私のなかのハイヤーセルフの人格について

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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昨日現れた私のなかの天使。

先ほど現れたのは「おしまい!」と言って飛び出てきた小さな子でした。

「じゃあ、あなたが最後に統合する子なのかな?」と聞いたら、ふふふって感じで大人の天使になった。

どうやら、小さな子となって私のなかにいたみたい。でも、大人の天使で金髪の真っ白い恰好をしている人だった。

引用:人格統合をし続けた結果、第八チャクラが完全に開いたみたいです。(これが覚醒ってことなのかな?)

たぶん、これがハイヤーセルフなのだと思われる。そして、ハイヤーセルフも人格のなかに組み込まれているのではないか——と考えた。

つまり、私のなかには『ミドルセルフ』と『ロウアーセルフ』『ハイヤーセルフ』が存在しているとき、ロウアーセルフは腹部下部に存在する感情的な人格たち。ハイヤーセルフは胸部に存在する意識をもって生きる人格たち。ミドルセルフは感情と意識のバランスをとろうとするみぞおちにいる人格たち——として考えるべきなのかなと思った。

感情的な部分は腹部下部にいつも存在していたから、そんな風に定義しておきたい。

それぞれ、人格が存在しており、今回、ロウアーセルフのなかにハイヤーセルフが紛れ込んでいたような気がしている。

 

ハイヤーセルフ人格とは、私が天使の人格から『光のエネルギー』を授かったあとに出てきた感情的な気持ちなど、色々あるんだけれども。それらは全体的に高次の自己的意識から生まれた人格なのではないかと思われる。

とはいえ共、高次の自己的な意識から生まれた人格が感情に押し潰れてしまうこともあったり、高次の自己だから傷つかないだなんてこともなく。

元々は「小さな子供の人格」がハイヤーセルフにまで到達する人格が生まれているとして考える時、私のなかで、

  • 褒められなくても、認められなくても、やる
  • 誰かを守らなきゃと思っている

という意識は、高次の自己的な意識なのだと思われる。

だけれど、子供のうちは「褒められたい」「認められたい」という欲求を抱えている。だけれど、それが満たされないのがハイヤーセルフ人格なのかなと思った。

ハイヤーセルフ人格がそもそも備わっている私たちは「凄い部分」があるんだと思われる。その自分の凄い部分を人のために使おうと思う。それがハイヤーセルフ人格の本質にあり、その力をつかって誰かを守るんだ! って息まいているのも、ハイヤーセルフ人格なのだと思われる。

だからといって、人間なのもあって感情的な傷つきをも受けているのがハイヤーセルフ人格なのだなと思う。

人は人である。人のなかにある意識なんだから、やっぱり、能力を褒められたい、認められたいと感じてしまうのは仕方がないことなのかなと感じた。

褒められないし、認められることもない。そして、この力を持って誰かを守らなくちゃいけないっていうハイヤーセルフが子供の領域を終えると、褒められるため、認められるためという欲求を持たない意識に育つのだと思われる。

いわば、ハイヤーセルフも人間のなかにあるんだから、どんなに素晴らしい凄い力を持ってもいたら、個人レベルでは「フフン、なとちゃしゅごい」って自慢したくなるのが人だよねって感じかな。

それだとハイヤーセルフはトラウマやエゴの傷つきのなかに存在している状態となっていて、ハイヤーセルフの能力を本領発揮することは出来ずに、ハイヤーセルフの働きが俗っぽくなってしまうと言うか。。そんな感じになるのかもしれない。

私自身は感謝もされないのが当たり前っていう感覚もあった。何かいいことしたところで感謝されないのは当たり前だし、何か見返りがないのが当たり前。その当たり前の定義はハイヤーセルフはちょっと人間っていう領域を抜けてはいるんだと思う。

独立されたハイヤーセルフの状態とは、

  • 認められない
  • 褒められない
  • 感謝されない
  • 自慢できない
  • 後ろ足で砂かけられる
  • 見返りはない

って状態をデフォルトで人間である私たちの意識が維持できなければ、ハイヤーセルフの恩恵はもらえないものなのかもしれないって思った。ハイヤーセルフは上記の通りの状態が当たり前。それはやっぱりハイヤーだから。

ハイヤーのなかに上記の通り、他者から帰ってくるものが砂以外にもある——と思う意識があるとき、それは低次の自己における感情的なトラウマが俄然存在し、ハイヤーセルフが発揮されないような状態に縛り付けられているということなのだと思われる。

つまり、第八チャクラは上記の内容を求めていないことがデフォルトで受け入れられるときに開花しやすいんだけれど、それは大抵先ずは「我慢」するしかない。だけれど、人は人なので。なんならエゴというトラウマも抱えているし、欲求も抱えている。なぜならば、我らは人間でこの地球で生きている三次元的な物質を放棄したような霞食って生きていけるような人体構造をデフォルト化して持っているわけではない。

ハイヤーセルフの解放をするには、欲求の放棄と感情の放棄が先ずは最低限の条件なのかなと思った。

欲求も感情も当初は放棄して、千切り捨てたとしても、最終的にはかえってきて、再び統合することになる。だから、ハイヤーセルフの解放の為には先ずは千切って捨てて、抑圧することが出来なければならないんだと思う。

 

なんなら、ハイヤーセルフ事態も、人間の構造の一部でもあるから、トラウマを抱えている。

何かいいことしたあと殴られた経験だってあるはずだ。自分にとって善だと思ってやることも、ものすごい苦行を強いられることにもなる。自分のこと以上に相手のことを考えることは、肉体を持っている人間にとっては苦行に他ならない。

ハイヤーセルフのトラウマの内容は、

  • 褒められたかった
  • 認められたかった

みたいなものがいっぱいあって。一番は、自分が守ってもらいたいって思っていたって意識なんだと思う。

面白いことに、このハイヤーセルフ構造なのだが、私の家族からの裏切りがかなり関係している。

私は大好きな母に裏切られ、母を大嫌いになった。

大好きな父に助けてもらえなかった。

大好きな姉にかまってもらえず、姉に邪険にされ続けた。

というような『大嫌い』『助けてもらえなかった(守ってもらえなかった)』『邪険にされ続けた』という意識がハイヤーセルフを構成している。

私のハイヤーセルフは、

  • みんなのことが大好き
  • みんなのこと(みんなの心)を守りたい
  • みんなのことをかまってあげたい

って思っている。つまり、私が持つハイヤーセルフは親に裏切られた分だけ、裏切りの部分を「ならば私はどのようなハイヤーセルフを構成するのか」という精神性を構築する基盤となっているのである。

ちなみにこの『母に裏切れらた』『父に裏切られた』『姉に裏切られた』という経験は、私のなかに現実的なセルフビジョンを構成できないために、どのような大人になりたいのかの理想との同一化を齎すことができない。

ゆえに私は何かになりたいと思うけれども、何もにもなれないのである。これはニートを意味する。身近な人に好意的な同一化が果たせない場合、将来のビジョンが構成されずにどのような大人になればいいのかがわからなくなるということ。

 

私は確かに家族に裏切られた経験がトラウマとして眠っていたんだが、代わりにハイヤーセルフが育っていた。私のなかのひとつの人格がハイヤーへと達したと言うこと。

どっちかなのかな? と思った。

家族に裏切られることが無ければ、ハイヤーセルフ人格は構成されず、社会への適応性をみせる。現実適応。

家族に裏切られることがあれば、ハイヤーセルフ人格が構成され、社会への適応性はないが高次の自己を構成することができる。精神適応。でもハイヤーセルフを育てるのは困難。誰かに認められたいって気持ちとかも全部捨てなきゃいけないし、欲求も捨てるし感情も捨てる。自分を捨てていき、エゴやトラウマもすべて抑圧する必要性がある。

家族に裏切られた経験があるってことは、自分自身のなかにハイヤーセルフが存在している可能性があり、そういう人は「すんげえ優しい」っていう一面を持っていると思われる。

だけれど、ハイヤーセルフも、ロウアーセルフがテーマとして抱えている感情的問題、欲求的問題を背負うことでハイヤーセルフは、何か知らんが俗っぽく映ってしまうのが道理なのかな? とは思った。

ハイヤーセルフが「トラウマを抑圧し克服後にトラウマ解消をする」ことになれば、ハイヤーセルフが成立。

ハイヤーセルフが「トラウマを抑圧できずにいる」ことになれば、誇大妄想になるんだろうなと理解。トラウマを抑圧するとは『道徳への崇拝』みたいなものだと思われる。私が倫理道徳を重んじる理由は、ハイヤーセルフのトラウマを暴走させると、すんげえ嫌なやつにしかならないから、それはちょっとどうかな? って思って道徳を重んじるようにしていたってところにあるんだと思う。

大事なのって「客観的に見て(一般市民から見て)自分ってどんな風な人に見えているんだろう?」ってところに対して、恥の意識があるかどうかなのではないかと思っている。

恥の意識とは、大衆のなかにまぎれる意識であり、人との違いを恥じる意識にある。

人と違うというのはハイヤーセルフにある。人と違うからこそ、違う人や大衆性を重んじなければならないと考えるのが真実のハイヤーセルフだと思われる。

ハイヤーセルフは『道徳をちゃんとこなすだけの人格』を持つべきではあるんだが、それがまた、トラウマいっぱいでこなすだけの人格が維持できないのが現状。人と関わるだけで傷が痛むんだが、それに耐えていくたびに自己破壊を起こすかのように自分を解離させていく現象が起こる。

私自身が人格が分離している理由は、自分のこと以上に人に優しくした数だけ人格が分離している。この分離人格たちの傷を癒すことは私にとって名誉なことなんだろうなと思っている。

そして、誰かのハイヤーセルフがハイヤーを維持できずに、トラウマによって承認欲求により動いてしまう心があるとき、トラウマを癒してあげられることも、私にとってはひとつの名誉かなと思っている。

そこから誰かがまだ、人の為に働けるハイヤーセルフをつかっていけるってことだから。

 

世間の情報だと、ハイヤーセルフって「単体で存在している」と思っていたんだけれど、まったく違くて。

いや、そりゃそうだよな、だって人間のなかにある現実要素をもっている意識がハイヤーセルフだよね。

それって「現実的に善行をする意識」がハイヤーセルフであって。

ハイヤーセルフが道案内をしてくれるなどのイマジナリーフレンド的なものがハイヤーセルフなのかと思っていたんだけれど、実際はもっと現実性を持っていてくれなきゃ困るよな、確かに・・・・・・と思った。

ハイヤーセルフ単体の思想は、少なからず人を指導したり、人を導いたり、人を正しい方へ向かわせる力はあると思う。だけれど、それがイマジナリーフレンドと会話しましょう的な、妄想性障害になりましょうって方向性だったら、それ本当に高次の自己なわけ? とは確かに思う。

私はハイヤーセルフを視たことないし、知らないし、わかんないやって思っていた。

でも、確かに私はハイヤーセルフを現実性を放棄させずにこの世に適応させようとしていたんだと思う。

 

ロウアーセルフ・・・・子供の私——無邪気な私『優しい子』

ねぇ知ってる(⊃´▿` )⊃

ダンゴムチって踏み潰すとプチッて鳴るんだよ(っ’ヮ’c)

今から聞かせてあげるね( :D)┸┓プチッ

引用:創造失敗――大いなるなとちゃさま

わぁ~なとちゃ、優しいねー

ミドルセルフ・・・・本当の私——トライ&エラーができる私『創造の子』

『本当の私』という人格だ。(中略)間違えることに恐怖していた私。

間違えると怒鳴られ、なじられ、理不尽に間違いを押し付けられたりなどもあった。

だけれど、そんななかでも「間違えるけど、何度だって新しい道を切り拓こうとしている人格」へと育っていた。

引用:人格統合をし続けた結果、第八チャクラが完全に開いたみたいです。(これが覚醒ってことなのかな?)

ハイヤーセルフ・・・・天使の私——誰かを守りたいと思う私『あなた』

「なとちゃは彼くんを守るんだ(((ง’ω’)و三 ง’ω’)ڡ≡シュッシュ」

引用:第八チャクラのなかに眠る副人格『がんばる人格』『誰かを守る人格』を癒す

セルフたちも育っていると思います。それぞれ、育っている。

そして、トラウマを除去していくと、真実の姿を取り戻すのだなと思いました。

一番育てるのが難しいのが、ハイヤーセルフなのかな? と思いました。自分を捨てることだから。人は自分が一番に大事だと思っている生き物だから。そんな私は一番最初の精神のつまずきとして三歳の分離経験で失敗し、見捨てられ不安を抱えている人でした。

「親に捨てられないように生きている人」でした。そのときにハイヤーセルフの基盤が成立したのだと思うと、マイナスというトラウマからしか生まれない人格ってあるんだなァと思います。

 

だから精神疾患も紙一重。私はなぜか知らんが、すべて治してきたってよりも、千切り捨ててきたネガティブな感情がものすごく多い。それがすべて戻ってきたけれども、すべてが私のなかにある愛だった。

誰かの為にありたいと思った愛は私を切り裂いた、エゴを捨てた。切り裂かれたものはすべて私のトラウマである。

私は私のトラウマを受け取り、エゴを再び内包するとき、私は『新しい私』を構成する。

だからだとは思うんだが、私は私にやりたいことをやる=絶対的に誰かの為になっているっていう自他の統合的感覚がある。

エゴ(トラウマ)の超克と切り捨て、その後、エゴ(トラウマ)の内包により、エゴが浄化を受ける。

切り捨てたタイミングで私は誰かを助けている。そのとき私は自分が人を通して救われる。それが今だった。

 

ちなみに人は傷つく生き物ではありませぬ。傷つくとき、必ずそこにはトラウマがある。みんな違うトラウマ抱えている。

だから、人を傷つけてはいけませんっていうのは難しい。禁止は難しいんだよね。

でもさ、傷つけてしまった後に「ごめんね」て言える人間性と、それから傷に同調してあげてエゴを救いあげられるだけの人間性を育てることはできるんじゃないかなと思う。

そんな人がもしいるのであれば、その人はトラウマの数が多かったってことだと思う。

そして、トラウマの数が人が人たらしめる本質なのではないか——と思うんだよな。

たしかに自分の許容量を超えるほどのトラウマは、人生に問題を起こすかもしれない。

だけれど、トラウマを乗り越えていくことによってでしか『人間性』や『人が人たらしめる』ということができないんじゃないかなと思った。

だから、乗り越えていくことも大事だし、でも許容量を超えてしまったら、それは人にいっしょに背負ってもらえばいいものだと思う。

他者とはそのような存在なんじゃないかな。というか、そうでありたいよね。

私は私だけでトラウマを背負ってきたわけではなくて、誰かにいっしょに背負ってもらえた経験がなかったわけじゃないから。

 

だから、カルマが悪。トラウマが悪。エゴが悪ってわけじゃないんだと思う。

そこから自分が何を学び、どのように成長するのか——が人間の見せ所なんだと思う。それが人として『成長する』ってことなんじゃないかな。

ちなみに私はそれが悪とは思ったわけじゃないんだけれど、道徳を行使するには邪魔なものだから自分のなかできり捨て続けてきたものって感じかな。捨てたんだよね、邪魔だったから。

でも、捨てたものって戻ってくるんだなって思った。それもまた『いい感じ』になって戻ってきた。

それは私がトラウマを受け取れるようになったからなんだと思います。

分離したからこそ、統合が出来る。

捨てたからこそ、拾うことができる。

捨てる神あらば、拾う神あり。