ツインレイが触れる混沌と秩序による現実創造について(創造主になろうよ企画①)

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

私のステージが進むごとに更新していくステージをひとつの記事にして販売しています。


さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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自分の思い通りの現実を創造していくことを『現実創造』と呼ぶ。言い切っているが、昨日、初めてキーワードを知った。

私自身が現実を創造していくために必要だと感じていたスパンは構築されていた。なるほど、これを現実創造と呼ぶのかと思った次第、現実創造ワードをサクッと使おうと思う。

 

混沌とする世界がある。その世界から創造主という父が生まれ、父からは母が産み落とされる。その母は子を抱き育んでいる。

私たちの世界の基盤には混沌が存在している。この混沌に触れることは創造へと繋がっている。この混沌をきっと多くの人が『宇宙』と呼んでいる。

しかし、宇宙よと語り掛けたところで、宇宙は反応しない。混沌は呼び出されない。

混沌に言語はない、混沌に視覚もない。理解しない。混沌へアクセスするには私たち自身が混沌と化す必要性がある。

さて、混沌とは何か——。そんな話をしよう。

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混沌(カオス)とは何か——

混沌とは、英語ではカオスと呼ばれている。

区別が立たず物事が入り混じっている状態。

引用:混沌 – Google 検索

混沌の世界では、区別がつかない。多くのことがぐちゃぐちゃに交じり合っているとき、私たちはカオスと呼ぶ。

たとえば、多くの意見が飛び交っている姿に一貫性がないことが「カオス」なわけである。ぐちゃぐちゃだよって意味。

それが私たちの宇宙の根源である。

この混沌では『分別がない』ことがテーマにあげられる。

それは、あなたとわたしはおなじである。そして、あなたとわたしはちがう。あたりまえである。このふたつがひとつに組み合わさったとき、混沌とするのである。

一貫性がない、しかし、一貫性があると感じられる——。そんなとき、私たちのなかに混沌の渦が生じる。その渦のなかにある「ひとつ」が私たちなのである。

いわゆる、矛盾した世界に存在している私たちは、秩序を求めている。これが混沌なのである。

混沌から人が生まれるまで

混沌から『創造主』がうまれる。

そして、創造主からは『母』という地球が生まれる。

母からは『人』という秩序が生まれる。

順序としては、

  1. 混沌・・・区別がない世界
  2. 創造主(父)・・・区別がない世界と秩序のある世界の境目
  3. 母・・・秩序のある世界
  4. 人・・・秩序の欠片

この4段階が存在している。この四段階のうち、創造主となるのがヤハウェ。そして、我が父たるタカミムスビと呼ばれている存在にある。

その下には『母』という存在があり、母は「母なる大地」であり、地球を意味する。

その地球のなかには多くの秩序が存在している。秩序とは引力であり、季節であり、地球の姿であり、時間である。ありとあらゆる私たちの生活の中にある循環する姿でもある。

種が落ち、芽が出る。そして育ち、葉をつけ、立派な木となったとき、木は花を咲かせ種を落とす。これも秩序である。

私たちの人体もそうである。時間が過ぎれば肉体は朽ち果て、死を迎える。

私たちは母なる大地という秩序のなかに存在している『ひとつ』である。そのひとつの集合体が秩序になり、母である。

 

これが宇宙の成り立ちであり、私たちの住まう世である。

そして、混沌も、創造主も、母も、人も。すべてが私たちのなかに存在しているものである。

私たちのなかには、人である自分、母である自分、創造主である自分、混沌である自分のすべての自分を保有している。

私たちは『宇宙』なのである。しかし、その自分を自覚できていないだけでもある。

ツインレイとは、この自覚できていない自分を自覚するたびとも言えるんだろう。

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混沌世界の構造について

混沌を呼び起こすと、現実創造が起こる。

さて、この混沌を呼び起こすにはどのようにしたらいいのか。

それが『創造主』の部分にヒントがある。いわば、創造主になれば私たちへ現実創造が出来るのである。

図の説明:創造とは混沌と秩序により生まれている
図の説明:創造とは混沌と秩序により生まれている

混沌の世界での言い分はこうである。
「あなたはわたしである」

秩序の世界での言い分はこうである。
「あなたはわたしではありません」

このふたつのうち、この地球での言い分は「あなたはわたしではありません」である。

私たちの世界は、あなたとわたしの肉体はひとつではないために、ひとつとして認識することができないのである。

私たちはこの『ひとつではない自覚』を持つように——として地球という母に抱かれ育てられているのである。

ひとつではないからこそ、相手との対立を知り、相手が別の存在であることを理解していかなければならない。それがこの地球のルールなのである。そして現実である。

ツインレイたちの多くが、この「ツインレイの相手は『別の存在である』という自立」を迎える必要性がある。それは、この秩序ある世界に存在している『秩序の民である自覚』が必要だからである。

これが地球の学習である。

しかし、真逆側には『混沌の世界』が存在している。

ツインレイたちは『あなたはわたしです』という感覚を持っている。いわばツインレイたちは混沌の民の感覚により呼び出される存在である。

最初に話をした通り、私たちのなかには『混沌』『創造主』『母』『人』としての人格が存在している。そのうちの『混沌』という人格をツインレイの相手により引き出されるのである。

ゆえに「相手は自分だ!」と大きな勘違いを齎すことにより、私たちは混沌とした世界へ引きずり込まれることになる。

混沌とした世界とは「現実と精神世界の境目がまったくわからなくなる」ような状態にある。これは精神疾患状態であり、このときに『現実にある秩序という世界観をしっかりと学習している』状態でなければ、混沌の世界に引きずり込まれてそのまま戻ってこれなくなるから注意が必要である。

簡単に説明すると「あなたはわたしです!」と、この世界で言えるか? っていうと「頭大丈夫?」って言われて終わるよってこと。

つまり、混沌世界の思想は、この現実世界では頭おかしい思想なんだよ。その自覚をちゃんと持っておかなきゃダメ。

 

この地球でどれぐらい秩序を産みだせたのか、どれぐらい秩序を持った人格になれたのか。その秩序の人格レベルだけ、スッポーンと混沌世界に飛ばれていく。そして、混沌のなかで『統合的な感覚』を学び、そのまま、秩序の世界へ戻ってくるようになる。

私たちは、秩序ある世界で混沌の世界の感覚をも有するようになる。

いわゆるこれが『創造主の感覚』である。

創造主の人格とは

創造主の人格とは『混沌』と『秩序』の棲み分けが成立することにある。

混沌とした精神世界の理解、秩序ある世界の理解。このふたつを共存させるとき、私たちは『創造主』となる。

しかし、それぞれ秩序の成立と、混沌の成立はイコールで結ばれる為、秩序が自分の中にある分だけしか混沌は成立しない。

つまりどれぐらいの秩序を当人のなかで持っているのか? により、混沌とした世界観を受け入れられるのかの度量が変わってくる。

 

混沌の量は『自分の分』なのか。はたまた『数人分』なのか、とかも違ってくる。

「人のために生きる」という道徳性は『数人分の混沌』を呼び出す創造主になるし、「自分の為に生きる」という主観性は「自分の分の混沌」を呼び出す創造主になる。

ちなみに私は「人のために生きる(他者愛)」という混沌はわかるけれども、「自分のために生きる(自己愛)」という混沌を今勉強中である。

 

この創造主とは『混沌』と『秩序』の感覚の両方を持っている。

いわば、混沌としたぐちゃぐちゃなものを、秩序におろす役割をしている。

よく言われるんだが「どうして、ここまで言葉や理論に成立させられるのか」だが、私のなかに『秩序』がものすごい量に存在しているのもあって、混沌を言語化して具現化させていく力を持っているのだと思われる。

いわゆる、混沌はぐちゃぐちゃなんだが、その混沌をこの世におろすときには絶対的に秩序への理解が必要なのである。

その秩序をどれぐらい魂が理解し、どれぐらい人間として実行することができるのか——。それが秩序の力であり、道徳の力でもあって、この秩序に対しての人間力が『混沌を管理する能力』を齎すわけである。

つまり、自分の信念が道徳にあって、その道徳を突っ走って「なとちゃは人のためあらず!」と生きてきた結果、自分のなかに自分を律する力とか、自分を支配する力とか、自分を認識する力が備わったのである。

道徳って「社会に没する」ことでもあって、自分の思い通りにならないことを常に受け入れ続ける結果、自分の思い通りにならないフラストレーションがたまりストレスにもなるんだが、そのストレスさえも乗り越えていくと『秩序そのもの』になる。

個性が無くなるんだが、この個性が無くなる状態こそが『母(母なる大地)』の段階にある。

いわゆる、秩序の民は混沌の民を呼び出すことができる。

しかし、母なる大地は、混沌たる母を呼び起こすのである。

母なる大地とは『秩序そのもの』であり、対峙するべきは『混沌そのもの』でもあるため、私にとっての闇は、秩序なんてクソみたいな人となるのである。(存在が常にカオスになってしまう)

で、我が創造主は『秩序がクソ』であることを受け入れるとき『混沌』を内包する。

 

ツインレイのなかでも、どのベクトルの創造主なのか? は違うのだと思われる。

どれぐらいの混沌の量を内包できるのか——により、自分の秩序の量が図れるかなと思う。

 

また、混沌側は『秩序』を内包していくことになる。秩序とは、この世のルールであり「他人は自分とは違う存在である」ことを受け入れていくことになるのだと思われる。

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現実創造のメカニズム

本題に入るまでが長かった。

現実創造とは『混沌への呼びかけ』である。単純に、混沌の世界にはいろんなものが入っている。ぐちゃぐちゃであって、そのぐちゃぐちゃの中から『混沌内容を秩序へ落とす』ことにより、現実創造が可能になる。

つまり、秩序化ができれば、そのまま、そのメカニズムを世に落としてこれる。

秩序が理解できていなければ、秩序は生み出すことはできない。いわば、この世にある既存のルールを理解せねばならない。

 

世明けのツインレイでは『私が作ったツインレイを秩序化させている』だけであって、そのためには『ツインレイのルール』を構築していく必要性がある。

我が道を行く、それが私である。それが『母』の領域の振り幅だから、他人への創造への影響をも産む。そこには共鳴がある。

 

ものすごく単純であるが、実行にするには難しいんだと思う。

ツインレイによる現実創造

図の説明:ツインレイによる混沌の繋がり

ツインレイのふたりは『秩序の民』として出会う。しかし、元々は『混沌の民』だったので、ふたりはこう語りあう。

あなたはわたしです、と。

しかし、この世は秩序ある世界である。ゆえに、混沌の民だったふたりは秩序により離れ離れとなってしまう。これがサイレント期間である。

ゆえに、私たちは創造主を呼び出すことにした。

創造主は混沌の民たちへ、このように語り掛ける。

「まずは秩序の世界に生まれていることを受け入れなさい。」

ゆえに、私たちはこの世の現実を受け入れることになった。そんな現実がやってくる。

私たちは何度も何度も『現実』を突きつけられては、その現実を受け入れることになる。

ついに「秩序の民」である自分を受け入れたとき、創造主はこのように語り掛ける。

「つぎに混沌の世界の魂であることを受け入れなさい。」

私たちは、このときはじめて「混沌の民」であることを思いだすのである。そして、混沌の民であったときの記憶を思い出し、混沌の思想を手に入れていくことになる。

元々は、秩序の民であることを受け入れることがないまま、混沌の民として繋がってしまった。

今度は、秩序の民として生まれたことを受け入れ、混沌の民である自覚をも持っている。大きな違いだ。

そして、創造主はいう。

「秩序を受け入れてごらん。その分だけ、混沌をわけてあげるから。」

私たちはこのときから、混沌であることを許されていく。これを『覚醒』と呼ぶのかもしれない。

母なるツインレイによる混沌創造

図の説明:「道徳や理論」と「主観や感情論」と対峙することにより『混沌』を呼び起こす

いわば、自分の精神構造のなかで『感情の人格』と『道徳の人格』を分離させておく必要性がある。その分離した人格のうち、感情の人格を放棄したとき、このふたつの人格が対立し、混沌が生まれる。

私たちが、この秩序ある世界から『混沌』を産むということ。(この地球が生まれた経緯を逆算していく。)

ツインレイによる『現実創造』は『創造主になる』ことにあるんだが、こっちは『混沌創造』であり『混沌になる』ことにある。

混沌と秩序の両方が自分の精神構造に成立すれば、同時に自分のなかに『創造主』は勝手に召喚される。

 

いわば、この秩序の量が『人体100%』のとき、混沌世界が自分のなかに召喚される。

また、『人体50%』のとき、混沌世界が50%召喚される。

人生のなかでどれだけ秩序を受け入れ、爆発的に混沌を生み出すのか——である。

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創造とは何か——

創造とは何かをまずは語るべきだったのかもしれない。

 

なとりという存在は『混沌(カオス)』だよ。マジでね。

このブログを書いている人が「イカてないまともな人間」とは思えない。この感覚が『秩序(正常)』であり、しかし『イカれている自分』を受け入れているとき、カオスを内包しているともいう。

めちゃくちゃイカれているけれども、それを活かすことができたとき、私たちは創造主なのだと思われる。

意味が分からないことを意味が分かる状態にする。これを『活かす』とする。

ツインレイと出会って「意味がわかんね~」と思ったと思う。それを意味が分かる状態にまで落とすこと。これが『創造』である。

創造とは『カオス(意味がわかんね~)』を『秩序(意味が分かる~)』にまで理解を求めることである。

で、人に答えをもらっているとき、まだカオスしきれていない。自分のなかで秩序が成立しきれていないから、受け取れているカオスが少ないのだと思われる。

カオスそのものを受け取っているとき、他人には答えを求めずとも、自分でカオスから秩序に起こすことができるようになる。

 

創造とは、私たちが息をすることである。

ツインレイが言葉を失ってしまったこと、どうやって表現すればいいのかがわからなくなってしまった人たちも多いと思う。

そのとき私たちは息をすることができない。

これを「もどかしい」と感じる。

だから理論を求め、秩序を知りたいと思う。その願いをかなえるのが『創造』である。

創造とは、人を生かすことに繋がっている。

私は、このサイトを構築しながら息をしている。きっと、このサイトを読んで、息をすることが出来るようになった人もいる。

創造とは自分の為ならず、人のためにも繋がっている。

だから、私たちは創造をする。みんなで息をするために。

 

ツインレイを引き寄せる為の現実創造などもあるらしい。ただ、私はなぜかこれを率先的にやろうとは思っていない。(否定すると必ず肯定になってしまうから、なんとも言えないんだが、今の気持ちとして——)

私の幸福と彼の幸福が『同じ』になるときが、この先あるかもしれない。そのとき、きっとその現実はやってくるはず。

私は、この現実を変えたいと思っていない。この現実で、実際ものすごく満足している。

彼がいないこの現実に、どうやら満足しているのである。

私の人生のなかにも不幸はあった。その不幸を想うと涙が出ることもある。だけど、その不幸の裏側にも幸福と優しさが溢れていることを知っている。

だから私は不幸を『間違い』とも感じないだろう。

今、ここにある現実そのものを愛している。この現実を愛しているとき、きっと誰かもまた私が持つ現実を愛してくれる人がいるかもしれない。

私はその奇跡を知りたいと思っている。

私は、自分の現実創造力を使うとき、誰かが息をするときのために使いたい。

ただ「生きてほしい」と思っている。生きるとは使命だから。その使命を想うとき私は創造をしよう。その使命が少しでも優しいものになるように。

 

自分にとって都合の悪いことを愛してきた私にとって、現実を変えようだなんて思う心がありませんでした。

おかげさまで、今日も相変わらずニートやっているけど満足している。これのどこが悪いのか、さっぱりわからないよ。

私は運命を支配したいとは思わなかった。ツインレイの相手を引き寄せたいとは思わなかった。

私自身の結論はここ。

現実創造でツインレイは引き寄せることはしない。混沌に身を任せ、多くのことを感じるよ。そのとき、私は必ず『創造』している。

感じるだけでいい。感じたままに言葉にすればいい。そのとき、私は未来を創造し、その未来を受け取るだろう。

悲しいときには悲しいと涙を流し、嬉しいときには嬉しいと思う。人の想いに心を寄せて生きる。

そうすれば私の無秩序たる混沌は『言葉』をはき散らすから、その言葉を書いていくよ。

矛盾しているかもしれない。だけど、私はその矛盾を愛し、辻褄合わせをしていこう。多くの言い訳をたて並べていこう。

 

その心に見合うだけの現実を得られたならば、それ以上の幸福はない。

自分の運命を愛するとは、このようなことなのかもしれない。

心のままに生きるとき、私は創造している。

ナチュラルに生きる。