セフィロトの樹から導き出されるツインレイのセフィラの手放しについて
左足の付け根が少し解放された。
地上のツインレイのテーマってさ『栄光』と『勝利』だよね。セフィロトの樹の下のほうのセフィラになる。
- ケテル(王冠)
- コクマー(智恵)
- ビナー(理解)
- ケセド(慈悲)
- ゲブラー(峻厳)
- ティファレト(美)
- ネツァク(勝利)
- ホド(栄光)
- イェソド(基礎)
- マルクト(王国)
- 隠されたダアト(知識)
セフィロトの樹のセフィラを手放していくことが大事なのかな? って思った。
王冠、理解、智恵、峻厳、慈悲、美、栄光、勝利、基礎、王国。
これらって確かに『無条件の愛』を前にしたとき、形無しなものじゃないかな。
赤ちゃんはひとつも持って生まれてこない。
でも、私たちにはエゴがあるから、何かを求めている。このなかのセフィラを求めて生きているというか。
私の場合、智恵、慈悲、理解かかもしれないな。
でも、必要ないよって言われている気がする。
知恵はいらないし、慈悲もいらないし、理解力もいらない。
たぶん「何もいらない」んだけれど、そこに到達するまでは『手に入れる』必要性があるんじゃないかなと思った。
人生のなかで「ある」にならなければ「捨てる」ことすらできない。
もっていないものは捨てることができない。
そして、持っていると誤認しているというか。勘違いして持っていると思い込んでいる人たちも捨てることは出来ない。
本当に持っている人たちでなければ、捨てることも出来ない。
栄光を持っていない人が栄光を捨てると言っても、持ってないものは捨てられない。
で「あなたは地上のツインレイで何を捨てた?」って話なのかもしれない。
地上のツインレイは何を模していた?
うーん、私の場合は「勝利」とか「栄光」なんだよね。彼は勝ち組で名誉を持っている人だったから、結婚すれば「勝ち組」って言われるやつだったっぽい。(ってことを地上のサイレント期間に学んだ)
地上のツインレイを私は捨てた人なんだけれど、地上のツインレイの彼も勝利や栄光を捨てた人だと思う・・・・・・。なんかそれを持っているがゆえに傲慢が際立ってて、めっちゃヤバい人になっていたから。
楽園のツインレイとして、今回だけれど。
今回は『隠されたダアト』のような気がしている。『知識』としているんだけれど、いわばこれは宇宙の叡智っていうか。
神の概念とか、宇宙を理解するとか。自分は神である——とか。そういった部分の『叡智・霊感』を捨てることが出来たのか——という課題だったような気もしている。
私はセフィラを3次元から5次元に分類している。
(地上)3次元・・・・・・王冠、智恵、理解、慈悲、峻厳、勝利、栄光、基礎
(楽園)4次元・・・・・・美、隠された知識
(??)5次元・・・・・・王国
人が生きるために、どれも不必要なものなんじゃないかなと思った。
地上のツインレイと結ばれることは、3次元のセフィラを持っている人と結ばれることなのかもしれない。
今、私がやっていることは『4次元の課題』のような気がしている。つまり私が追求していく美学という人としての在り方や人間性や哲学など、それらを捨てていく過程が今の人格統合をやっている。
そして、隠された知識とされているダアトは、少し前の『妄想』とかのターンだと思われる。感覚的には別に霊感なんて持ってなくても生きていけるっていう感覚である。
つまり、すべて切り捨てていっている。
最後の5次元の課題としては『王国』がある。
これは何かっていうと、すべての集大成が『王国』なんだよね。マルクトの意味は王国って訳されているんだけど、これはドイツ語で『市場』って意味らしい。
マルクトMarktはラテン語のmercatusに由来し,〈買う〉〈商う〉に主たる意味がある。
「お商売することをやめる」なのかな。これもひとつの正解だとは思うけれど、それじゃ飯食えんな。
人の為になることがわかっているから、それを提供する。メリットを提供する。
私はまだ他者奉仕を考えている。
3次元レベルだと『自分の為に』なんだけど、4次元レベルだと『人の為に』なんだよね。
自分の為に手に入れる王国も違えば、人の為に手に入れる王国も違う。
どちらも違うんだよね。だから、自分の為に商売をすることも、人の為に商売をすることも違う。
王国って、バラバラになっている『自他』なのかもしれないなって思った。
私のなかには多くの副人格たちがいるんだけれど、自分と他人の関係性のなかで多くの自分を抑圧してきた私は、私と言う王国のなかに私と言う住人がいっぱいいる。
そう考えてみると、3次元の「自分が自分が~!」といっている人格たちが4次元の「他人が他人が~!」といっている人格たちが抑制しきって。
最後に5次元の王国が3次元の人格たちも4次元の人格たちも、皆いっしょに暮らせるなとり王国を建設していたような気がする。
セフィラたちがタロットカードで結ばれているように、繋げている感じ。
だから私は王国になるのかなって思った。それは「ひとつの国」だけれど「みんなで共存している国」って感じ。
王国は帝国主義だったんだけれど、今度は民主主義になったかもしれない。
セフィロトの樹でみると、足の付け根が『栄光』で。この栄光を手放すとき、私はパスである審判を正しく持つことが出来るようになるのかな。
審判は「復活」なんだよね。そういえば、哲学者の薔薇園も「審判」と「世界」を最後の絵で表現しているような気がする。
審判 | 世界 |
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栄光を手放すとは私の場合、愛されたい欲求を認識することだったような気がする。
愛されたくて多くの努力をしてきました。
この数年間は多くの人に求められました。私を求め、愛してくれた人がたくさんいました。
本当にありがとうございました。
多くの人に私は愛されていたことを手放していくこと。これが栄光の手放しだと思われる。
栄光の手放し⇒パス:審判⇒王国
勝利の手放し⇒パス:月⇒王国
基礎の手放し⇒パス:世界⇒王国
栄光を求めなければ、人に厳しく審判をつけることもなく。
勝利を求めなければ、感情に陥ることもなく。
基礎を求めなければ、完全性にこだわることもなく。
王国とは、人を決めつけず、不安もなく、完全ではないってことなんだろうね。
一概に決めつけられず、不安定で、完ぺきではない存在が人である。
そして人は勝手に決めつけ、感情的で、完全な存在だと思っているのも、また人である。それがアイデンティティになっている。
だから私はこう思う。
勝手に決めつけていいし、不安定でいいし、自分を完全だと思ってていいと思う。
それが人が人として抱える苦悩となって、いつか苦しみから解放されたとき、その人はきっと本当の意味でのアイデンティティを手に入れるんだろうから。
表と裏がある。両面があることに、ようやく到達する。