無条件の愛とはツインレイがどうでもよくなることなのか。彼が好きって気持ちが優勝でした。

2024年10月28日

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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無条件の愛と「ツインレイのことがどうでもよくなる」は、表面的には同じような状態になる。

 

好きとは「相手をよく知りたい」に繋がっている。相手がどうして相手になったのか——という背景を知りたいと思うのが好きだとしたならば、好きな人のことはよく知りたいと思う行動が生まれる。

無条件の愛は、相手をよく知ったうえであなたを愛していると言葉にする。

そして、ツインレイたちが語る「ツインレイの相手がどうでもよくなる」だが、同じような状態に陥る。

無条件の愛は相手を野放しにするところがある。いかなるあなたをも受け入れているからである。

どうでもいいとも同じである。何も言わない、どうでもいいから、ほったらかしである。

 

たとえば、我が子は心配するけれど、隣人の子が風邪をひいたとしても「へぇ、そうなんだ。」という気持ちになるような感じだろうか。

ほかにも、テレビのニュースで誰かが殺されたとしても「へぇ、そうなんだ。」という気持ち。どうでもいいから「へぇ、そうなんだ。」で流していく。

無条件の愛は、隣人の子が風邪を引いたら「辛かろうに」と思い、誰かが殺されたら胸を痛めることにある。その背景を想うからである。

私が今年初めの地震に興味が持てずに恥じた自分がいた。何も思わず、なんなら数日間忘れていたほど。

そんな自分に恥じた理由は「その地に生きる人たちを想う心」が欠けている自分を恥じた。

無条件の愛がそこにはなかったからである。

 

ツインレイに変えてみようと思う。

ツインレイの相手がいかなる存在であれども受け入れることができることと、(他者愛)

ツインレイの相手がいかなる存在かにも興味なく受け入れることができること。(自己愛)

ツインレイの相手が「どんな人なのか」を知りもしないうえで「愛している」と言葉にすることは、それはどうでもいいってことだったんだなと思った。それは自己愛である。

 

私は彼がどんな人なのかを知らないんだと思う——と言葉にしたことがある。

本当にそうだったんだろうかと今一度考え直してみたいと思う。

今、自分のなかに「男性原理の自分」を自覚した。

これは『男性の私』だと思われる。(両性具有性の精神として)

色々考えてみたんだが、私のなかにいるんだから「私」以外には在りえないし、誰かにアクセスしたわけでもないんだから「私」であると考えるのが普通かなと思われる。

引用:ツインレイの彼ではない『誰か』に繋がったんだが、、?(追記:男性性の私だと思われる話)

私は彼を知っている。それは気配的なものではあるんだが、私は彼を知っているから、私は私と彼の違いがわかる。

私は彼を好きだったんだなと思った。

私は「私」が好きだったわけじゃない。私は「彼」が好きだった。

だから、私のなかで「これが彼なのか」を直感的にも理解することができる。

私は自分のことが好きだったら、自分の投影を愛し、好きだったという自己愛ではなく。

私はちゃんと彼のことを好きになり、彼のことを「自分とは違う存在だった」と自覚したんだなと思う。

 

つまり、ツインレイの相手のことがどうでもよければ、自己投影により生まれた彼(妄想とか幻聴・幻覚)を自分として認識していくんだと思う。

ツインレイの相手のことが好きだったわけじゃなくて、自分のことが大事で、自己保身のために好きだったら? それは『自分を好きになっただけ』ってことなんだと思う。

ツインレイの相手は「ツインレイとしてずっといっしょにいる」ことになる。妄想として、ツインレイという肩書が無ければ「いっしょにいる意味がない」のである。

だって、好きなのは自分だからこそ、ツインレイである肩書きが無ければ「自分と結婚すりゃいい」って話になってしまう。

ツインレイでなければならないのである。そりゃツインレイであることを手放すことは出来ない。

 

 

 

ツインレイは愛を試されていたわけではない。

ツインレイは「自分ではなくて、相手を本当の意味で好きだった?」ってことだったんだと思う。

好きな人を好きになることが本当に難しいことなんだなと思った。

だって、好きな人が投影により生まれているとき、私たちはただ単に「自分が好き」って言っているだけなんだから。

 

上記の通り、ツインレイのことを無条件の愛で包んでいるとき、私たちはその人のことが心底好きだと思う。その人のことを自己投影ではなく、そのままの姿の相手を好きになっている。

だけれど、ツインレイのことを自己愛で投影しているとき、ツインレイのことは「どうでもよくなる」。

だって、自分のことが一番に好きなんだから、ツインレイのことはどうでもいいよね。これが本当に無条件の愛なのか。

また、無条件の愛はこのようにも言っている。

自分のことが一番に好きなあなたを、ツインレイのことがどうでもいいあなたをも受け入れています、と。

そんな私を、私は受け入れていく。

本当のあなたを好きになった分だけ、私は本当の私を好きになる。

そして私が一番に好きな本当の私を、本当のあなたは好きになる。

恋のマジック✨(∩^o^)⊃━☆゚.*・。

つまり、回り回って「自己愛によりツインレイを語る」自分をも受け入れるよ≡⊂( ^-^)⊃

 

いつかの私のもうひとつの世界線である。

究極の恋愛、ここに現れたり。