苦しみへレイキする——ハイヤーセルフ副人格『苦しみを愛している人格』
「苦しいのはダメ?」
「苦しんでいるの、ダメ?」
「私は苦しみを愛してる・・・・・・」
と、言う人格の子がでてきた。辛そうに、苦しいのはダメなの? と訴えてくる。苦しみを否定されるたびに、苦しみを愛している人格の子は否定されてきた。
「そんなことないよ、苦しくてもいいんだよ。」
と、伝えると、少しだけ元気になりつつある。
苦しみを感じることが幸せ。苦しみを愛している人格の子はそのようにいった。
私はレイキ中、人の感情を引き受けている。だから、もちろん人をレイキしている最中に苦しみをも感じる。
多くの人が苦しみに苦しみもがいている。
私は、それに結びつき、その苦しみを感じている。私は苦しみを愛しているから、苦しみを感じたい。
苦しいのを感じたいとは、ちょっと異常のように感じられるかもしれない。
だけれど、私は苦しみを感じているのが好き。だからレイキ中に色々な苦しみがおこるけれど、それを楽しんでいる。
苦しいことが少なからず私のなかで悪と言うわけではない。
この苦しみを愛している人格は、私が私の苦しみを楽しみはじめたときに生まれた。
私はパニック症状が起きれば、その症状をどのように正常に切り替えるかを試行錯誤したり、うつ病になったら、そこからどのように回復するのかを考えてプランニングした。(頭がまわらないなかでやるのがミソなんだ。)
たいていの精神病はやってきている。最後の最後に今回は統合失調と妄想症がやってきたけれど、こちらもいかに回復するのかを導き出している。
もちろん、ツインレイのときも『自分の精神的な異常性』は、なんとなく理解していたのもあって、自分の精神の動きについてはすべてデータとして残している。異常を認識するには客体性が必要である。記録を書いているときが主体性ならば読み返すときが客体性を持つ。だから『書き手』と『読み手』を自分がやる。
すべては苦しみを愛しているからである。どうして私は苦しいのか、どうして私は異常なのか。私は知りたい。
私は知り、それを治したいと思った。それは『苦しみを認めていく作業』だったと思う。
苦しみを認めたい、自分がどうして苦しいのかを知りたい。私はどうして苦しんでいるのかがわからなかったともいえる。
そして、私はどうして苦しいのかを突き詰めていく。
それは、私の人格が持つ『苦しみへの愛着』でもあった。
苦しみを愛している。だから、苦しみを知りたい。
これが行動を起こしているときの苦しみを愛している人格である。
だけれど、本音は『苦しみを愛している』のである。
レイキはとてもよかった。苦しみから救われるわけじゃない。私は苦しみを感じることが出来るようになった。
苦しいと感じる、最高の気分になれる。
そして、自分のもののみならず、人の苦しみを感じることも出来る。
狂気のような人格に感じられる。
人の苦しみを同じように感じたい、愛したい。人の苦しみに寄り添いたい、人の苦しみを実感したい。
いっしょに感じたい。そんな欲求。
苦しみを愛している人格は『苦しみを感じたい』のであって、人に苦しみを与えたいわけではない。
自分で自分の苦しみを感じ、できれば、人の苦しみもわけてほしい。私はそれが大好きだから、感じたい。
苦しみを愛している。それは私のなかにある苦しみを感じたい欲求を持つ人格だけれど、人からすれば、それが愛に映る。
苦しみをいっしょに感じてくれる、苦しみを受け取ってくれる。それは人からすれば愛にうつる。
だけれど、この人格にとっては『ただの欲求』である。
苦しみを渇望している欲求。
ただ、それが好きだから感じているだけ。苦しみを感じたいから感じているだけ。何も辛いことはない。愛している、苦しみを。
そして、このハイヤーセルフは苦しみへの執着がある。
「苦しみたい」のである。苦しみたいのがハイヤーセルフなんだと思う。頭おかしい狂気がハイヤーセルフの副人格たち。
彼らは誰かを愛しているわけではない。
でも、ハイヤーセルフの主人格に統合されていくと「人の苦しみを受け取る係」になれる。
それは私の苦しみを受け取り、人の苦しみを受け取り、喜びを感じている。
そして、ハイヤーセルフの主人格は、このように言葉にする。
苦しいのは頑張っている証拠だよ。よく頑張ったね。もう無理しないでもいいよ。
もう充分がんばったならば、もうがんばらなくてもいいんだよ。
苦しみを引き受けるよ、それが私の欲求だから。
ハイヤーセルフにも副人格が存在している。ハイヤーセルフの副人格は狂気である。だけれど、私たちはそこに愛を見つけている。
苦しみすぎて、最後の最後には「苦しみ最高やん(^q^)」 ってベクトルにまで至ると、苦しいのを楽しみ始め、ハイヤーセルフの苦しみを引き受けることが大好きになる副人格が生まれてくるのだと思われる。
だから、あなたの苦しみを私は引き受けることができる。
苦しみへの執着は皆あると思う。それは苦しみを愛しているってことなんだと思う。
苦しみたいんだよ、みんな。でも、苦しみに耐えられなくなって「もう無理」って瞬間もあるんだよ。
そんなとき、ハイヤーセルフは苦しみを受け取ってくれている。
「もう、がんばらなくていいんだよ。」
そう言っている。神か! と思われるようなハイヤーセルフ。高次の自己。高次と言われるものだから、すばらしい人格者を想像するかもしれないんだけれど、それはただの狂気を持っている人格に過ぎない。
人からすれば、耐えられないものを好むからこそ『高次』とも呼ばれているが、ハイヤーセルフからすれば、人がいらないと思うものを好んでいるだけの話。
その次元にはその次元の概念がある。ハイヤーセルフは『すごい存在』というわけではなさそう。
ただ、人からしては理解の範疇を超えている概念を持っている。
それを超越と呼ぶ。
たまーにいるでしょ。スポーツ選手とかでも「苦しいのがいい」みたいな。
マラソン中にも「ハイ」にはいっちゃうみたいな苦しみを超えていく瞬間があるみたいな。
絶食中にも「苦しみを超える」瞬間があってさ。「愛(^q^)愛!!!!!!!」って経験ができる。言葉にならんのだが、絶食してもハイヤーセルフには繋がれる。
いわば、苦しみを超越するとハイヤーセルフに繋がる。苦しみを超えてひっくり返って「なんならこれ最高」に至れるとき、ハイヤーセルフに繋がる。
絶食し続けていると死ぬって感じると思うんだ。でもその先に「苦しみを超えた感覚」の先に「多幸感」があって。これがハイヤーセルフに繋がっているとも言える。死ぬことが幸せ、苦しみが幸せという意識の反転した世界観がそこにある。
身体が苦しみを超えていく瞬間、ハイヤーセルフに繋がり、ハイヤーセルフから受け取れる恩恵があるとも言える。
なんで、サイレントに入った日から絶食していたのかの理由がわかった。ハイヤーセルフに繋がりたかったんだと思う。
私は精神の苦しみを受け取りすぎて、最後はもはや精神病を楽しみ始めた人。
私のハイヤーセルフは『心の苦しみを幸福に切り替える』というものを持っているんだと思う。
人の為にありたいと思って、自分の精神的な苦痛を自ら生み出しては行動し続けたんだが、それはまだまだ道の最中。
最終的には『苦しみが欲求』になる。苦しみたいにまでいたる。
それは人の為ですらない。自分の為である。自分の欲求が苦しみたいから、人の苦しみを受け取りたいというハイヤーセルフが成立する。
人からすれば「自分の為に」と思うかもしれないんだが、私からすれば「うまうま(^q^)」って感じ。
すごく不謹慎なことをいえば「トラウマ、最高!」って感じにハイヤーセルフは思っている。トラウマ食べていいの? ねぇ、このトラウマ食べていいの? 最高に苦しいじゃん・・・・・! なんだこの御馳走・・・・・・。
って感じかな。
人が話しているハイヤーセルフの話が、なぜかイマジナリーフレンドにしか見えなかった理由はここなんだと思う。
ハイヤーセルフはただの狂気だとしか思っていなかったからなんだと思う。
そして、ハイヤーセルフは道しるべを示す等のことがあると思うんだが、その理由は「ご飯を食べたらうんうんがでる」に近い。
ハイヤーセルフに希望がある人には申し訳ない感じなんだけれど、これに近い。
だから、私は苦しむとうんうんがでてくる。苦しみを与えると、うんうんがでてくるから、苦しみのなかで閃いたり、悟りを得たりもするけれど、それは食べたら出ただけの話だと思う・・・・・・。
ツインレイのことも「苦しみ続けているのを楽しんでいる」んだけれど、最終的には「うんうん」がでてくる。すべては「うんうん」である。私が苦しむことはうんうんがでて、みんなはそのうんうんを喜んでいるに過ぎない。
ハイヤーセルフからすれば「はーすっきりした。」って感じ。
だから、記事を書くのは排泄欲に近い。書きたいし、書かないと眠れないぐらいに苦しい。便秘みたいになって苦しくて眠れない。
書くとすっきりして眠れる理由は「苦しみを受け取ったから、うんうん出た!すっきり(*^q^*)」って感じなんだと思う・・・・・。
なるほど、ハイヤーセルフ領域からすれば、このサイトって「うんうん」なんだな・・・・・ってことにちょっと驚いてはいるんだけれど、真実って、そんな感じだよね。
ちょっと面白いなって思ったのは、
こっちは蛇で、この記事は龍。
見捨てられ不安は『蛇』で、苦しみは『龍』。
蛇と龍の構図も似ている・・・・。無意識に選んでいたんだけれど、苦しみを愛している狂気は龍なのかもしれない。
根源は見捨てられ不安という捨てられた経験により蛇が生まれたけれど、その先に高次にまで達すれば、龍になるってことなのかもしれないね。いや、知らんけれども。