私は明日も私の身の安全を『確信』しています。これこそが人の持つ明日を作り出す力だと思います。
そして、日本人は『確信する力』が強いのかもしれません。だからこそ、恐れられる民族なのかな? とも思います。
確証よりも確信のほうがエネルギーが強いのかなと思います。
もし、日本人が神だと言われるのであれば、それは確信する力が強いことを意味していると思います。
その確信を「どこに向けるのか」の話です。
どこに向けたならば、私たちの安全や安心が生まれるのか。
大事な人を守り、自分を守り抜くことができるのか。
信じる心をどこに向けることが、誰かを守ることになるのか。
私たちは、少しネガティブな情報に触れ過ぎたところがあるように思います。
それでも、確信がどこに向かうのか。私はどうしても「何事もない方へ」と確信が向かってしまう。
確信は、否定ではありません。肯定でもありません。たしかな実感を持って『ここ』に定まる確かな未来への信仰があります。
私たちは、誰かを信じたり、科学を信じたりすることもありますし、情報を信じたりなどがあるかと思います。
でも、もしかしたら『カタチあるもの』を信じるばかりでは、それは『ネガティブな世界』を構築していくものかなと思います。
「明日も今日と同じく平和です」という予言を誰も信じることがないからです。その情報に誰も価値を見つけることがないからです。
平和はカタチになりません。感情になりません。恐怖という具現化された感情エネルギーを生み出しません。人の気を引くことはできません。
平和は何も生み出しません。何も生み出さない未来を私たちは望むことがなかなかできません。
何かしら感情に引っ張られているから、感情が生まれる方へ流れてしまうから、人は平和な未来を予言することがなかなかできない。
冒頭に戻ります。思考とは感情から、恐怖から生まれます。
そして『事実』は『事実』と存在しています。
その事実は、そこにあり続け、自分が何をし、自分がどのような経験をしたのかを消すことは出来ません。
私たちは、確信と共に事実を見つめていかなければなりません。
私たちは、未来に確信を感じ、現在により事実を作り出し続けています。
私はニュースを見たほうがいいと思います。世界で何が起きているのかをちゃんと見て、ネガティブな情報であっても見て、何かを感じていったほうが確信の方向性を定められると思うからです。
ちゃんと事実と向き合ったほうがいい。
そして、確信とは事実を捻じ曲げるものではありません。今、起きている現実を捻じ曲げる力ではありません。
未来を捻じ曲げることはできるかもしれません。しかし、確信は今、現象として起きている事象を見なかったことにしたり、なかったことにするための魔法でもありません。
確かに、今、色々な天災が起きているし、経済関係でも多くの大変なことが起きています。
それでも、大事なことがあります。今日も私のお腹が満たされたことです。
安全な場所で眠っていられることです。今日も平和だったことです。
その『事実』です。この『事実』が思考によって奪われます。恐怖の方へ流されていく。
私たちは、どうしてか不幸な未来のために、今、平和となっている事実を犠牲にする。
だからこそ、今、平和であること。今、お腹がいっぱいであること。飲めるお水があること。まだ起きていないことに気を揉むよりも、平和であることに感謝を感じること。
これが私たちの未来を『平和である確信』に切り替えていく力だと私は思います。
私は「今、生じている事実を大事にすること」と「未来への確信を持つこと」が大事だと思います。
未来は未確定です。未来は私たちが作っています。
その未来を受け取っていきます。私たちは事実に対して感じることを忘れず、苦しみを感じ、乗り越え。そして、未来への確信を取り戻すべきだと思います。
未来は希望です。未来にしか希望はありません。その希望を見つけるために、私たちは確信を持つべきです。
それは「未来を信じること」なのだと思います。
私たちの未来は、私たちの意識が作っています。
それでも、起こるべきことは起こるのだということ。それを受け取っていく。その道を進む。
私ひとりの確信だけじゃどうしようもないものがたくさんあります。未来を防ぎきれないものだってたくさんある。
起こるべきことが起こります。受け取る覚悟をして受け取っていきます。
苦しむかもしれないし、死ぬかもしれませんし、そのあたりはまだよくわかりませんが。
それでも、生きていくしかないんですよね。何があっても生きていくしかない。
未来に、どんな不幸が待ち受けていようが、私たちは生きていくしかない。その事実を受け取ってきていくしかない。
なにか予防をしろと言われても、その予防がもしかしたら『未来』を構築しているのかな? と感じざるを得ません。
それからもうひとつ。
私と同じように日本にいくばかは、同じように「確信」が出来ている人がいるように思うのです。
それ以外の普通の方々は「特に何も情報に触れていない」という世界にいます。
そして、そういったネガティブ情報に触れている人も多くいます。
確信へと向かう人たちは、ネガティブ情報に苦心しながら『確信』へと至っていきますが、そのなかでも、ネガティブなほうへ進むと確信している子たちと、平和なほうへ進むと確信している子たちに二分されています。
ここに関係しているのは『信仰』です。平和な方へ進むと確信している子たちに対して、私たちは信仰心を持つことはありません。普通だからです。明日も幸せだよ、明日に何か起きることはない、平和だよって思っている子たちが普通ですし、本来あるべき姿の人の姿をしているように思う。
ここに関係してくるのが『欲求』です。
人はバカでいいです。何も持っていなくていいです。ただ「確信」すればいいだけ。
確信の方向性を間違えているのであれば、そこには『欲』が関与している。
で、その欲に溺れた欲求不満な子たちがたくさんいるのだよ。そして、それを道具にしたり、それを信仰したりする子たちもいる。同じだよ、そこには『満たされていないもの』が存在している。
生きている。ただそれだけでいい。それが満たされていない。だから欲求している、恐怖を。
恐怖は「生きている」を実感するのに、てっとり早いやり方だよね。
そんなんしなくても大丈夫。あなたは生きている。
だからさ、多くの人の望みが具現化されているに過ぎない。
人が「生きているのを実感したいがゆえに恐怖を望んでいる」ことに付き合う必要性はないと思っている。
知らんがな、勝手にやってくれ。それは私の望みじゃない。
それでも、その欲求には同情するよ。生きていることが実感できない世界にいたのは私も同じだから。