ツインレイとアイデンティティの確立と歳の差について
彼と私は年齢が七つほど離れていた。最初は七つ違うのだ——ということを理解していた。
しかし、最後のときには七つ離れていたことも忘れ、きっと彼も私が七つ年上だったことを忘れていただろう。
彼は年下だった。
私の場合、
女性ゆえに
「女性性」が個人的アイデンティティ(自分軸)であり、
「父性」が他人軸であり、
「母性」が社会的アイデンティティ(自分軸)であり、
そして「男性性」が夫である。
彼は私が個人的アイデンディティを確立している年齢の頃に出会っている。
私は、彼を知って「男の子」だと思った。つまり「男の人」ではなくて、男の子だった。
それが七つ年下ということ。そして私は彼に「素敵な男の人になってね」と言葉をかけた。これはやっぱり彼がまだ成熟とは言えない年齢だったとも言えるんだと思う。
その年齢を二十四歳。彼はまだあのとき、私の見立てでは青年であり、社会で働く成人した男性とは思えない心の持ち主だったという感覚。
ギフテッドについて度々最近は触れるようにしているけれど、この人種の大人という概念は遅い。普通の一般的な人たちよりも劇的に遅い。それは肉体的な年齢を「大人になった」とはしない。
ある一定の「何かしらの指針を満たすこと」により、大人になったとギフテッドたちは認識している。
そんななか、私は彼を「男の子」として認識して、その男の子がこれから男の人に成長するだろうことを待っていたのかな? と思う。
そして、その彼を通して私は私のなかに男性性を構築することになった。
当時、私も私を「青年」としたのも、まだ未熟である自覚があったんだと思う。いっしょに大人になりたかったんだなって思った。
これは私の見立てと予測なんだが。
私はアイデンティティを「女性性と言う自分軸」「父性と言う他人軸(世)」「母性と言う社会的自分軸」「男性性」という四つ構成をさせた。
しかし、男性は「男性性と言う自分軸」と「父性と言う他人軸(世)」だけで、女性性を自分のなかに構築することはないと思っている。理由だが、男性に女性性は必要がないから。
え? って思うかもしれないんだが、社会で働く男性に女性性は必要がないし、なんなら男性に子宮はない。
だけれど、女性には男性性が必要である。
だから、男性は「一本足の大黒柱」になるかもしれないけれど、女性は、それを支える支柱として「いくつもの柱」を必要とする人格形成をするのではないかと思っている。
そして、その支柱の多さと、その支柱の根強さは大黒柱を支える強度に繋がるのではないかと考えている。
だから私は三つの軸を必要とした。
- 自分軸(女性性と母性という女の概念)
- 他人軸(社会や世という自分とは隔絶された世界の概念)
- 男性性(夫という男の概念)
そして、男性は、
- 自分軸(男性性という概念)
- 他人軸(父性という概念)
- 自分軸と他人軸が他者や社会軸
というカタチである。また、それぞれの概念の樹立の仕方も違う。
女性の樹立 | 男性の樹立 |
---|---|
女性は横にならべて、自分と他人を対等に扱う。また、ちゃんと向き合う姿勢が生まれることにより、夫を支える構造をとっている。
精神的な発達としては、先ずは女性性を。次に「社会」を学ぶ経緯で、母性、社会性、他者意識を獲得していく。
男性は自己のうえに父性が存在し、またこのふたつにより「他者」や「社会」という、それそのものとなる。
いわば、男性とはどこにいようが社会的な生き物であるってことが言える。で、それを受け入れることができる女性は他人軸のなかに「夫」の概念を入れている。
この精神的発達のなかで、自分軸を女性は「女性性」としているが、母性、社会、夫という立場を構築するには父性を必要とするのではないかと考える。
女性にとって母親とは母性が重要になる。しかし、女性にとって父親とは「母になるために必要なもの」「社会を知るために必要なもの」「夫を理解するために必要なもの」を示しているのではないかと思われる。
いわば、母とは女性にとっての社会性であるがゆえに、父性からしか学べないものではないかと思った。そして、父からしか「よき母の形」を知ることは出来ない。
男性にとって母性とは「男性性」を構築するために必要なものであるが、同時に母性は「父性」をも構築する。男の子にとっては、母がいれば私はなんとかなると思っている人。
母から男性性と父性を学ぶから。
そして、男性にとっての父性とは他者と社会という「自分のすべての概念」にあり、これは男性が父親と競うカタチに着地する。そこには憧れと嫉妬と、強い劣等感により、父親と競うことで自分をより大きく成長させることで父という社会に打ち勝つ姿が男性の姿かなと思っている。
つまり男性にとっての「父性」とは競う対象であり、父よりも立派になることが目標となる。だからこそ、男性は自分のなかに男性性と父性を一生懸命構築していくことになる。
男性にとって「父のようにはなりたくない」わけなんだが、たぶん面白いことに最終的には「父のようになっている」わけである。なるほど、なかなか面白いものだと思う。そして、そのとき、父を認め、自分を認め、一回り大きな自分になっていこうとする。
これで男性による「社会的成長の完了」みたいな感じ。
ここから女性はコミュニティーの展開をするが、男性は「建つ」ことが求められる。
つまり、女性がいくつの柱を持っているのかにより土台が成立し、そのうえに男性が立つことができる。女性の受容性により、男性は他人軸に没するのだと思う。
男性が他人軸とは「女性」だと思う。そして、そのとき、女性は自分軸を持って「男性」だと思う。
男性は社会で他人軸で働いていくことになり、そしてそれが真実なる男性の姿だと思う。社会に求められる自分を構成し、社会に求められている自分をうみだしていき、その場所に埋没していく。これが「男性」だと思う。そうして、社会の歯車のひとつとなって、社会に貢献していく姿がある。
女性は自分軸と他人軸もどちらも持っている。
自分が女性であり、自分が母である自覚をもって「育てること」が重要になる。特に男の子は「自分とは別の異物」であり、その異物をいかに他人として接していくのかが女性の在り方なんじゃないか——と思う。
私は子育てで最も重要なこととして、三歳以後の共依存を抜けた後は「子供の存在を、自分とは別の存在」といかにリアリズム的に「自分の子」という概念から抜け出し「子そのもの」を見てあげられるかどうかで、子の自立が成立しているのではないかと考えている。
だから、母が「自分」というものを持っていれば持っているだけ、子は「自分」を獲得していく。ここで母が「自分」ではなく「子そのものと依存関係」を構築してしまうとき、子は自立が出来なくなってしまう。そして迫害経験から怒りや憎しみを持って反社会に向かう可能性を危惧する。
つまり、三歳以後の母の在り方が「共依存だったのか」「いかに一人の個人的な存在として扱ったのか」によってその子の自立度は違うんじゃないかと考える。
女性にとっての他人軸が二本あるが「社会」と「夫」のうち、子供は「社会」にあり、母が持つ社会性そのものが子供に投影されるのではないか——と考える。
しかし、母性というものが他人軸となっていたりするとき、母性と社会、母性と夫の星が癒着したりするケースがある。
母性と社会が癒着するとき、母は「社会を認めていない」ことになる。自分とは違う世界を受け入れられないことが子供にとって阻害された感覚を感じるようになる。
子は特に新しいものを獲得するために生まれてきているとして考えるとき、母が「社会を認めない」としたとき、子供が新しい社会・新しい知識・新しい考えを持っているときに否定されてしまい、その否定によって自分自身さえも否定されたような時代を送るようになる。
そして、夫と母性が癒着しているとき、この癒着により夫に対して「母」として振舞うようになる。
夫と妻の関係性は対等にあるが、母であるとき、夫に対してもいいなりになってほしい等の想いがでてきたりもする。これが夫への支配であり、また夫が社会性を失っていくのではないかなと思っている。
あとマザコンみたいになって妻がいなければ生きていけないみたいな人になると思われる。母の支配が無ければ存在できない夫って感じ。対等ではない。
また、子供が生まれ直ぐの時は、基本的に母のスイッチがはいるため、自己に戻るまでは父となる夫側も「妻への光の速さ対応」が求められるような気がする。
そう、光の速さで妻に対応し、光の速さで子のおむつをかえ、いいなりにならなければならないとして考える。
つまり、母性とは子供が生まれたとき、社会との癒着をし、また夫との癒着がでかくなる可能性がある。そして、その癒着を受け入れてくれる男性は「男性性としての他者の概念が樹立している」のである。
いわば、家庭のなかでの役割をイチ早く理解し、光の速さで子供のおむつを替えることが最善であることの適応能力があるってことだ。今、妻は何を求め、妻は今何をしてほしいのかを理解することが夫の役割である。
今、イクメン等の話があるが、育児に参加する必要性はないと思っている。少なからず私は三歳までの育児期間を夫に預けてはならないと思っている人なんだ。そして、その育児期間のサポートをするのが父性にある。
この父性とは「他人軸」にある。他人とは他人でしかない、夫だろうが他人である。つまり他人が自分の人生にできることなどサポート程度である。サポートをすればいいわけであって、イクメンになる必要性はないと感じている。
女性の樹立・無 | 男性の樹立・有 |
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そして、それぞれの母性と父性における概念なんだが、母性にとって重要な概念が「無」なのだと思う。いわば、女性にとって最も重要な思想は無価値観にあるということ。
母性に意味はないし、この母性と言うものを持っていてもあんまり価値がない。そもそもこの母性とは「自分が無価値であること」に意味がある。
子供が泣いているとき「あ、ちょっと自分のご飯食べてからね。」とか言ってる母親は母として自分がありすぎるってこと。自分を優先する母は「母なのか」ってこと。逆に、子供が泣いていたら自分のご飯よりも先に抱きに向かう必要性がある。
この辺で、母性とは無にあり、自分が無価値である感覚を持っている人こそ、私は母性が強いのだろうなと思っている。母になるとは無価値になり、その無価値のなかで如何に子育てをするのか——にかかっている。
自分に価値がある人は母にはなれないと思われる。
そして、父性とは有にあると思う。自分が価値があるという感覚がある人こそ、子育てに参加するようになる。だから男性にとって必要なのは自信であって、自分がいかに何をなしたのかが重要なのだと思う。
自分が如何になしたのかを持っている男性は、子育てに参加すると思う。子供にとって「自分には価値がある」と思っているから、子供と積極的に接するんじゃないかな。だって、自分と関わることが子供にとって有益だからだよ。有益なものは我が子に提供する、それが男性の在り方なんだと思う。
そして、子供が困っているときは助けるし、妻が困っているときも助ける。なぜならば、自分は有益な存在だから。
男性にとって「自分はすごい人間になろうとすること」がとても重要なことで、また、社会で努力をして結果を自分なりに導き出そうとすることは男性としての優秀さなのかもしれない。
その価値を一番に認めていかなければならないのは、妻の役割として考える。だって自分は無価値で何もできないから、何かをやっている男性を尊敬せざるを得ないのである。
これが男尊女卑の体系かなと思っている。
母性を持っている女性は、男性を尊敬し、一歩引く。
父性を持っている男性は、自分の価値を高めようとする。
そして、この母性と父性は社会により導き出されていくことを忘れてはならない。
これが『大人』ってことだと思っている。
私は彼くんと最後にケンカ別れしたんだよな。そのとき、私は彼の意見を最後に尊重した、だから離れたんだなと思う。
そして、彼はたぶん、自分の価値を高めようとしていたのかなと思った。
このとき、私は「大人」になって、彼も「大人」になったんじゃないかなと思う。
彼は私を御したって感じ。彼は彼の信念があって生きていて、そこに口出しを女はしたらいけないのよな。
それであたいが怒られたんだと思うよ。でも「そのまま」でもいけなくて、そこから、じゃあ自分たちも変化していかなくてはならない。
その変化をらせん状にぐるぐるっと回ってくれば、いつだって私たちは「正しい場所」に戻ってくる。
つまり、適応性みたいなものが当時は出来なかったとしても、一周まわったら、次は実際、適応性を持って帰ってくることがある。
当時は無理だったことも、今ならば大丈夫なこともあったりもする。
私は当初、彼への人生に口出しをする人格があって、それを抑圧しきったからこそ、今は特になんも思わないかもしれないし、お互いがお互いで適材に変化した可能性がある。
その時間の間、お互いに「自分から逃げなければ」だとは思う。
彼に「いっしょに生きていきたい」と思っていたが、彼の世界で何が起きているのかを知りたかったのは、タブン、私自身が社会という概念を持たなくなるからなんだろうなと思った。
彼が見ている世界が私の「社会」という概念になる。そのためには話をしなければならないし、社会で何が起きているのかを教えてくれないといけない。
彼が社会に対して何を思って何を感じているのかは、すごく女性にとって重要な教養のひとつになるんだよな。
自分が何していて自分がどういう仕事をしていて、今どういうことに興味があるのか、女性は男性から、つまり夫からこの話を聞く必要性があって、夫はちゃんと妻にそれをちゃんと話していかなければならない。
なんなら社会から隔絶される女性は、夫っていうのが社会を学ぶ窓口になるから。だからちゃんと社会を見つめる能力は大事。
自分がある。それはまだ「青年」の領域。まず、この自分が大前提に存在している。
大人とは、社会という他人、世によりもたらされる。
女性はどんなに自分が正しくとも「男性より一歩引くこと」が出来たとき、大人になる。
男性は自分が持つ父親と対等になることが出来たとき、大人になる。というか、自分で対等になったなって思えたとき、大人になるんだと思う。父親へのコンプレックス。
つまり、女性は男性を通してでしか大人になることができない。母性を手に入れることができない。
男性は自分の父親を通してでしか大人になることができない。父性を手に入れることができない。
女性は男性を認めることで母となり、男性は自分で自分を認めたとき、女性に認められていることを受け入れることができ、父性を手に入れる。
円満ですな。
女性が自力で生きることが出来る時代だと思う。だからこそ、必要な思想なのかもしれないって思う。
どうして従来、男性に支配されるような世界だったのか——。
それは支配っていうよりも、子供を産んで育てていくのに一番に良いカタチに着地させるには、このカタチが最善に子が育ったんだよな。
だけどさ、くっそくだらねえ価値がない男だっているんだよ。そのくっそくだらねえ価値がない男を基盤に「女性優位」の思想を構築することにもなった。
理由はバカほど声がでかい。その思想がデフォルトのように思いこんでしまう。
粛々と、淑女は男性に従う準備をしている。男性の価値を認めている。
だけど、くっそくだらねえ男が指針となった思想を手に取って、粋がる女性もいるってこと。
少なからず、私は彼くんがそのくっそくだらねえ男とは思わなかった。ちゃんと自分の意思と自分の意見があったし、勉強していこうと思う気持ちがあった。男性として申し分がなかったんだよ。
ただ、お互い、まだ母性と父性という意味では、もっていない部分があって、おたがい未熟だったんじゃないかなと思った。
その部分を育てるのに、時間がまだ必要だったんだと思う。
きっと彼は何かをちゃんと手に入れて戻ってくると思う。それが精神的な自信だと思っている。男性的な自信をもって、私は彼が帰ってくると思っている。
ツインレイの思想のなかで「男性は絶望して戻ってくる」とかいうけれど、私は彼くんに対して逆じゃないのかな? と思っている。なんかそんな気がしている。そう思ったことはあんまりないな。
絶望することもあるかもしれないけれど、私は彼が絶望して終わるタマじゃないと思っている。そして、ちゃんと自分の目指すべき道と共存を探しているよ。それができない人ではないと思っている。
ちゃんと起死回生を知っている。
だって、このなとちゃが認めた。このなとちゃが認めて一歩引いたんだぜ? 男として認めてもらった男性がどうして社会で自信を獲得できないのよ。
この男性よりも男性的で、とてつもなく優秀な、このなとちゃが。このなとちゃが認めたんだぜ。このなとちゃが一歩引いたんだぜ。あのとき、私は彼を建てただけだよ。今はそばにいるときじゃないって。
そういうことだってあるんだよ。だって私には価値がないから。
私の感情論で男をぶらつかせちゃいけないのよ。