ツインレイ男性の天龍による傲慢さと絶望。
ツインレイ女性たちに見てほしいなと思う景色がある。
どこでもいいから高いところに昇ってきてみてほしい。そこから景色を眺めてみてほしい。
その景色がツインレイ男性による目線であることを、知ってほしいと思う。
天からみれば、地上にいる人たちに何も感じないのである。
車のなかに人がのっている。だけど、そのなかに「人が車に乗っている」ことは頭では理解できるが、心では理解できないこと。オートモードで車が動いているように見えている。
ビルが立ち並ぶなか、窓の向こう側には人がいるだろうと考えることはできる。
でも、そこに「人がいる感覚」が得られない。
タワーの下には人がたくさん歩いている。でも、その人たちを「人」ということが頭では理解できるが、心では理解できない。
誰もいない世界が広がっていた。
私は東京タワーに昇ってそんなことを感じた。
ツインレイ男性たちは、この感覚を持って他者を見ているのだと理解した。
目線が高すぎて、目の前の人に対し「人の心」や「人の感情」を理解することができない。「個人」を理解しない。
またこれを傲慢とも呼ぶが、天龍とも呼ぶ。
天にいた龍が地に生まれたときの困惑とも言えるだろう。
これを傲慢と呼ぶべきなのか、はたまた、困惑と呼ぶのかは人それぞれだろうが、天龍は地に生まれると困惑する。
そもそもわからないのである、目線が高いところからしか人を見ることができないからである。
ツインレイのふたりの弊害は「傲慢」にもある。
ツインレイ男性が目線が高い位置から目線をおろし、ツインレイ女性を正面から見つめることができないことにある。
だからこそ、ツインレイ女性には一度「高いところ」にいってみて、ツインレイ男性の感覚を知ってほしいなと思った。天龍の感覚を。
私は納得した。なるほど、これが彼のみている世界か、と。
完結的な美しき世界でもあり、また、心無い世界にも感じられた。
私が知らない世界を彼は知っているんだろうし、彼は私の知っている世界を知らないんだろう。
どちらが正解ってわけじゃない、ただ「違う」のだ。
彼はこの完結的な美しい世界のなかで生きている、そしてその世界をみながら飛んでいる。
彼はこの世界を見守っているのである。彼らと私たちが守っているものがそもそも違うのである。
そして、ツインレイ男性も「地にいる天龍」だからこそ、地の世界観というものを理解せねばならないのだと思われる。
いわば、ツインレイ男性は天から地上落ちした龍とも言えるんだろう。
地上にいるからこそ、天としての視点は「支配」にもなるし「傲慢」にもなるが、そこはさびしい世界とも言える。
ツインレイ男性にとって必要なものは「小さい自分を理解すること」なんだろう。東京タワーからみえる豆粒の自分である。
ツインレイ女性が教えてくれる小さい自分を受け入れたとき、ツインレイ男性たちは絶望するだろう。
ツインレイ男性が受け入れることができない自分の姿は「人の自分の姿」である。
あなたはもう天龍ではないと、ツインレイ女性が言う。人の自分の姿である自分をツインレイ女性は受け入れるように言うが、サイレント期間がはじまるときには「天龍」となっているのである。
ツインレイ男性は人になる。
ツインレイ女性も人になる。
どちらも「人ではない」のである。
人ではない生き物が「人になる」のであり、その経緯はそれぞれにあるだろう。
ツインレイ男性は天龍である。そして、ツインレイ女性により地龍として地に足をつけるように促される。
ツインレイ女性も天女である。しかし、天女は女になれる。その辺は大いに違いがあるように感じられる。
ツインレイ男性はツインレイ女性と出会うと天にも昇る想いとなるだろう。そのまま天に昇って行ってしまうが為に、ふたりは決別することになる。
天に昇って傲慢となる。だけど、私たちは人である。本質的な部分が龍であろうが、なんであろうが、私たちは「人」なのである。龍ではない、神ではない。人である。
それが「小さき人」、東京タワーから見下ろし見た存在。
ツインレイ男性が最も向き合うことができないもの。
それは「この世で最も小さい自分」であり「人間となったこと」、それが自分であることを受け入れられない。これを傲慢とも呼ぶが、元々、天にいる子たちでもあるから仕方ないのかなとは思う。
そんな子たちが、この地上に生まれることで「地龍」となって人柱の役割を担うのである。
ツインレイ男性の絶望。
それは、自分が人であることである。自分が見下している豆粒の自分である。
言葉にならないものがある。
愛おしいものだな、すべてがな。
この世界は龍に守られているのだな。
でも、そろそろ戻っておいでよ。