多くの人に愛されて求められていました(愛されたい副人格の自己統合)
今年の冬にレイキを3rdまでとりました。
で、次にレイキのティーチャーは誰かに伝授をしたくなったら、資格を取りに来てくださいって言われていました。
ここ最近は、レイキで自分と向き合う、トラウマと向き合う、自己統合や人格統合をする――ってことをずっとやってて「人にレイキを伝授しながら、そんなことを教えていくのもいいかな」とか将来のことを考えていた。
そんな話を江ノ島神社のなかでuyuさんにも話してた。江ノ島神社にいるのは弁財天さんだし、技能の神さんだからかな?
だけど、ふと今。なんか違うかもって思い始めた。
できる、できない――で言えば、できる。
でもそれをやりたい、やりたくないで分類すると、どっちでもいいかなって思って。
できることをやればいい。でも、やりたいかどうかが別になってしまっている。
これを本当にやりたいのかなって考えていて、これもまたひとつの逃げになっている気がした。
レイキを伝授するってなると、教える立場になる。それは人への奉仕だなって。
人の為になることがわかっているから、それを提供する。メリットを提供する。
私はまだ他者奉仕を考えている。
人の為になることと、私の人生は別物なんじゃないかって今は思っている。
私の人生は他者奉仕の為にあるわけではない。実際、世の中の役に立つことはわかっている。
だけれど、私は他人に時間を提供し、まだ自分の人生を潰す気なのか?
ふとレイキの先生に「伝授がしたくなったら」と言われた言葉を思いだして。
私、純粋にレイキの伝授をしたいって思えていないことに気づいた。
メリットがあるから、役に立つから。
確かにレイキは私にとってかけがえのないものになった。それが他人にとって必要か不必要かは別の話であることをも含めて理解している。
だからゴリ押しはしない。
だけど、レイキって『存在への愛』だよね。
多分なんだけど、これからレイキは不必要であってもいいんじゃないかって思った。
存在が愛されていることがわかっている人たちにとって、レイキは既に持っているものだと思う。
私は多くの人の存在を愛している。その存在たちは皆レイキのエネルギーを持っていると思う。
でもね。持ってない人もいるんだ。
私のように無条件の愛を知らずにいる人もいて、そんな人達はレイキを通して無条件の愛を受け取って学ぶツールとして与えてもらえる。
私はレイキの伝授を拒絶している。
それは伝授を喜べない自分がいるからだと思う。
そこにある存在への愛がない人たち、レイキを求める人たちを私は喜べないんだと思う。
いつかのレイキの伝授をしてもらった愛を知らない私を拒絶している。
自分の子供に伝授することを考えてみた。なんとなく嫌だった。
自分の夫に伝授することを考えてみても同じ。家族にも友達にも同じ。
嫌だった。
レイキが私にとっていいものではあるけれど、人にとっていいものかどうかであれば、必要が無いものであってほしいと思っている自分がいる。
レイキを必要とした、愛を知らない自分を拒絶している私がいる。
愛されたかったです。
レイキは私にとって初めての自己愛だったように思います。手を自分の身体に当てて、ゆっくり過ごす時間は私だけの初めての時間でした。
愛されたくて多くの努力をしてきました。
この数年間は多くの人に求められました。私を求め、愛してくれた人がたくさんいました。
本当にありがとうございました。
他社奉仕の心は根源に愛されたいという欲求があります。
欲求が抑圧されると、愛するという能動のみになります。感謝など求めなくなっていきます、ただ実行あるのみです。見返りはいりません。
最後は愛されたかったことまで忘れます。
忘れていました。
誰かに求められたかった私が長い時間をかけて満たされていました。
ありがとうございました。