ツインレイの精神担当と現実担当(社会担当)のロジック

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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ツインレイの精神担当とか、現実担当って言われているやつは、これのことかな? と思ったので、その話をば。

前記事が参考になるかも。

図の説明:霊——肉体の連結部分がねじれている

図の説明。

霊は無性である。しかし、肉体は『男または女』として、ひとつの性別しか持っていない。ゆえに、精神では自己分離を起こし、二極を起こし、ひとつの性のみを肉体に適応させるようになっている。

このとき、男は女の性別として適応し、女は男の性別として適応する。精神の性別と肉体の性別を反転させて適応させる。これが『ねじれ』である。

いわば、私たちが男だと思っている精神は女の精神だし、女だと思っている精神は男の精神ってことになる。

このねじれは『自己分離』を起こすことによって、ふたつに分類する。このふたつに分離させることによって、肉体に精神が合わせてる状態である。

霊は無性だが、肉体は有性である。無から有への変換がある。

無とは0である。有とは1であるが、1の認識とは2がなくてはならない。

つまり、有とは2があって1がある状態であり、肉体の性別が1ならば2である肉体とは別の性別を認識することで肉体の性別を認識する構造をとる。

霊——無性
精神——男性
肉体——女性

こんな感じで、精神と肉体は精神をねじらせることで分離させた認識を持っている感じ。だけれど、私たちは肉体の性別=精神の性別として誤認するので、自分の性別の自認が反転してしまう。(ので、私が、私には精神の性別ないよ。でも敢えて性別を述べるならば青年だよって言葉にする理由は、ここに理由があったのだと思う)

この精神のねじれを解決するには、自己分離ではなく、自己統合を果たすことである。いわば、異性の性別を吸収することで両性を成立させることに意味がある。

図の説明:性別を反転させてしまう

正義と道理とした。

図の説明:男性と女性の違い
図の説明:男性と女性の違い

引用:ツインレイの自己統合と自己分離を次元で解釈する。

で。

これが精神担当のやり方である。

 

さて、もうひとつは『現実担当』とされているが、それを私は『社会担当』として定義する。

この地球では、対人関係や環境などにより自己分離が起きる。この自己分離を『社会と精神の葛藤』とする。

つまり、この地球での課題とは『環境適応』ってことになる。自己分離は環境適応の過程における『分離→結合』の過程を経ており、社会性を得ることは自己統合を果たすことに繋がっている。

引用:ツインレイの自己統合と自己分離を次元で解釈する。

ツインレイの対立とは、社会と精神の葛藤により生じているものである。

片方は社会からのアクションをし、片方は精神からのアクションをしている。ので、すれ違う。そもそも論点が違う話を二人でしているので、そこには葛藤が生じ対立が起こり、分離が生じる。

私が彼くんと最後にモメた理由は『社会側からの話』と『精神側からの話』をしているから、ふたつの意見は対立してしまう。これが1次元的な問題として前頁で参照している。

社会的には無理って話と、精神的には無理って話で、精神的には上記の通り『自己分離のねじれをなんとかしませう』ってことがあげられる。これを『自己統合』とする。

そして、社会側では何をしているのか、現実側で何をしているのかについてなんだが、現実側でもまた『社会分離のねじれをなんとかしませう』って問題が生じている。

精神→社会、これが精神側のアクションである。
真逆である社会→精神が、社会側のアクションである。

社会を変えていく(環境など)ことにより、自分の精神を整えていくというカタチである。ので、社会側はガンガン自分の現実を変えていく必要性があり、実行力がものを言うのかな? と思う。

つまり、精神が軸になり、自分の精神に合わせて社会を組み替えていくのである。もはや、環境改革が起こる。

精神担当側といえば、社会を軸にして精神を組み替えていく受動性のカタチをとっている。ので、社会が変化する前に精神を変化させる必要性がある。自分の心の問題を解決することが今、存在している環境への適応ということになる。

軸をどちらにするのか——である。

精神担当側は、社会(環境)を信じ、その社会や環境に適応する自分の精神を作っていく。受動性。精神革命。精神が入れ替える。問題は『現実』と『妄想』の違いがわからなくなってしまうこと。道理で切り抜ける必要性。

現実担当側は、精神を信じ、その精神に適応する自分の社会や環境を作っていく。能動性。環境革命。環境が入れ替える。問題は『本当の気持ち』がわからなくなっていること。正義で切り抜ける必要性。

精神担当は環境は後から出来上がってきたものを受け取る仕組みを使っているが、現実担当側は自ら環境を作ったり、変えたりして、その後、精神を受け取っていく。

すると、最初は社会と精神の葛藤も、ふたつがひっくり返ることにより、社会と精神の結合を起こすようになる。

社会=精神となって循環が起きる。

精神担当は社会に精神が適応できていない。現実担当は精神に社会が適応させられていないって感じだろうか。

精神担当は現実を信じ、現実を受け入れることが重要になる。でも、妄想を受け入れてしまう人たちも多い。

現実担当は精神を信じ、自分の心のままやりたいようになることが重要になる。でも、自分のやりたくないことを妥協で選んでしまう人たちも多い。

 

最後。

ツインレイの相手が持っているものを私たちは『道理』と『正義』を交換する。しかし、交換することがなく、ツインレイの相手がいなければ、自分の環境の整理ができない男性。ツインレイの相手がいなければ、自分の精神の整理ができない女性などもいると思う。

このとき、正義が正義ではなく、道理が道理ではないと思う。

道理は妄想を語り、正義は理想を語っているだろう。

道理は妄想ではないし、正義は理想ではない。

さて、ここでひとつの問題があがる。

ツインレイとは妄想だろうか。ツインレイとは理想だろうか。

ツインレイを定義しきれただろうか。ツインレイとは何かを道理で導けただろうか。

ツインレイとは理想だろうか。理想のツインレイを正義で捌けただろうか。

思考こそが至極。そして理性のもとに判断するとき、私たちは「自らをツインレイ」とは語らない。

なぜならば、ツインレイが妄想であり、ツインレイが理想であることを受け入れているからである。

そして、そのうえで『ツインレイ』を語らねばならず、私たちは自らをツインレイだと語ることに多くの注意を払わねばならない。

一番はツインレイを語らないことである。

ツインレイは霊の話であり、私たちは肉体を持った人間であり、霊界ではなく現実に生きている存在だからである。

 

数式にすると、

女性ー妄想=現実

男性+理想=精神

こんな感じかな。

だから、女性=精神´、男性=現実´になる。

精神´ー妄想=現実=女性´

現実´+理想=精神=男性´

つまり、現実=女性、精神=男性になる。

女性は妄想=(精神=現実)と誤認するし、男性は理想=(精神≠現実)と誤認する。

だから女性は精神と現実の分離的な判断が必要であり、これが道理。道理のない女性は妄想の話して行動する。

男性は精神と現実の結合的な判断を促す必要性があり、これが正義。正義のない男性は理想の話して行動しない。