愛と信頼による自己破壊についてと、一人の渇望。

2024-05-26

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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タイトルが穏便ではない。

愛による自己破壊とは「相手へ愛情を差し出すこと」でもあるのだが、現には「相手を受け入れる力」にある。相手を受け入れ続けることにより自己破壊を起こす。

信頼による自己破壊とは「相手を信頼すること」である。原理的には「相手を受け入れる力」にある。

つまり、愛も信頼もどちらも、相手を受け入れることで自分を破壊させていくことになる。

この経緯をたどっていくとき、私たちは愛するが為に自分を破壊し、信頼するが為に自己破壊を起こす。

破壊と書いていると、そこまで想像力が追い付かないものである。私たちは「自分」というものが存在している。愛とはその自分を押しのけ、相手を受け入れていくことにより「相手と同化する」ことになる。いわゆる、自分を身投げさせているようなものである。

信頼とは、自分の安全がそこにあると、感じていることである。いわゆる、相手に裏切られるはずがないと信頼しきることが人はなかなか難しいものなのかなとも思っている。いわゆる、人を信頼することも同様に自分を守りたい意識とは裏腹に自分を身投げしているようなものである。

自己破壊とは、己のなかにある「大事なもの」を相手へさしだしているようなものであり、この大事なものを差し出しきるとき、私たちは私たち自身のなかにある「芯」を喪失することになる。この芯とは「自分が自分であるアイデンティティ」のようなものであり、自分が自分であるアイデンティティを差し出すとき、私たちは相手がいなければ自分を保つことができない状態になる。

いわば、とてつもない危険——。これを依存と呼び、この依存を呼び起こすような状態へ陥るときに限り、私たちはその関係を破綻させる。

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この関係性の破綻は、お互いがお互いを侵略し過ぎる構造により、私たち自身の『自己喪失』による問題が生じるためにある。

あなたがいなければ私は自分が存在させることが出来ません。この他者による自己を確立させるとき、私たちは愛と信頼の完成と表裏における破壊を実感することになるだろう。

愛は破壊となり、信頼は破壊となる。

私たちは相手を愛せば愛するだけ、私たち自身が「愛そのもの」となり、信頼すればするだけ、私たち自身が「信頼」そのものとなる。

それは、他者が存在しているからこそ、愛し、信頼し、私たちの存在が樹立する瞬間にあり、また、同時に「自己破壊」が怒ることでひとつの循環が始まるのである。

私たちは、破壊したら破壊した部分を再び創造しなければならない。相手へ差し出した愛により、私たちは自分のなかに「愛による創造」を始める。信頼も同様である。

他者愛は、自己愛による創造を始め、他者信頼は、自己信頼による創造を始める。この創造により私たちは「より自分らしい自分」へとなっていく。

他者愛から生まれることのない自己愛を知り、他者信頼からしか生まれることのない自己信頼は、どれぐらいの総量を相手へ預け切ったのかによるのである。

また、この愛と信頼による破壊は「すべてを捧げきること」にあり、この破壊を起こすことにより「自己の創造」を始めるということである。これがエゴの破壊にあり、従来存在していた自分が本来の自分ではないことを知ることとなる。

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自己破壊は自己創造へと繋がり、その創造の力は私たち自身のなかにある「愛」「信頼」というものにより、自分自身のなかにある心を生み出していく。

私たちは、愛されたかったのである。そして信じてもらいたかった。その心そのものに見合うだけのものを、相手へ差し出すことにより、自らが自らを得ていくことになる。

自己愛とは「自分を愛すること」ではない。相手を愛することにより、それに相応するだけ破壊を起こし、その破壊部分を創造で満たしていくことが自己愛なのである。

愛とは創造である、信頼とは創造である。これは破壊である、破壊からしか創造ができない。

また、この自己創造の経緯で、私たちは他者と自己の循環により生み出される「自分」を構築していく。他者に与えようと思った気持ちこそ、自分に与えられるものなのである。

 

破壊された私たちは離人する。いわば心神喪失に近しい状態となり、嘆き悲しむ等のことでもなく、ただ「喪失感」に囚われる。私たちはどこかの悪い宗教にかかり、その宗教から脱退したかのような——。そんな、自分が没頭したものがひとつ取り上げられたような感覚を覚え、その感覚を離人的な感覚が一番に近しいものような気がする。

その喪失の量は、どれだけ差し出したのか——である。差し出した分だけ私たちは喪失し、離人を起こすのは、差し出した量に見合うだけ離人が起きるのである。このときの私たちは「悲しい」のでもない。ただ「自分を失う」のである。

これは依存である。そして、この依存により私たちは失った部分にだけ「自分」を創造する。それがもし、等身大ほどであれば、大きな離人の経験を覚え、その経験からの創造は、与えたものからしか生まれることがない。

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自己創造がまるごと「自分」を創造しきるとき、私たちは「自己愛」と「他者愛」の循環を覚え「愛」となる。また「他者信頼」と「自己信頼」の循環を覚え「信頼」となる。

他者と自己による循環から生み出されない「心」が存在している。これは人それぞれ心の在り方なのではないかと思っている。自分が欲しい心を私たちはただ探している。それは私たちが最も欲しいと思う心の在り方である。

私はたぶん、愛されたかった。だから愛した。愛されたいからである。愛されたかったから、人に差し出すことで自己破壊を起こし「自己愛」を構築していった。そのとき、ひとりよがりの愛を構築することはない。他者をも愛し、自己をも愛せるのである。

あなたを愛しているとき、私は私をも愛しているよ。

 

この自分のなかにある「他人」と「自分」という分離は、離人という成就により生み出されていく。

私たちは他人と自分をひとつだと常に認識している。この分離意識は、すべてを自分を丸ごと他人に預けることが無ければ出来上がらないのである。そして、他人に預け切るとき、私たちは「何もなくなる」のである。その何もなくなる感覚により、私たちは離人感覚となる。

たぶん、彼が最後の最後に言葉にしたものを思い返せば「アイデンティティが喪失される感覚」なのだと思う。自分が自分ではなくなっていく。そして、その後に破壊しつくされたあとにしか私たちは本当の私たちになることはない。

 

私たちが持つ創造性は「別の形」にも具現化させていく。私は愛だからこその「愛の理論」を建てたわけだけれども、これもまた私のカタチなんだと思う。

そして、それが世にだされるとき、私は「完成しつつ」あったのである。

私たちは私の中にあった「多くの問題」をサイレント期間に向き合っていく必要性があった。それは、私が私のなかに内包した彼が案内をしてきてくれた。私が愛した彼が私をずっと守ってくれていたのである。

離人し、その後、私は「彼」となったのである。それこそ、私と彼の守護龍がひっくり返るほどには、私は「彼」となった。

私は彼となり、彼のまま、私は私を探したのである。私は私を創造したのである。私が愛した彼が私のそばにい続けては、私を探す旅を彼が手伝ってくれたのである。そこに「私」がいないからこそ、私は彼を頼りに、私は私を創造した。

私は私となるために、誰かを必要とした。それはもっとも愛した人だった。

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もし、私がこのサイレント期間に多くの問題を抱えていたとしよう。それはもちろん、彼による縁で引き寄せたものだとするよ。

だけれど、そのすべてと向きあい、そのすべてに判断をしてきたとき、私は「私」ではなく、彼による判断をした。

もし、高慢がよきものか。それとも傲慢がよきものなのか——。また人へ投げかける言葉の攻撃性をどれだけ認識するのか、それがいかなるものであり、善悪の審判をかけるとき、私はいつも彼の心を頼りにして「私の在り方」を考えたのである。

私は私を創造したけれど、それは私だけで成し遂げられたものではなかった。

それは私が心底、渇望して私が愛した彼により、私を創造した。

私は「彼が思う私」になったのではない。私は「私が思う私」になったのである。私は彼だったからである。私が愛した人がそこにいて、その人が望むものすべてが私が望むものだからである。

 

私はずっと私だった。でも、私は彼だった。だって私は彼を愛しきっていたから。その依存から私は「私のなかに彼」が生まれ、その優しさに私は長く支えられ、今の私が創造されたのである。

今の私は「私」だと言いたい。だけれど、私が創造するにあたり、彼の助力なしではなり得なかったことだった。

創造は破壊がつきものである。破壊があるから創造されるのである。

ただ、これは二元性の思想にある。私たちはすべてを破壊しつくし、創造したのであれば。もし、そこに循環がある思想を創造することが出来たならば、私たちは一元性の思想と、三元性の思想へたどり着くだろう。

私のなかにある「自己」と「他者」が、もし循環を始め、この循環が三元性となり、また一元性となったのであるならば、それはやっぱり私たち自身のなかにある他者の概念なくして成し得ないものである。

ただ、愛していた。それがやっぱり当時、実ることはなかったんだなと思った。それは破壊でしかなくて、だけれど、その破壊から生まれた創造はひとつアップデートされていく。

その破壊の量がバカみたいな量で、それが離人へといたるほどの核心へいたってしまった。それがとてつもない衝撃だったけれども、私は愛していた。この事実が失われることがなかった、それは「今の私」が彼により創造されたことにある。

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そして、その自己破壊は、私たちを「ひとりとして自立」させる。

ひとりとして自立した私たちは、あなたを必要としない。

あなたもきっと私を必要としていないだろう。

だから、私たちは必要とするのである。

私はあなたを必要としないし、あなたは私を必要としないからこそ、必要となるのである。

あなたがあなたとして自立し、私が私として自立し、まったくもって依存することができないだろう。

きっと私はあなたを理解することができないだろうし、あなたは私を理解することができないだろう。

その存在そのものを理解できず、その理解が出来ないからこそ、私たちは破壊ではなく、繋がるために創造を必要とする。

 

私はあなたがもう必要ではない。このブログを書き続けているのは、ひとつのシグナルに過ぎない。

きっとあなたも私を必要としていない。

もう不必要だという事実がそこにある。あなたがあなたの道を行き、そして、私が私の道を進むだろう。

当初の私たちは、誰かがそこにいてくれないと困るような他者愛者と他者信頼者だったような気がする。

誰かがいなければ、私たちは誰かを愛することも信頼することも出来ない軟弱だったのである。

だけれど、私は今、あなたがいなくても、私は愛を生み出すし、あなたは信頼を生み出すだろう。

自己を確立するとは、そのようなことなんだろう。

私はあなたがいなくても私は創造するよ。きっとあなたも同じだろう。私がいなくても、あなたは働くだろう。

 

もし、あなたが私を必要としないのであれば、それはもっとも大事なことである。

私もあなたを必要としないのであれば、それは重要なことであり、私たちは私たちでありつづけようとすることができる。

あなたを私は欲しない、だけれど、とてつもなく欲している。

いらないと思っている。そのいらないものが、とてつもなく欲しいものとなっている。

捨ててしまったわけじゃない、ただ。分離してしまった。この分離がすべて分離しきったからこそ。私たちはひとつも重なりがないからこそ、それを欲している。

あなたと私はもう一つになることはできないだろう。心を寄せ、ひとつの神秘を生み出すことも出来ない。

もう二度と私たちは「ひとつの心」になることは出来ない。出来ないのである。だから、なりたいと思う。

まるで別の存在へとなってしまったからこそ、私たちはひとつになりたいのである。

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ひとつになろうとしなければ、私たちはひとつになどなれやしない。

私たちは、無意識的にひとつに融合していったけれども、それが恋だったと思う。相手を愛したい、相手を信じたいのは恋だったような気がする。それが満月の日の満ち潮のようなものだったかな。

今度ばかりは、意識的にひとつになろうとしなければ、ひとつになることは叶わないだろう。

人は絶対的に渇望し続ける。

あなたとひとつになりたい——と。

私はあなたになりたい、そして、あなたに私へなってほしいと常に渇望し続ける。

この渇望がもし、ひとつ叶うことがあったとき、それは究極の受容のなかにしか存在せず、もし、私があなたになり、あなたが私へとなったのであれば、それは、ひとつになれたのである。

そして、私たちは私たちを取り戻していく経緯の案内をあなたにしてもらいながら、もし「私がひとりの私」に立ち戻ることが出来た暁に、私はふたたびあなたとまたひとつになりたいとは思わない。

もうなれたから。

もうなれたから、もう再びひとつとなりたいなんて思わない。

そして、私たちはひとりとなる。ひとりになれば、私たちはあなたを必要としない。だけれど、絶対的に必要とするのである。

それは不必要だからである。

ここに必要がないからこそ、私たちは渇望とする。あなたが「あなた」だからである。

私たちはもう孤独ではないけれど一人でしょう。だから渇望する。

 

私は私と出会いたいわけじゃない、あなたと出会いたいのである。

私の為に必要なあなたではなく、私が渇望するのは、通じ合うことができない絶対的異性であるあなたである。

そのとき、私は再び恋に落ちるだろう。

 

 

 

あ、あ、あ、あ、あ。

流れ星。