セフィロトの樹から読み解く創造性へ到達(ツインレイの願いはすべて叶えられる仕組み)

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

私のステージが進むごとに更新していくステージをひとつの記事にして販売しています。


さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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過去記事を読んだんですが、なんかこの・・・・・世明けのツインレイの記事って予言の書になってるんだなって思った。

恐ろしや——と思いながら、そこからどうして世明けのツインレイが予言の書になったのかについてをセフィロトの樹から読み解いていく。

私はセフィラを3次元から5次元に分類している。

(地上)3次元・・・・・・王冠、智恵、理解、慈悲、峻厳、勝利、栄光、基礎

(楽園)4次元・・・・・・美、隠された知識

(??)5次元・・・・・・王国

引用:セフィロトの樹から導き出されるツインレイのセフィラの手放しについて

前回は、こんな感じでセフィラが次元ごとに分類され、それぞれの課題があるのではないか——ということだった。

地上のツインレイとの出会いは、3次元のセフィラを確立させる。楽園のツインレイとの出会いは4次元のセフィラを確立させる。

5次元としている王国のセフィラは、これ『裏側』が生じてようやく5次元であり、その裏側にはもうひとつのセフィロトの樹が存在している。それがクリフォトの樹である。

セフィロトの樹を鏡写しのように作り出したのがクリフォトの樹であり、クリフォトの樹でのテーマは罪や悪魔となっている。

このふたつの樹が揃ってようやく王国のセフィラは5次元となっている。

そして、王国のセフィラそのものが『創造』を意味し、セフィロトの樹を光とするのであれば、クリフォトの樹は闇として捉え、このふたつを王国により交じり合わせることが出来たとき、創造が生まれ『実体化』が生まれる。

光と闇がそこにそろうとき、私たちは太陽と影を認識し、地に足をつけた創造という物質を生み出す。

いわば、私たち人間そのものこそ神の創造物である——ということが理解ができる。

図の説明:光と闇は相容れることはない
図の説明:光があるとき、影と実体と大地は相容れている

引用:結合のまとめ②|ツインレイの光と闇と影と実体と『復活』までの話

つまり、クリフォトの樹とセフィロトの樹をバラバラに考えているとき、ふたつは相容れることはないが、このふたつを統合させ繋げていくことができるとき実体を生み出し、その実体を生み出すことこそ『創造』となる。

 

クリフォトの樹とセフィロトの樹を合わせると、ようやく5次元へ到達する樹が生まれるのである。これが創造である。

3次元の立方体 4次元の超立方体 5次元の超々立方体
3次元の立方体 4次元の超立方体 5次元の超々立方体

引用:ツインレイによる魂の構造の空間次元的な解説&セフィロトの樹による皆既月食とツインレイの解説

ちなみに私はセフィロトの樹はいつも立体図にしか見えていない。

それについてはこちらの記事で書いている。

超立方体によるセフィロトの樹 セフィロトの樹による超立方体
超立方体によるセフィロトの樹 セフィロトの樹による超立方体

引用:セフィロトの樹が出来上がる経緯を次元と共に解説

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人格統合とセフィラの裏表の統合

私が今『人格統合』という課題をこなしているが、人格統合をする際に行っていることは『トラウマ治療』となっている。

いわば、自分自身のなかに存在しているトラウマはセフィロトの樹ではなく、クリフォトの樹ということになる。

クリフォトの樹とは自分の闇と向き合うとき、セフィロトの樹と統合されていくことになる。

光と闇による統合は、そこに『真実』が生まれてくる。セフィラにも表と裏が生まれてしまうが、このふたつが統合されたセフィラは創造性を発揮すると言うことになる。

つまり、セフィラとは私たちのなかに存在している人格とも言える。

私たちのなかには11人の人格たちが存在しており、その人格たちには『裏表人格』が存在していると考える。

  • ケテル(王冠)・・・一番偉い総括者
  • コクマー(智恵)・・・知識を持っている人格
  • ビナー(理解)・・・理解する人格
  • ケセド(慈悲)・・・人を愛そうとする人格(自己犠牲人格)
  • ゲブラー(峻厳)・・・己に厳しくする人格(妄想否定人格)
  • ティファレト(美)・・・調和を愛する人格(無条件の愛・無価値人格
  • ネツァク(勝利)・・・勝ちたい欲求を持つ人格
  • ホド(栄光)・・・名誉や肩書きを持つ人格(ツインレイ人格
  • イェソド(基礎)・・・何も持っていない赤子の人格
  • マルクト(王国)・・・創造主
  • 隠されたダアト(知識)・・・世明けのツインレイの筆者

こんな感じだろうか。

ダアト人格を召喚するには

図の説明:ダアトを呼び出すのに必要な人格たち

中心のダアトを呼び出すには『理解力』と『慈悲深さ』を必要とする。いわば、理解力があって、慈悲深い精神があると『妄想』や『統合失調症』というものを生み出すことになる。

それが叡智となっている。しかし、そのままだと『妄想』でしかない。

ここに必要なのは『自分に厳しい』ことと『知識を持っていること』という人格が介入することにより、叡智はより現実性を増す。

自分への甘さや弱さは自分を妄想の領域へ留め、知識がないことにより叡智が妄想なのか、現実なのかの審判をつけることが出来ないためにある。

ゆえに、統合失調気味になってしまったツインレイたちは「妄想に惑わされるようになる」わけである。

そこにつけ入るように『偉い自分』がやってくる。妄想に惑わされているときにプライドが介入することにより、選民意識となる。

いわば、選民思想を持つ妄想人格がダアトとなってしまい、調和力は『支配』となってしまう。

図の説明:妄想に繋がっているセフィロトの樹

妄想に囚われている人たちの多くがこのなかにある精神性を持っているので、ダアトが『叡智』ではなく『妄想』となる。

ここから妄想の特徴性が導き出されることになる。これが宗教などの導き手などに現れるケースがあり、注意が必要と考えられる。

このダアトが召喚されたとき、妄想であれば一番上の王冠は『自分が一番偉い』となっているので、一番下の美は『支配する対象』となっている。

ダアトは精神性を表しており、次に、ティファレト(美)が召喚されたとき、ティファレトの状態により、現実が構成されていく。

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ティファレト人格による『妄想』と『叡智』の違い

ダアトが『妄想』なのか『叡智』なのかにより、ティファレト人格は変わってくる。

ダアトが妄想の場合、ティファレト人格は『支配される人格』となる。

叡智の場合、ティファレト人格は『無条件の愛の体現人格』となる。

図の説明:精神と現実の相関性

「偉い自分」としているけれど、ここは『誇りある人間性』としたいかも。

精神世界でダアトが『妄想』なのか『叡智』なのかによって、次に現実世界ではティファレトが『調和的現実』なのか『支配的現実』なのかが変わってくる。

精神が妄想——現実は支配的現実

精神が叡智——現実は調和的現実

こんな違いが生じる。

一番上には「誇りある自分」を構成しようと努力し続けた人は、一番下には「ありのままの自分」とする。現実的に調和の現実ではありのままを体現しても受け入れてもらえるからである。

一番上に「自分が世界で一番偉い」を構成した努力しなかった人は、一番下には「恥ずかしい自分」とする。現実的に支配の現実では恥ずかしい自分となっているのだが、自分が世界で一番偉いので自分が恥ずかしいことに気づかない。さしずめ裸の王様だと思われる。

王国という創造主人格を導き出していく

最終的には『ティファレト人格』と『ダアト人格』により、王国が変わってくる。

妄想—支配—独裁政権

叡智—調和—民主主義

王国とは創造主がいるんだが、創造主が独裁政権を放っているとき、その世界は支配と犠牲を繰り広げている。

民主主義国家であるとき、人民第一のために調和が繰り広げられている。

いわば、自分自身の精神構造内に存在している人格たちが「どのような人格者なのか」により、繰り広げられる現実は変わってくる。

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セフィロトの樹とツインレイの関係性について

単純に自分の精神構造がすべての世界に転用されるということを主体的に考えればいいと思われる。

ツインレイと支配的な関係性を持つのか、それとも、共存的な関係性を持つのか。どちらかになっていく。

裏側にはクリフォトの樹が存在して王国が樹立している。

国には光もあれば闇もある。闇を排除してしまうのが支配国家である。自分が受け入れられないものはすべてて切り捨てればいいという考え方は、自分自身のなかにある闇を捨てたようなものである。

こういった自分の闇と向き合うことがない人は、妄想を闇として発揮する。

よく『悪魔』とか『生霊』とかの話をしたりする人の多くが、自分の持つクリフォトの樹を受け入れられていないことが多い。そこにある意識で何かしら善への傾倒性が強く、また自分のなかに存在している闇を排除しているがゆえに、クリフォト人格たちが妄想として当人に『憑く』のである。

このとき、悪人格が当人に憑くからこそ、その人が視る妄想は『悪いものばかり』となる。

霊能者の話を聞いていて、内容がどのようなものなのか? によってその人の人となりを知ることができる。そっくりそのままの内容が当人であり、その人が住んでいる世界である。

人にはいろんな側面がある。そのなかで「どの側面を見るのか」は、霊能者がどの側面を重要視している人なのか——という傾向性が伺える。

ちなみになとりは人の向こう側に神を見ている人ですね・・・・・。この人はこの神さんとこの人やな~とか、そういうのをみたり感じたりしている人。腐っても神の道にいる人なんだと思います。

 

話がそれてしまったが、ツインレイの相手との世界観が『妄想的関係性』なのか『叡智的関係性』なのか——は、ここで分類されていく。ツインレイのふたりが統合しているかどうかも『妄想』か『精神』かの違いが出てくる。

ここらへんの違いは明確にわかりにくいのかな? と思うんだが、その人が繰り広げている世界観そのものが『誇りがある人間なのか』『自分がド偉い神であるのか』によって違ってくるように思われる。

そのとき、他者に対して『調和』なのか『支配』なのかが変容してくる。

最後にツインレイの再会をするとき「ありのままの自分」となるわけなんだが、これが「恥ずかしい自分」となる可能性がある。

ありのままの自分とは「ツインレイを語っている」わけでもないし「誰かに勝っている」わけでもない。図において赤文字で書いている部分はすべてありのままの自分とはかけ離れているものだと考えていいだろう。

そのとき、ツインレイを目の前にして自分は恥ずかしい人間となっていると考えていいと思う。しかし、自分が恥ずかしい人間だとは認識しないと思われる。だって裸の王様だから。

だけれど、相手からすれば鼻をつまみたくなるような存在となっている可能性がある。

ツインレイの課題の違い『ダアト』と『ティファレト』の順序

順番が逆になっているのかなと思っている。

私の場合、ダアトが先でティファレトが後。彼の場合、ティファレトが先でダアトが後。

ツインレイ女性の課題がダアト。ツインレイ男性の課題がティファレトってだけでもいいかもしれない。

相手が課題を達成することが出来ていれば、ダアトもティファレトの課題も達成させられる。

また、ダアトで詰めば、ティファレトも詰む。どちらかだけ出来るだなんて優劣はない。ツインレイはどちらも同じだからイコールとなっている。

ツインレイ女性の『ダアト』の課題

  • 誇りをもって生きてきましたか、自分が一番偉いですか
  • 自分がわかっていましたか、わかっていませんでしたか
  • 自分はしっていましたか、しっていませんでしたか
  • 自分に厳しくしていましたか、甘やかしていましたか
  • 人になさけをかけましたか
  • 調和力のあるツインレイの相手を丸ごと愛しましたか

ということが問いかけられていたと思われる。

最終的にすべて合格ラインの精神であるとき、最終的に『妄想』になるのか『叡智』になるのかの違いがやってくる。

叡智だと予言的な内容にもなるし、妄想だと・・・・・。まァ、楽しい内容になっているんじゃないかな。小説家になったらいいと思います。最近はファンタジー系はすごく流行ってると思うから。

個人的には、妄想に対して自分の頬を殴ること——が苦手な人が多かったようなイメージがある。自分に甘い人たちは妄想に勝てないっていうか。幻視や幻聴に流されて行ってしまう感じがする。

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ツインレイ男性の『ティファレト』の課題

  • 自分にできることをしましたか
  • 自分の肩書きよりも大事なことがありましたか
  • 何も持たない自分を受け入れられましたか
  • 自分だけ良ければそれでよかったんですか
  • 人に情けをかけましたか
  • 叡智に結びついているツインレイ女性を丸ごと愛しましたか

ということが問いただされていて、最終的には『支配』ではなく『調和力』を持って人と対等に関わることができるようになっていればいいんだと思いまする。

ツインレイのふたりが揃うと王国というツインレイの結合になる

ツインレイのふたりが表と裏のセフィラをそろえ、自分の闇さえをも克服したとき、ツインレイのふたりは創造的になる。

ふたりが揃うことで『王国』が成立するからである。

セフィロトの樹とクリフォトの樹が揃っていても、王国は生じるが、そこにあるのは『破壊』である。光と闇の世界だからであり、闇は排除されるためにである。光と闇は勢力争いを行うことになる。ゆえに、どちらかが破壊をし、光または闇へとのまれていくことになる。

しかし、セフィロトの樹とクリフォトの樹が統合された存在がふたりが揃い、手をとりあうとき、それは『王国という創造力の発揮』がなされる。

ふたりの関係性は光でもなく闇でもなく、より現実的である。

その現実をふたりでより『創造的に構築していく』ことが出来るようになる。

これがツインレイの本懐にあり、新しい時代を構築していくために必要な能力として考える。

 

創造とは自分の思い通りのものを構築するための能力ではない。

創造とは誰かと自分を調和した世界を構築するための発展性をもたらすために授かっている能力である。

ゆえに、私たちは他者を想う心が無ければ、創造を発揮することができない。

 

最後に王国のセフィラが構成されるとき、ツインレイの統合(というか結合)がなされると思われる。

そのとき、ふたりの願いがすべて叶う。創造が発揮されるから。