ツインレイの相手を認めるとツインレイの相手を忘れる忘却のメカニズムについて
ツインレイのサイレント期間では『因果応報』の感覚を感じることが出来ます。
たとえば、ツインレイの相手にしたことはまわりまわって自分に返ってくるということです。
私たちは人に対して『なにかをする』ということは、それはまわりまわって『自分に返ってくる』状態へとなりますが、ツインレイの相手にはダイレクトに感じやすいのです。
ツインレイの相手は『自分』です。もっと言及すれば、自分が持つ『異性的な自分』という存在がツインレイの相手です。
ツインレイの相手は異性的な自分ですので『自分』なのですね。
そして、ツインレイの関係性は、自分のなかに「異性原理を吸収すること」でもあり、それゆえに両性化の精神へと向かわせることになりますので、ツインレイの相手に対しての行いや発言、心はそっくりそのまま『自分』へと戻ってきます。
ツインレイたちが行う『因果応報』の内容については、
- 他者へ与えた心が戻ってくる
となります。
ツインレイの相手を愛した人は、自分を愛する心が戻ります。これが自己愛として成立します。
ツインレイの相手を許した人は、自分を許す心が戻ります。
そして、サイレント期間でも、多くの闇に関することなどが起こるかと思います。その発言・行動などによる『本心』がそっくりそのまま返ってくることになります。
例えば、他者を肯定した人は『優劣感と言う劣等感』を得、他者を否定した人は『劣等感と言う優越感』を得るということです。
簡単にいうと、他者を肯定している人は根源に劣等感があるから優劣感に浸りたくて人を肯定している。他者を否定している人は根源に優劣感があるから劣等感が欲しくて人を否定している。
このとき、他者を認めることが出来ていません。なぜならば、自分を認めてもらいたいから他者を肯定や否定をしているからです。他者を認めることが出来ている人は、否定も肯定もしません。我が道を進むのだと思います。
他者を認めているからこそ、自分を認めることができるので、わざわざ他人の意見に対して審判をする必要性がないためです。
他者を認めている人は認めている存在を知覚する必要性はないということです。
しかし、他者を認められない人は他者を知覚するので『否定』と『肯定』をし、他者を審判にかけます。自分の意見ではなく、他人の意見に対して『否定と肯定』をしますが、意見の裏側を読むことができないのと、その否定と肯定は自分の意見ですらない状態になります。
ゆえに、他人を認められない人は常に『他人軸』ということになります。人の意見や人の目線などを認めている人は『自分軸』になっていく——ということです。
他人を認められない人は『ほそっこい自分軸』にしかなりません。吸収がありませんので。吸収の余地が『他人軸』にあるので、その分を吸収していくことになりますが、他人を肯定か、否定をしている状態では自分の意見は成立しません。
根源にある「優劣意識」が払しょくされたとき、ようやく心から他者を認めることができるようになります。
因果応報のメカニズムは『相手を認めること』で終わらせていくことが出来ます。
認めることが出来なければ相手を忘れることが出来ません。(これがコンプレックスみたいなものとしてこびりついていきます。)
私たちは肯定と否定をするからこそ、因果応報のメカニズムへ突入していくのです。
さて、これをツインレイの相手の話に戻していきたいと思います。
ツインレイの相手を認めていないから知覚している——というメカニズムが見えてきます。
私たちは何かしらツインレイの相手の『何か』を認めていないとき、私たちはツインレイの相手を忘れることが出来ません。
そして、私たちは『何を認めなければならないのか』をサイレント期間で学んでいくことになります。
ツインレイの相手を認めることは、ツインレイの相手と一緒にいる期間で認め続けることが出来ます。最終的には丸ごとすべてを認め切ることにより、ツインレイの相手とは離別の道へ進むことになるのがツインレイのサイレント期間です。
そして、サイレント期間では、ツインレイの相手を認めた分だけ、自分のなかに存在する認めることができる領域を他者を通して認めていくことになります。
ツインレイの相手を意識しているとき、私たちは自分自身のなかに存在する『自分』を意識することが出来ず、認めることが出来ていません。最終的に、自分に意識を向けることが出来、認めることが出来たとき、ツインレイの相手を忘却へと導いていくことが出来ます。
ツインレイの相手が忘れられない理由は、他者を通して自分を見つめることや他者を許せないことと同様な分だけ、自分を許せない部分が存在していることに気づいていくことに繋がっています。
ツインレイの相手を忘れることが出来たとき、私たちはツインレイの相手との再会があると言われていますが、ツインレイの学びというものがもしあるのだとしたならば、それは『自己の探求』でもあり、それは他者を通してのみ行われていることなのだと思います。
これは、他人としっかりと向き合うという心構えがあってこそなのだと思います。
誰かを否定した分だけ、自己否定がある。自己否定した分だけ、誰かを否定している。このメカニズムを閉じていくとき、私たちはツインレイを忘れていきます。
ツインレイは『否定』と『肯定』の抱き合わせによる混沌により生まれています。本質は『好き』と『大事にする』という意識です。
ツインレイの相手を『肯定するために好き』なのではなく『否定してしまうから愛する』のではなく、本当の意味で好きになり、大事にすることができるように、否定と肯定を終わらせていく必要性があるのです。