昨晩は絶望していたので絶望のメカニズムについて。

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

私のステージが進むごとに更新していくステージをひとつの記事にして販売しています。


さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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昨晩、私の心が「わっしょい、わっしょい!」と言い始め、誰かのわっしょいコールによる熱量を受け取ったあとからである。

その後、胸がジリジリと痛むのでレイキをあてたところ、涙が出まくり、手がジリジリと痛いし。今朝も起きてやっぱり胸が痛かった。

これについてどんな現象が起きたのかはさておいて。

絶望していたので絶望の意味を理解した。それを書き留めようと思う。

図の説明:絶望とは0のことである

人って絶望することはないんだなって話でもある。

私たちは、幸福を+10で認識している人がいるとして、その人たちは不幸を-10で認識すると思われる。しかし、これは勘違いである。

私は「朝の紅茶一杯の幸福」を持っているとして、じゃあ「朝の紅茶一杯を飲めなかった」場合、これはマイナスになるのか? というと現象が生じなかっただけでマイナスではない。ゼロである。

つまり、幸福が+10として存在しているとき、不幸が-10として存在しているのではない。ただの0である。これが絶望である。

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偽物の絶望 本物の絶望
図の説明:偽物の構造
図の説明:本物の構造

ー10の絶望とは「理由があって絶望する」状態にある。これは、自分には何もないとか、自分には価値がないとか、自分には〇〇を持っていない——という理由があること。

ただ知ってほしいだけ。そもそも「何か持っている」「何か価値がある」「〇〇を持っている人」は存在しない。そんなんただのまやかしである。

単純に人はマルッと裸で生まれてくるが、そのときにスキルを持っているわけではない。私も赤子の頃から二足歩行していたわけじゃないし、おっぱい飲んでたときだってある。言葉が喋れたわけでもない。

ただ成長段階で「二足歩行を習得」「言語の習得」をしたわけで、じゃあこれを持っているのか? っていうと、生まれた時点で持っていたわけじゃない。つまり、人は「何も持っていない、この世で習得しただけのスキル」があるだけの話。

だけど、この世で習得したスキルを持っている人と持っていない人がいる。

それは+10の幸福を持つのが当たり前だ! と思っている人たちはー10の不幸を経験することになる。そもそも「そこに幸福はない」わけで、その幸福はー10とされる。

単純に「妄想による+10」を持っている人は「不幸によるー10」となる。でも、本当に「自分による+10」を持っている人は「0」にしかならない。

妄想による+10は「自分には〇〇があるべきだ」という思考にある。自分には役割がある、自分には使命がある、自分にはスキルがある、自分はすべてを知っている、自分は出来ている、自分は「持っている」と思考が+10による妄想であり、これはー10を形成する。

理由のある絶望と、理由のない絶望では意味が違う。

理由のある絶望は「ー10」である。理由のない絶望は「0」である。どちらも同じ絶望ではあるが、本質が変わってくる。

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0の絶望経験がある人は、+にしか動かない感じ。

なんにも価値がない自分を受け入れている、自分は何も持っていない自分を受け入れている。

ゴミクズカスの自分が存在していると自覚が出来るとき、私たちは0でしかない。

自分に「意味がある」「理由がある」と思っている人たちはー10となると思う。だって意味もないし、理由もないから。

だけど「意味がない」「理由がない」自分を受け入れている人たちは0になると思う。絶望するけど、特に問題がない。そもそも意味がないし理由がないから絶望しない。ーとは「+に意味がある」という思い込みから生まれている。

意味がないことに意味があることを知っている人たちは「0の絶望経験」があると思われる。

ちなみになとりは周期的に絶望している、1年に1回ぐらい「よくわからん絶望」を経験しているが、それで精神が病むとかはなかった。普通に「なんもないな~」ってだけ。すっからかんってだけ。心に空洞あるな~って感じ。

ここが空洞ではなく「理由」が犇めく人もいる。それが絶望となるときー10の絶望経験となる。

 

人には何もない、使命もない、理由もない。当たり前のこと。

これに絶望していたのが私の学生時代なのかもしれない。

私は元々生まれてこのかた、自分が何になりたいのかとかも何もなかった、自分に価値があるとは一切思えなかったから、何になれるとも思わなかった。

周囲の人たちが学生時代に自分の進路を決めていくなか、私には何も進路もなかった。価値がないから何になりたいとかもなかったんだよな。当たり前のことを実感していた感じ。

本質的な部分で「意味はないこと」を知っていたんだとは思う。そのうえで「なお生きる」を選択したのが私だった。

意味がない自分の人生を生きる覚悟を決めた。二十代過ぎてからだよな、人間簡単には死ねないなって思って腹くくった瞬間がある。それからずっと勉強していた。それは生きるために、自分の為になんだと思う。それが本当の意味で誰がためにとなれるときまでやるしかなかった。

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なとりは昨日、絶望していた。心の中にある喜びがすべて消えたのである。理由はわからないが「わっしょい」されたせいなんじゃないかとは思っている。そのまま、私の心はずたずたになってしまいハートブレイクはしたものの、理由がさっぱりわからないのである。

何に絶望しているのかの理由がないので、真顔でネットフリックスのBLEACHをみてた。これが私の絶望状態。

普段はアニメみてたらそれなりに「ちょっとしたわくわく、楽しい」みたいなものがあるんだが、一切なくなった状態でBLEACHみてた。意味わからん、なんでいきなり絶望して真顔でBLEACHみてんのか。

翌日である今日、夢でお好み焼きとおにぎりを食べた。めちゃくちゃ美味しかった。起きたら「心的エネルギー」が戻っていた。

なんだったんだろうとは思っている。あのままだったら、今日、何もせずに過ごしたと思われる。

「なとり、絶望しているから。」とか言いながら、ニヤニヤしながらここぞとばかりにシロノワール食べてると思う。(絶望してても、それはそれ、これはこれって感じ。)

理由がないから絶望に囚われることもない。けど、なんで絶望しちゃったんだろう? とは思っている。BLEACHをなんであんな真顔で見ていたんだろう、何も感じなくなっていた。

 

なんとなく学生時代の話をはーちゃんとしていたから、そのときの絶望を回収したかもしれない。少なからず傷ついていたんだろうな、なにもないことに。

「わっしょい」は、マジでなんだったんだろうか全く分からねえが、とりあえず「何もないことに傷ついていた自分」を解消できたような気がする。

0であることに傷ついていた傷が癒されたような気がする。

理由がないこと、意味がないことに傷ついていたんだな。

だから「0という絶望」になったら、その傷がでてきてしまったんだと思う。でも理由もないし、意味もない。

これが最後の絶望である。絶望に理由がないし、意味もない。そもそも私たちは「絶望した存在」である事実を受け入れていく。なお生きるために。