十二支の干支の見解について

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

私のステージが進むごとに更新していくステージをひとつの記事にして販売しています。


さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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創造とは思想の横にあった。新しく何かを生み出そうとしなくても、物語はいつも思想と共に生まれてきている。

そこに節理があり、そこに優しい心が加わるとき、なにかを産もうとしなくても、産まれてくる。

その創造を受け取り、言葉に乗せればいい。

 

子の年にはじめたことは、辰の年には「建つ」って話。

私はツインレイを子の年に初めた。

 

十二支の干支についてを考えていたのだが、やはり、これは子ではなく、亀でいいのかはないか——と考えた。

こたび、私自身がツインレイのステージが始まったのが「子」という2020年である。その年から順番におって考えてみた。

 

ねずみとは、元々害獣にあり、米を食らう天敵でもある。先日、パンのなかにクマネズミがはいってでてきたというが、そういうことである。

そして、そのねずみを『子』と書く。ねずみは「子供」なのである。

では、そのねずみとは何か——である。

子の方角は12時の方角にある。

図の説明:干支と時計

干支をいつも私はこうやって時計に当てはめて考えている。ので、方位と時間、干支、あと雰囲気とかも全部セットにして覚えている。

ちなみに方位は東西南北だけだと覚えられなかった。おかげさまで二十代に入るまで東西南北がわからなかった。

方位・時間・干支・五行、天体の動きを全部セットにしてようやくすべて理解した。なぜ東が東なのかわからないし、なぜ西が西なのかを理解できないと、私はそれを理解することができないから覚えられないのである。つまりバカなのよ。(これから、こういう悩みを持つ子が出てこなければいいなと思うよ。)

頭のなかに「地球」とか「太陽」とかが独立して存在していなくて、私は「地球にたっている人」であることから抜け出すことができないのである。これが自分軸であり、自分軸を抜け出すとき、世界を「地球」や「太陽」という宇宙という世界観を捉えることができるのだと思われる。これが客体を持って自分を視る視点である。

この図は、私が客体性を持ってみたものって感じ。

では、本題に戻るが、子の方角を北とし、太陽があがらない場所とする。そして、その場所では「12時」をさしているが、私たちの世界では12時は二度やってくる。だからこそ、私たちは昼を12時と呼び、夜中を0時と呼ぶと思われる。

ゆえに、子の方角では「全」と「リセットのゼロ」が存在している。つまり、ねずみとは、全体性とリセットの意味を持っている。

この子の位置に「無」も当初はなきものとして無存(存在していないものが存在しているといいたい)している。

 

順序として、子(12)、丑(1)となっている。つまり、始まりとはイチである丑となる。丑は1月を意味し、子は12月を意味する。

では、12月を子とするとき、0月をなんとするのか——。これを「亀」にするべきなんじゃないかなと思った。

なぜ、組み替えるのかだが、ネズミはごく潰しって意味がある。つまり、子供はごく潰しであって食い扶持を稼ぎもしないのに食べているだけの動物って意味があると思われる。

だから、この0の部分に子がいてくれると困る。ここを亀にして努力して生きていけるようにしたらいいなと思った。

子は12という晩成において、最後にごく潰しとして喜ばれればいいと思う。

図の説明:亀を追加する

そうすると、亀、丑——とすすみ、最後に子がやってくる。

 

干支の物語のなかで子はずるがしこいとされているが、ずるがしこさを持っていない子は、一番小さいからこそ、一番最後にやってくる。そして、それを後世へと残す知恵としていく。

 

それぞれ、子年からこの辰年にはいるまでの私の時間の流れと共に、いかなることなのか——について書いておきたいと思っている。

 

子年にツインレイと出会い、私は「努力をする亀」たちに出会った。そのなかで彼くんがいて、その努力が花を咲かせることができるのか不安になるように感じられたが、とりあえず、亀がいたのである。

少なからず、どの人たちが子というごく潰しではないというのは、一生懸命働いていたから。遊んで暮らしていたわけではないし、努力をしていた。努力をするそれぞれの目的があったみたい。

そして、そのなかで子とは「ごく潰し」なわけなんだが、これは女性のこととも捉えることができる。その亀をズル賢さで、自分の私利私欲のために結ばれた人もいたんじゃないかと思う。

目的が何なのか。自分の生活の為、自分の将来の為、自分の欲求の為。色々な目的があって、その目的をもってツインレイと付き合った人たちもいた。その人たちはツインレイ男性を「丑」にした。

これはツインレイ男性はバカって話をツインレイ女性たちがするってこと。ツインレイ男性たちはなにも見抜けない、何もわかっていないバカだと女性たちが話し、そして、ツインレイ男性は本当に女性に騙され、そそのかされては、女性に一番を譲る経緯をたどる。

これをツインレイでは「溺愛」とか「ものすごく愛してくれている」とか「自分の言いなり」とかいう話になってくるのかなと思う。

そして、その女性に一番を譲った男性たちは「子」だったと思う。亀ではなく、子であり、ズル賢い、元々持っているものがある人たちだったんじゃないかなと思っている。それをすべて、相手の女性である妻に奪われる構造をとっている。

これはサイレント期間に「ツインレイの相手は何もわかっていない」とか、そうやって言ってしまうことなのかもしれない。わかっていないのが自分だとは思わない。

次には寅がやってくる。このとき、ツインレイ男性は牙をも奪われるのかなと思っている。女性に対して「ダメなものはダメ」の牙をも持たずにいること。優しいことは悪いことじゃない、だけど、社会を生きている男性からして社会のルールにそぐわないものに対して「ダメなものはダメ」だと言えないことは問題である。

社会のルールのなかで男性たちは生きているのであり、そのルールから逸脱した行為をするのであれば、妻をとがめるのは夫の役割であって、夫とは「社会のルール」なのである。つまり、夫とは家庭のルールでもあるのだよ。

だから女性はその夫に従うことで社会のルールに準ずる構造をとっていると思われる。だからこそ、男性に牙がなくなったら困るのである。

そして、その牙を抜いてしまうのがツインレイ女性であってはならないのである。なんなら、牙を持たせなきゃいけないとも言える。反抗させることであり、女性を見下させるってことでもある。代わりにちゃんと見下した分だけ守らなくちゃいけないんだよ。それが道理ってもんでしょう。

女性が男性を見下す構造になったとき、社会のルールと家庭が分離してしまう可能性がある。ただ、家庭のなかでは家のルールがある。その家のルールに男性は従わなければならないし、そこは女性が天下だって話。

仕事に女性が口出しをしてはならないし、男性が家庭に口出しをしてはならないのかなと思っている。お互いの領分に侵略してはならないけれど、困ったときは協力をすることは大事なんだと思う。これを自分の『立場』を弁えることなのかな、と。

次に「卯」である。このうさぎ。うさぎとかめのお話なのかなと思っている。

この時点で、亀はうさぎを追い抜くことになり、最後の最後には亀が勝つことになる。うさぎはそれを眺めなければならなく、なんなら、亀よりも先に走ってはならないのだと思われる。

だけれど、因幡の白うさぎのように、人を騙しては飛び回っていき、最後の最後に「タネあかし」をした途端に、サメに咬まれて丸裸——だなんてこともある。

うさぎは亀を見守る立場にある。卯の方位は「木」にあり、卯はすごく強い星である。そして、卯は動かないはずだが、動き回ってしまうことも多いようだ。そしてツインレイの相手を忘れるらしい。

木は記憶を溜めるものだから忘れないと思うよ。それが年輪になる。それが肥やしとなる。

そうやって、今までの経験を肥やしにすることがツインレイ女性には求められ、その最中も亀は頑張って走っていると思う。

この期間にうさぎは丸裸にされるのかもしれない。人の本質を丸裸にされる。

この丸裸にされる人たちは、冒頭に戻り、ツインレイの相手は「根の国(子の国)に向かい、ツインレイの相手がほかの女性と結ばれて戻ってくる」ってことになっている。

面白いね。根の国で、大国さまはねずみに唯一助けてもらえる問題は、音がなって飛んでいく矢をとってこいと言われて、周囲をすべて火で野焼きされているなかで、ねずみに「洞窟あるぜ」と、地下を教えては救出することになる。

この役割をツインレイ女性により救出するだなんてこともあるみたい。そして、助けてくれたツインレイ女性を選び、根の国で捕まえた女性はなかったことになる。

では、そのツインレイ女性とは、どの人になるの。男性へ手助けをするねずみじゃん。

 

次には辰がやってくる。この段階で「経つ」「建つ」「立つ」「断つ」「絶つ」「起つ」と色々と建てることができるのだが、そもそもたてるものがなければ立てられないことは大前提である。

そこに亀がいるのであれば、亀をたたせ、努力を認めることができる。そして、亀を龍にすることもできるかもしれない。玄武か。

しかし、子というずるがしこさ、丑という愚鈍さ、寅という牙がない猫、卯という丸裸にされる何か。つまり、当人には何もないってこと。

何もないからねずみはずる賢いし、何もないから愚鈍でバカだし、牙さえもなくて、何もないから毛皮さえ奪われる。

プライドもクソもないよな。

なんかこう、これって「男性が何も持っていない」ってことなんだよな。男性が何も持たずに社会にいるのはヤバいと思うぞ。社会でプライドもなく生きるってことなのか。これはヤバいぞ~。

で、最終的に「ツインレイと結ばれる」だっけ。

これについてなんだが、狡猾な女性とは人を利用し、道具だと思っている人たち。知識を備え持っている女性。そして、牙があり、人に噛みついてく女性たち。毛皮をかぶり、自分の身を守っている女性。

こういう人たちって「本当のところの根っこで何も持ってないんじゃないの」ってことな。

それは心だよ。心がないのね。心がないから男性を男性として立たせることが出来ないんじゃないかって思った。

男性はひとりで大黒柱をまずは自力でたてる必要性がある。そして、その周りに支えが次にやってくるよ。

だからこそ、女性が手出し口出しをしてはならないのだと思われる。

 

子の年にはじめたことは、辰の年に「建つ」のである。私は彼くんを「建てる」ようにしたんだが、今年も試験なのかな? 受かるといいね。きっと受かるけれどね。

まァ、やりたいことをやればいいさ。男の子だしね。

そして、その前に結構たてちゃった人たちが多いかなと思っている。それは男性がひとりでたてなくて女性が手助けしたのかなと思っている。

それを未熟な男性とする。また未熟な女性とする。

 

そして、建てたものが巳の年には長くなる。これが「末永くよろしく」かな。

 

ツインレイ男性たちは「根の国」にいったのかな。それとも「木の国」にいったんだろうか。

根の国へ連れていかれるのは「ねずみという狡猾さ」がある人たち。

木の国へ連れていかれるのは「自分の柱を見つけようとする」人たち。

つまり、元々「自分がある」のか「自分がない」のかによって違う。

自分がない人たちは根の国にいって『自分』を鍛えに行かなければならないのに、女性に手助けしてもらって、ついには男になる儀式を済ますことが出来なかった。

木の国へ向かった人たちは、せっせと大黒を創ろうとしていたと思う。その男性たちは自分が柱となっていくよ。それが家庭の柱になる。

 

女性の場合、

根の国コースは、女の子が手出し口出ししないこと。

木の国コースは、女性が待つことができること。

これで決まってくると思われる。ちなみに真逆でやっている人たちもいた。根の国で100%「あれこれはだめ!」と教えてくれている人たちもいたし、木の国では「全く待たない」人たちもいた感じ。

どっちも同じ意味になる。そこに愛があればいいのさ~。

男性がポッキリしそうになると、根の国ではネズミ救出が向かわされる。木の国ではふらふらと女性が向かわされる。

これを手に取ったらいけないのである。

根の国でも男になることができた人もいたんじゃないかなと思う。

木の国でも今年、大黒をたてることができる人もいるんじゃないかな。

ちなみに、あたいは根の国に関するツインレイを地上のツインレイとして、木の国に関するツインレイを楽園のツインレイとしているっぽい。

根の国のツインレイでは戻ってきたら、自信喪失していたが、その後、彼は私から身を引いたな。なんか「自分にはもったいないから」というお話もされている。

自信を持ってはならない自信を持っていて、その自信はすべて折れてしまったみたい。女性関係が散々だったようで、今までたてた自分の「男」の部分はすべて喪失されてしまった感じ。だからやっぱ、たたんかったよ、股間がたたなくなってた。

それぐらい根の国、怖いんだと思うよ。

 

簡単に言えば「そこに愛はあったの?」って女性には聞かれている。

そこに「愛」はあったのか。で「愛って何?」って話。多くの人たちが愛だの話すけれども、じゃあ、「その愛って何?」ってことなんだ。その体現性を持って、ようやく愛であり、その愛が真実であるとき、男は立つ。

女性は男性をたたせる愛をもつ必要性がある。男性を男性にできるのは「真実の愛」だけなんだが、その真実の愛って、それって何? ってこと。

 

男に女がしてやれることなんて、信じて、自分の人生を全賭けすることぐらい。丸ごと、自分のすべてを投げ捨てて信じてやりなよ。女はそれができるんだから。

女にしか、それはできないことなんだから。裏切られるのであれば、全力で裏切られたほうがいっそ清々しい罠。全力で裏切られて、全力で裏切りを受け入れていく。もはや、裏切りさえをも受け入れたとき、私たちは「裏切られなくなる」んだよ。

けっきょく、信じられないほうへ女が舵を振れば振るほど、男がブレているような気がする。

 

そういえば、うちの師匠が「男は神につかえるのに一厘が絶対に届かない」と言っていた。女はすべてを捧げることができるからだそうな。

 

それから私はお馬番。

図の説明:馬は子を見張っている

午と子は冲しており、向かい合っている。子は北であり、午は南である。亀は「大地」にいるんじゃないかなと思っている。

そして、午は「子による北」と「亀による中心」を見張っているような気がする。

お馬番は子と亀の見張りな感じ。それが南の役割なのかもしれない。子がなにやってんのかな、亀ががんばって走ってんなとか。