立体的に概念を把握するまでの知的覚醒
数学者の岡潔が、なかなかスピリチュアル的な面白い話を残してくれているんだが、こうやって着想を得ていたんだろうなと思った。この人、最後は確か重度の肝臓がんだったはずなんだが、痛みもなくお亡くなりになったっていう話なかったっけ?
なぜか最近、頭のなかに岡潔がきてる(?)
夢見の図書館にて情報をいただきました。ので、その一件についてを。
1回目 | 2回目 |
---|---|
まず、一つ目の画像がみえて、その次は、次のように展開されていた。
意味はこのようなことである。
私が導き出しているセフィロトの樹と同じような意味だと思われる。
平面を2次元、立体を3次元、時空が4次元って感じだろうか。
平面から立体的理解へ
平面が二個揃うことで紐づけられ「立体」が成立する。
これが3次元への展開である。
平面的理解を進めていき、2次元が完成されたとき、私たちは自分の平面的理解とは真逆の存在と出会う。相手も平面的理解者であるが、その理解はまるで真逆であり、それを私は地上のツインレイとして定義した。
それは、恋というカタチで紐づけられ、自分とは異質の平面的理解を紐づけることにより、立体的理解へと進む。
この立体的理解が成立することにより「3D的な概念的理解」や「脳内で概念が立体的」だったりもする。つまり、理解力が立体的になる——が簡単な説明になるんだが、いくばかこれを言語化するのは難しい。理由は、各々の知性によって何を立体化させるのかは別の話だからである。
この立体的な概念へと到達すると、基本的には脳内でクルクルと図形が上下左右から動かしては、いかなる角度からも図を理解できるみたいなキャド脳が成立すると思う。ただ、その人が図形的な理解者であるならば——である。
あと、この段階における人たちは「三つ目」の概念を知っていると思う。二元性のみならず、三つ目の回答を知り、オリジナルの回答を持つようになる。
私たちは両目がある。片目だけでみると、世界が平面的にみえる。両目によって私たちは世界を立体的に把握している。つまり、平面(片目)と平面(片目)によって、立体(両目)として認識することができるようになる。
そういうふうに世界が捉えられるようになるのと、同時に、これを知性のなかでも展開できるようになると言うこと。
立体的理解から時空的理解へ
立体的理解ができるようになると、私たちは私たちのなかに「立体的概念」が成立していく。その概念が樹立しきることによって、自分とは真逆の立体的概念者が現れることになる。
これを私は楽園のツインレイとして定義した。
これが4次元への展開である。
前述した喩えを持ち得るのであれば、片眼で立体的な把握ができるようになり、両目によって時間的概念を捉えることができるようになったってところだろうか。
この段階における理解では「今」というタイムラインを前に後ろに動かすことが出来て、先見などの予測をたてたり、推測したりすることが得意になると考えられる。
つまり「未来がわからないから不安」とかいうこともなくなるわけではなくて、逆に「未来が分かるから不安」とかも認識するようにもなる。
そして、自分自身のなかにある『過去』と『未来』が紐づけられていきやすく、記憶の想起も多くなる。
この場合、三つ目の概念として存在するものが、別のタイムラインとかになるのかもしれない。別のタイムラインを認識し、把握することで私たちは『今』をどこの世界線に置くのかを理解する。
時空的概念への到達とは
いわゆるこれが5次元にもなるんだが、私たちは5次元をみることも感じることも解釈することも、基本的には出来ない。
で、この前述している通りの段階を踏まずと、この5次元へアクセスすることができる人もいるし、多くが出来ないんじゃないかなと思っている。
この時空的概念とは「自分とは別の時間に存在している人」にあり、それは私たちがこの世に『ひとつのタイムライン』として人間世界しか認識していないことにある。
この人間世界——、もとい地球には、いくつもの空間が折り重なっている。つまり、私たちは別の空間でも、また「私」が存在している。これをハイヤーセルフなどの言葉で説明するのかもしれない。
私たちは「私」というこの人生の主導権を持っている人格が存在し、また、肉体を保有している。この肉体を保有して生きている私たちしか私たちは認識できない。
だけれど、この時空的概念への到達が起きるとき、私という人間のなかに、またほかの存在が私のなかにはいっていることを知ることにある。
これを私は「神」だと認識した。私は私が存在し、だけれど、私と一緒に私の人生を歩んでくれている存在がいる。それが神である——と。いわば、この無言にいっしょにこの人生を共有している存在が私の中にいると言うこと。
これが時空的概念を獲得した先にある認識なのかな? と思っている。
能力の過信について
上記の図では平面と平面を繋げていくには4本の糸が必要である。立体と立体を繋げていくには8本の糸が必要である。
つまり、この図を立体化させていくには、繋がらないものを繋げていかなければならず、本来ならば縁がない存在と縁が生まれ、またその縁を認識し受容し、受け入れ、また分離させることで私は新しい認識力を上げていたような感じ。
また、その平面と平面をつなげるには最低一人が必要であり、どれぐらいの大きさの平面図を起こせるのかは人それぞれ違うように思う。
立体と言っても三角を立体にすると三角錐が一番小さな立体かなと思うんだが、この立体を如何に起こしていくのか——である。
自分のなかで立体を構築するために必要な思想がどれだけあるのか——でもある。
で、ここでひとつあげられるのが「面」と「面」があり、これを立体にするときに必要なのは「線」である。
面を2次元とするのであれば、線は1次元である。
同じように立体が3次元であるのであれば、線は1次元である。
この糸を繋げていくとかいたが、この線の役割をしている人たちの多くが「2次元にいるのに1次元的な精神」「3次元にいるのに1次元的な精神」というような状態にあったことが、私のなかではなかなか面白いなと思う。
1次元的な精神とは「エゴイズム」ということ。自分のことしか考えていないのに、能力的には次元を超えたものを持っている。だからこそ、精神が追い付かず、その能力をエゴにしか使えない。
それって能力に振り回されて破綻しないか? ってこと。なんで、彼らがそういった能力を持っているのか——については人それぞれ違ったかな。
精神とは「自分の人生を自分で生きる力」として定義したとき、能力に振り回されるとは「自分の人生を能力に預けられる」ことになってしまい、その能力を過信するあまりに自分の人生が破綻していってしまう感じ。
つまり知性があればあるだけ、それに見合うだけの精神性を備える教育をしていかないと、エゴばかりになって反社会性の強い人間だったり、自分の人生を生きることが出来ずに人のせいにし続けてしまう人間になって人に疎遠されたりなどが増えるような気がしている。
社会からは受け入れられない人材となってしまうって感じ。
直感には必ず理論が存在する。
右脳と左脳のバランスかもしれない。右脳だけで生きることも出来なければ、左脳だけで生きることも出来ない。
直感があるならば、理論を提唱せよ。そこに理論が成立するのであれば、その直観は正しい。
この証明ができて、本当の意味で知的覚醒として考えられるかもしれない。
理論がある人は直感がある。これは絶対的にそう。
だって、直感は理論の先にあるんだから。だから理論をたてよ。その理論がないならば、それは直感ではない、ただのあてずっぽうに過ぎない。
そして、正しい直感には、理論が後からついてくる。あてずっぽうには理論がついてこない。
霊能力ってそういうことなのかなと思った。