結合のまとめ②|ツインレイの光と闇と影と実体と『復活』までの話

2024年10月26日

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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前回の続きです。

光と闇と影と実態についてです。

光と闇は相容れることがありません。

しかし、光と実体と影は相容れることが出来るようになります。

そのためにはそこに『実体』を必要とします。その実体を構築していくことが私たちの人生と言えます。

図の説明:光と闇は相容れることはない
図の説明:光があるとき、影と実体と大地は相容れている

 

私たちはツインレイのサイレント期間の開始時点で『光と闇、実体』など、私たちのすべての意識を統合させた存在となります。

つまり、サイレントの開始時点で統合意識とも言えます。しかし、それは依存により生み出されます。(共依存により生じる)

私たちのなかに『実体』が存在しているとき、必ず地に足をつけています。

現実性ということですね。リアリズム性を持って、現実的であるとき、その存在には『存在感』のようなものがあります。

地に足をつけているからです。地に足をつけていない存在はこの世にはいません。この世にいる存在はすべて地に足をつけています。

地に足をつけている実態があるとき、私たちは光と闇を分離させていきます。

光とは神を意味します。私たちの分かりやすい喩えであれば、ハイヤーセルフです。

自分は神である、ハイヤーセルフである。このような思想が『光との一体化状態』にあります。このとき、闇が生じます。

自身が光であるとき、相手は闇になります。このふたつは相容れることがありません。

 

しかし、地に足をつけている実態を持つ。この状態は『意志がある』とも言えますし『信念がある』とも言えます。

自分はこの世に存在している人である。この思想を持っているとき、地に足をつけていると考えます。私たちは地に足をつけていない神ではありません。息をしているし、存在しています。この事実を受け入れているとき、私たちは『人であること』を受け入れています。

光が自分自身のなかから分離していくとき、私たちは自分自身のなかに『光があること』をも理解しておくべきではないかと思います。

私たちは光から生まれました。神から生まれました。しかし、私たちは粒子ではあるかもしれませんし、いつかは神だったこともありますが、現実的にこの人生を歩んでいるのは『人である』という意識こそが存在感を齎します。

神視点による解釈と、人視点による解釈は別物です。神視点の解釈のみではなく、人視点による解釈を取り戻す必要性があります。

 

人である自分自身を取り戻したことになるツインレイたちは、次に『闇』をも認識します。

闇とは自分自身の影であることに気づきます。これは自分自身が地に足をつけている現実感を持っているからこそ、影が生じます。

空を飛んでいる、己は神である等の思想であるとき、闇は闇のままであり、影をもたらすことはありません。

ゆえに『現実感を持っている人たち』は、己自身の影を認識し、その影を統合していく経緯を作り出していきます。

影とは『自分の影』ですから、闇を『影』として組み替えていくということですね。

影を認識するとき、ユングの思想におけるシャドウの思想が理解できるようになるのかなと思います。

 

最終的に、シャドウの存在を自分自身の影であることに気づき、また、シャドウを内包していくとき、私たちは『統合意識』へと昇華していきます。

これはシャドウとは自分自身のなかに存在している影を他者に投影しているのだからこそ、他者への感情はすべて自分自身へ向けられた感情である——ということを理解していきます。

ゆえに、シャドウを内包することにより『他人へ向ける感情がことさらに減る』とも言えますね。葛藤がガクリと下がっていきます。

 

大事なことは、このツインレイの期間で「いかにリアリズムであったのか」ということだったと思います。

私の感覚だと「妄想性」みたいなところにスポッと入って、そこから、いかに脱却するのか? はリアリズム的な視点をどれぐらいに重要視しているのか——が大事だったように思います。

 

光と闇ではなく、私たちは光から生まれた実体であることを忘れてはならないのだと思います。

光から生まれた実体である私たちは、偽善者に他ならず、自分自身が『善である』と思った道を突き進んできた人たちなのだと思います。

光が前者で闇が悪者だからば、意志を持つ者は偽善者ということです。そして、それは時に悪をも体現することがあり、そのときの私たちは偽悪者となります。

私たちは光でも闇でもなく、実体のある偽物という方程式がなりたっていきます。

 

私たちは偽物です。そして、自分自身が「偽物であること」に気づき、なお、偽物である自分を受け入れていく必要性があります。

自分自身が偽物であり、自分はツインレイではないことに気づく人たちは、偽善者であり、偽悪者に他なりません。

そこにある行動には意思や意志があるからです。そこに意味があります。

だから偽物です。

偽物である自分自身を如何に構築してきたのか。これがキーポイントだったのかなとも思います。

偽物には光が当たれば影が生じます。

図の説明:偽物には光が当たれば影が生まれる

偽物を『本物』として認めたとき、私たちは『真実』を見つけ出すように思います。

それは影を統合し、光を統合したときにわかるかなと思います。

私たちは、光であり、影であり、偽物であり、また本物でもある。

私たちたちは、光の道、影の道、偽物の道、本物の道が示されているように思います。

私たちはずっと偽物の道を歩んでいます。自分をたばかり生きていくことが私たちの人生でした。

しかし、最終的に偽物は『真実』へと切り替わっていきます。

本物と偽物が統合されるとき、私たちは真実へ到達していく。それが真我と呼ばれているものだとは思います。

 

器という偽物をつくって、そのなかに本物をぶち込めば、いい感じの人間できあがるよねって話だと思います。

本物とは心であり傷ついたエゴですが、器のなかに入れれば、偽物がエゴを癒していき本当の自分に生きかえることができる。

いわば、これが『復活』じゃないかな?

賢者の薔薇園引用:錬金術(哲学者の薔薇園)と魂の黄金化とツインレイの関係性│錬金術①

キリストさんが墓から出てきた。私たちは『心』を、偽物という『器』のなかにいれて復活します。

このときの私たちは、本当に『偽善者』でしょうか。