自分のなかにツインレイ(男性原理)が現れたが、だからどうした感パない。

Kindle版
さよなら、ツインレイ
当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。
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※やさぐれなとり
え、マジでみんなここを目指してんの?
そう思うと、いや・・・・・・。なんていうのかな。特にこの領域に達したからと言って『何かある』わけでもないと思われる。
ただ、自分のなかに男性の自分がいて、その男性の自分が現実に存在しているとかもない。
魂の繋がりがあるとかもないし、この世に現実に『存在している』ってことはないと思う。
でも、たぶん、ツインレイの人たちが目指している部分はここだと思う。
自分のなかに『異性性による自分』が存在していて、その自分を『自分』として受け入れていくこと。
当初のツインレイについてリサさんが書いていた内容も両性具有の話だったよね。
前に、自分のなかから男性の声が聞こえるとのことで、現実にその相手が存在している等の話を読んだことがあるんだが。
そのときは言及を強くしなかったんだけれど、個人的な感覚として、、ね。
私が思ったのは、精神内に起きている出来事を現実に無理くりに転換していくところも出てくるから、もし、ツインレイの相手がそこに現れた! これは自分のなかで繋がっていた相手だ! と思っても、その相手に無理くりに変換するから説明のなかに個人的に、、ほぼ直感的なものに近いんだが『無理』を感じられた。
論理性は競えるもんなんかもしれん。
そこには辻褄性の合わない嘘があって、その嘘を自分でも無視してスピリチュアルに傾倒しているのかな? と感じられたんだ。
辻褄性の合わない嘘って何かっていうと、ヒョンなところなんだけれど、勝手に自分の都合の良いように解釈していくのは人のいいところでもあるんだけれど「相手がツインレイだ」と思いたいがあまりに、無理やりにでも合わせたくなっていっちゃって、心理的には弱さがそこで露見されてしまう。
私が感じたのは、その「弱さ」みたいなものだと思う。自分に嘘をついている感じ。
つまり、異性性による自分を受け入れるまでに『現実にはツインレイは存在しない』に到達していく必要性があって——。
ツインレイとは何か——なんだが。
個人的には、ツインレイの相手とはやっぱり「ツインレイ」だとは思うんだけれど、でも、自分自身のなかにある異性性を受け入れることが先手にあると思う。
両性具有性を自己のなかに理解するためには、ツインレイからの自立が必要で、ツインレイから自立することは異性性が自分のなかに認められたときに「ツインレイの相手だ!」と誤認することを回避することにも繋がっている。
つまり、ツインレイから自立するってことは大きな意味があって、自分のなかにある異性性を誰かに現実的に誤認することがないようにするための措置だったんじゃないかと思うんだ。
でも、ツインレイから自立することが無ければ、現実に「ツインレイを探し求める」「ツインレイを追いかけ続ける」等のことが起き、自分に生じている不思議な現象、ツインレイから話しかけられた幻聴、ツインレイの姿を隣に感じたとかの妄想性を発揮してしまう。
ツインレイから自立していれば「いや、妄想だから」と一刀両断することができるゆえに、自分自身のなかに異性性を認識しても「これは自分だな」と理解することができるんだけれど、ツインレイから自立していない自分をツインレイだ! 現実に存在しているあなただ! と思ってしまう。
つまり『個』はどこまでいっても個であるというのに、ツインレイたちはどこかで『誰かと繋がっている』ことを求め続けているとも言える。
先ずは『自分が個であること』を認めることが出来なければ、次に『自分が全体性であること』をも認めることは出来ない。
そして、誰かと繋がっていることは、誰とも繋がっていないことを理解していなければ理解できない。
ツインレイたちが理解するべきは「誰とも繋がっていない事実」を理解する必要性があって、一先ずシャドウを終わらせていく必要性があるのだと思われる。
シャドウは投影なんだが、現実に存在しているツインレイという存在に自分が持つ異性性を投影して追い求めている限り、自分の異性性へは到達することができない。
だから「ツインレイから自立すること」は目下の目標にあげられ、ツインレイから自立したおりには自分に起こりえるすべての出来事を個として捉え、自分の内的世界に生じている問題なのだと理解することが出来るようになる必要性がある。
現実と精神は別物であるのだが、この部分で同一化しているとき、私たちは妄想性へと傾倒する。
精神を現実に転写させようと、一生懸命投影をしたところで「投影は投影」である。
精神内に男性を認識し、現実に転写させ、一生懸命、現実に存在する人物に『自分の魂と繋がっているツインレイだ』と投影をしたところで、投影は投影に他ならないということ。
それには無理が出てくる。
母親が夫代わりに子供を求めて夫のように子供に接するように求めたところで、それは夫ではない事実がある。
単純に、その事実を理解することが『精神』と『現実』による投影により理解がなかなか難しくなってしまうということ。
現実は現実、精神は精神。この区別がつくとき、私たちは自分の異性性をも含め、個であることを理解できる。
しかし、精神を現実へ転用しているとき、投影した世界で生きていると言える。
だから、ツインレイを求めている人たちは先ずは「ツインレイを全否定」だと思う。全否定してみると、その先に「自分に生じているすべてが自分からしか派生していない事実」を理解し、投影を終えていくことが出来るようになる。
投影を終えていくと、真実のみが見えてくる。その真実を受け取ればいいんだが、その真実が受け取れない理由は、やっぱり自分が個であることを受け入れられないという未熟性にあるのかもしれない。
そして、自分が個であり、ツインレイとは繋がっていない事実を認めていくことは、私たちは現実で繋がることでしか相手を知ることが出来ないと理解が出来るようになる。
私たちは現実をおろそかにしすぎた。
しかし、精神の追求は、奥深くの自分とは真逆の性別をも獲得することに繋がった。
私たちがこのときを待っていたとは、言葉にすることもない。
私たちが現実に存在する異性に期待することをやめ、自分のなかに存在する異性性へと繋がり受け入れたとき、私たちの新しい時代が始まっていく。
自分の肉体をも超越した精神をもって生きていく私たちを「ツインレイ」と呼ぶのかもしれない。
だって、私のなかには『男性』と『女性』の両方の性別が存在しているからである。
そして、ここにまで連れてきてくれたパートナーを「彼」として持っている。
ツインレイは私のなかにいた。そして、彼はやっぱりツインレイではなかったのである。
ここまできて思うんだが「本当に皆、ここを目指しているのか?」ってことに少々疑問が生じる。
男性原理が私のなかにあり、男性としての自分がいるんだなと理解して、感じること。
だからどうした感がハンパない。
マジ、こんなんやるぐらいだったら、明日の朝ごはん何つくるか考えたほうが有益な時間を過ごせると思うぐらいには、自分がツインレイだってことが「だからどうした、なんなんだよ。」って感じに思える。
私がツインレイ? 精神の両性具有?
だから、どうした。そんなんどうでもいいわ。
そんなことより明日の朝ごはんのお味噌汁、何にする?
これが今の私の「ツインレイ」に対しての評価です。
特別もクソもない。だからどうした感パない。
え、これを本当に皆目指してんの? ってことに驚いている。
わざわざプロフィールに「ツインレイ(精神の両性具有)」と肩書きをつけることの意味がわからん。
だってそれ、どうでもよくね?
自分が女性です! とアピールすることの意味がわからないのと同じ感じかな。
女性であることにアイデンティティはあるけれど、それをわざわざアピールするほどのコンプレックスがないというか。
つまり、プロフィールにツインレイですっていう書き込みってツインレイ・コンプレックスってことなんかな・・・・・。
意として、異性に対しての理想主義者。ツインレイはお互いに理想的にあろうとして必死。
あと。
それがもし本当にツインレイの相手で、ツインレイだったとしても、自分のなかにとりこまれている時点で自分なんだよ。
本来は「ツインレイのものだった」としても、自分のなかに存在しているのであれば、それは「自分」でいいと思う。
わざわざ自分のなかにあるものを「別の誰かのもの」にする必要性はなくて。
家のなかにあるものは我が家のものだよね。他人がもし置き忘れていったとしても、その人が我が家に置いていって時点で我が家のものなんだよ。
わざわざ「だれだれ君が置いていったんだよね、使わずにそのままにしておこう」とか言っても、死ぬまで取りに戻ってこないまま、死んでいく人たちもいるわけで。
途中で「捨てる」とか「我が家で使う」とか判断が成されるわけである。
つまり、我が家の領域(自己領域)にあるものは、自分のものである。
もしそれがツインレイのエネルギーが自分のなかに入ってきたとしても、それは自分のエネルギー。
ツインレイからの性エネルギー交流の話とかあるけれど、自分のエネルギーだと思うよ。
だって、自分のなかで生じているエネルギーなんだから、そりゃ自分のエネルギーでしょ。
他人がいなくても、自分という存在が樹立することが出来ている。
個という存在は他人に依存せずとも樹立できる。
それを証明していくことが先なんじゃないかと思われる。