傲慢と初恋
初恋とは傲慢なものなのだなと思いました。
傲慢とは相手を見下し、侮ることとされている。
ときに私たちは初恋をしたとき、傲慢な人間になるようだった。
私は彼を守りたいと思っていた。私は彼に自己犠牲をはらい、その犠牲者となる自分を隠した。
これは彼を侮ることだった。
彼は守られなくてもいい、彼は私という犠牲は必要が無いのである。
鶴が恩返しのために自分の羽根を犠牲にしたように、私も自分の気持ちを犠牲にして繋がった関係性は、それは童話の通り、二人は別れることになる。
彼を一人前の自立した存在として認められなかったからこそ、私は彼を侮ったのだ。
初恋とは、このような実らないものなのだろうなと思う。
それは己の中にある肥大した傲慢さが初恋だからである。
初恋とは「与えること(男性性)」と「溜め込まないこと(女性性)」を鍛え上げ、男性性は与え合い、女性性は真実を見極めるようになる。
初恋後の男性は、与えることの本質を理解することになると思うが、女性は妄想や空想というような、自分の中にある思い込みを破っていく必要性がある。
分離個体化は、自分の存在を家族や親しい関係から分離させていくが、ストレスなどが多い場合、個体分離化というような、自分の中に数人の自分が生まれることになる。
自分の中に生まれる数人はアイデンティティの拡散とも言われるが、このアイデンティティの拡散は男性には与える能力を落とし、女性は思い込みや妄想、幻聴、幻覚というような空想世界に入り浸るようになる。
ここから男の子は与えられて育ち、女の子は物語のなかで育っていることがわかる。
初恋により、少年は初めて自分が与えられたものを誰かに与えたいと思い、女の子は物語の王子さまではなく現実の目の前に存在するリアルな青年へと目がむくものかもしれない。
それがまた私たちの傲慢なのである。
少年は与えたいという独り善がりな傲慢を抱え、少女は空想のなかに存在する自分という嘘を傲慢として抱えている。
少年の与えることの出来ない未熟なままの姿でも「与えられる」と思い込む傲慢。
少女の自分が理想では無い姿を提供する嘘は、私たちが空想世界で演じられている素晴らしい人格者を模すことである。本当の自分がバレることがないと傲慢を抱えている。
いざ、少年の傲慢が暴かれ、何も与えられない自分に気づかれる。
いざ、少女の傲慢が暴かれ、癇癪持ちの自分が暴かれる。
二人の傲慢さが暴かれたとき、私たちは『本当の自分の姿』を知るのである。このときの私たちは羞恥心に塗れ、自らのなかにある自分への期待に気づく。
私たちは理想の自分に対して未だ俄然到達していないことに気づくのである。
もし、初恋に意味があるとしたならば、初めて外界に触れる瞬間ではないかと思う。それを羞恥心とも感じられる瞬間なのである。
それはアダムとイブの初恋のようである。
初恋を自覚するまで、私たちは時差を必要とする。
なぜならば、恋をしたこともないのに、これが恋だとは気づかないのである。
なにが恋なのかをも知らずに私たちは恋をし、その恋に翻弄されては、振り返って羞恥心を覚えた後に、傲慢という初恋に気づくのである。
私は何かを与えられると思っていた。しかし、何も与えられなかった。助けてあげられると思った。でも、助けられなかった。
私は自分のなかにいる鬼を隠せていると思っていた。この苦しみ、この悲しみに気づかないでいるだろうと思っていた。でも、気づかれていた。
まさに与えられると思い込み、助けられると思い込み、隠せているだろうと思い込むそれこそが私が彼への侮りである。
私も彼も逃げ出したのである。自分のなかにある傲慢さの正体が暴かれてしまった真実から逃走し、私たちは未熟な私たちではなく、理想の姿を持つ私たちへと向かうこととなった。
さも、一見。私たちはお互いから逃走したかのように見える。
しかし、私たちが走り向かった先にあるものは、ありたいと思った自分の姿であり、互いにちぎった自分の姿への変容である。
私たちは互いの姿が逃避のように見えるが、互いが約束した自分へとなり、再び出会い直さんとする自立の道へと立ったのである。
あのときの私は取り繕いであった。すまし顔をして「できる、大丈夫」と言葉にした。
我慢は限界を越えかねんときでさえも、私は彼の為に理想でありたいと思ったのだ。
それは彼の足枷になってはならないと、そのような思いだったと思う。それがあるとき、振り切れたように実った矢先、私は暴かれたのである。
出来なかった私たちがバラバラとなって散布して、暴かれた私は逃走した。
置いてけぼりとなった他の人格たちも、彼に見合うだけの人格へと切り替えては統合されていく。
暴かれたときに完成と破壊を迎えた私は、今、あのときの完成した私と破壊された私を統合させていくのである。
私たちは未熟であった。暴かれた嘘とは、未熟により生まれたものである。
だが、初恋による傲慢は必ず暴かれるものであり、暴かれることの無い傲慢は『傲慢のまま』だと思う。
それは他人を侮り続ける心と、初恋による相手を愛するがあまりの自我肥大とは別物である。
相手を愛する心は、与える心である。そして、己を偽ってくれる優しさである。
しかし、相手を侮る心とは、人を騙そうとする心である。そして、偽っている自分を暴かれまいと考える慢心である。
同じ傲慢さも、自我肥大も、この世に赤裸々に露見するものだと思う。
その傲慢さが初恋なのか。はたまた、誰かを謀ろうとする心なのか。
誰かを利用して道具にしてもバレやしないとする心であるとき、その心は心の見合うだけの人生となるだろう。
人を騙せたとしても、自分を騙すことは出来ないのである。
また、暴くとき、人は人を追い剥ぎしてはナイフで切りつけていく。そんな世界がここにはある。
初恋とは真逆の世界である。
私はそんな世界で彼と出会った。
人を追い剥ぎしてはナイフで斬り合っている世界でである。私はメタメタに切り裂かれていたが、結局のところ『空気が肌に合わなかった』だけの話なのかもしれない。
傲慢と初恋。
表裏にある。
インターネットは傲慢さがよく露見するも、淡い初恋は傲慢で彩られることは無い。
私は自分の初恋が、傲慢では無いという証明を行ったのだなと理解した。
初恋をこじらせては傲慢と語るときがある。
その恋がいかに素晴らしいものであったとしても、その恋が傲慢に彩られることがある。
それが『自我肥大』である。いかにも素晴らしい恋をしたのだという代名詞を欲するとき、私たちは初恋をしたわけではない。
ただ自分の慢心を満たす恋をしただけに過ぎない。
その心に魔が差すとき、慢心は傲慢へと進化する。
魔が差すとは『お金』だよ。その心に利益っていう視点が生まれて魔が差す。
慢心とは自分には価値があると思う心にある。相手にとって自分は価値があると思い込む。
そこに価値があると思うから、それをお金に変えようと思う。
でも「それ」に本当に価値があるのか。
傲慢には価値がないと思うが、初恋には価値があると思う。
初恋はお金に変え難いものを与えてくれているからである。
私たちをひと回り大人にしてくれている。
対立するのは傲慢である。他人を侮ったはいいが、侮れるだけのものがあるのかである。なんなら自分になんもないから侮るのである。
つまり初恋とは「なにもないから初恋が成立する」のである。
自分にはなにもないことを理解するから初恋であり、自分が何かを持って初恋をすることはできない。
初めての恋とは、傲慢なのである。
なにもないからいいのである。なにもないから傲慢になれる。
そして私たちは何も無いことを己に許せない。
なぜならば、傲慢により設定した自分になることが『大人の自分』だからである。
もし私たちが大人になった時、私たちのなかになにもないだなんてことはない。なりたい自分になろうと、初恋に恥じることがない自分になろうとするからである。
暴かれた羞恥心からの逃避は、一周まわって『事実』となる。
私たちの幻想は事実へと切り替わる。
あのときの嘘はいつか真実となって帰ってくる。
それが紛れもない初恋の魔法だからである。そこに誠実性があったならば叶うが、そこに邪なものが介入すれば叶わない。
単純に「心」の話。
傲慢とは人を見下し侮ることである。
しかし、初恋とは与えたいと思いながらも与えられない自分を隠すことである。
どちらであったのかは着地点により判断がつくものである。