エネルギー的な価値観と金銭的な価値観—大人になると変わる価値観の違い

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

私のステージが進むごとに更新していくステージをひとつの記事にして販売しています。


さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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なにかを買おうとしたとき、精神的価値観で考えるのか。はたまた金銭的価値観で考えるのか。

すべてにおいて私たちは金銭的価値観を持ち、その金額そのものを認識する。しかし、その認識した金額そのものは私たちが持つ共同幻想により生み出されている。

私たちが100円だと思っているものが他所では1000円で売っているとする。それを『高い』と思うかもしれないが、他所からすると100円のほうが安いと感じる。

そもそも100円でも1000円でもいいわけなんだが、それそのものの価値をこれは100円の価値だと思っているのか、それとも1000円かと思っている感覚そのものが共同幻想にあり、お金そのものは幻想なんだよって話でもある。

つまり、私たちがモノに対して感じている価値観はとてつもなくあやしいもので、本当にそれが100円の価値なのか、本当にそれが1000円の価値なのか。それを知っているものはいないとして断定するのが明確なのかなと思っている。

何が言いたいのかっていうと、自分の価値観なんてあるようでないもの。また、その価値観そのものが明確に金額設定されていたとしても、それが本当にその価値なのかについては神のみぞ知るってところなんだろうって話だ。

さて、そんなあやうい価値観のなかで「ツインレイの情報ってどれぐらい設定なのか?」とか「ツインレイに対しての講義が高値設定になされている」とかの、私たちにとって身近な話題として金額設定がなかなか難しいものに対しての金額が『高い』とか『安い』という話も飛び交うわけである。

たとえば、なとりが販売しているツインレイのステージが進むごとに進展情報を書いている記事。

こちらが1250円。この記事を『高い』と思う人もいれば『安い』と思う人もいる。人それぞれなわけである。これが人が持つ固有の価値観にある。

また、ツインレイの情報は無料で発信するべきだ、無料で提供するべきだ——等の話もあるんだろう。

これらについてのエネルギー的な価値観についてを書いていきたいと思っている。

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3種類の価値観

従来の価値観を、

  • 金銭的価値観
  • 精神的価値観

として2種類を認識していたが、ここで3種類目がやってきた。

それが『エネルギー的価値観』である。この3つの価値観は魂の年齢的に理解ができる価値観でもある。

金銭的価値観は小学生から中学生レベルの魂が理解し、精神的価値観は高校生レベルの魂が理解し、エネルギー的価値観は少なからず大学、または社会人の魂が理解していくベクトルにある。

価値観の理解と魂の年齢
魂の学校
金銭的価値観 小学生~中学生
精神的価値観 中学生~高校生
エネルギー的価値観 (大学生)~社会人

大学生としているが、この大学生っていう概念は『モラトリアム』として定義していて、大学の段階は存在しているようで存在していない段階だと思われる。

社会人になるために必要な前段階であって、その段階で準備運動はするけれども『どこかに所属しなければならない道理』はない感じ。

 

それぞれの価値観についてを説明していこうと思う。

金銭的価値観とは

金銭的価値観とは、社会に設定されている100円を『100円で買う』ことができる。私たちの一般的な感覚にあり、特に何も考えなくても『買う』という行動がとれることにある。

また、私たちがいくらをもっていて、そのなかでいくらを使い、生活のなかでどれぐらいを「これ」にお金を払う余裕があるのかを考えることができるのも金銭的価値観である。

そのときに買うのか、または高いから諦めるのか。それでも価値があるからお金を払おうと思うのか。

欲しいものを買うときに自分の生活基準や貯金残高、生活的な必需品である等を判断し、お金を払い買う行為のなかに私たちは『自分に見合う金額なのか』を理解することを金銭的価値観とする。

 

また、金銭的価値観の感覚が発達することにより、モノに対しての金額設定を行うことができるようになる。しかし、それは精神的価値観などを差し引いた『モノそのものの金額』としての認識になる。

情報教材など「あいまいなもの」に対しての金額設定は難しいとして考えている。

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精神的価値観とは

精神的価値観とは、精神を満たすための買い物をすることにある。たとえば、バックひとつに対しても手軽に買うことができるバックもあれば、ブランド品のバックもある。

ブランド品になってくれば、ブランドという銘柄に対しての金額が設定される。これが精神的価値観にある。

かっこいい、かわいい、気に入った、自分の為になる。そこにある精神的充足感に対して『お金を払う』行為そのものが精神的価値観となる。

この精神的価値観の段階では『モノ』のみならず『目に見えないもの』に対しての支払いが生じる。

情報に対しての支払い(本や知識など)が生まれ、そこに見えない価値を見つけることになる。これが精神的価値観にあり、ツインレイ情報を購入する行為もここにあたる精神的価値観となる。

 

この段階では見えないものに対しての金額設定をすることができるようになる。なとりでいえば『ツインレイ情報はいくらで売る』という感覚である。情報に対して『高い』『安い』の感覚が生まれ、本を購入する人も多いように感じられる。

ツインレイのなかでも『無料』とか『無償』とかにこだわりがある段階の人たちはここのベクトルのなかでの下層が多いように思う。

金銭的価値観が育ち、そのなかで『情報は無料提供であるべきだ』という人への押し付けがあるときは大抵ココかなと思う。

私自身もこの段階では「ツインレイ情報がいくらなのかがわからないし、とりあえず金をもらってもいいのかもわからない段階ならば無料提供だ。」という考え方から無料提供をしていた。見えないものに対しての価値観がわからないんだよな、神さんに対してもお金にしていいのかどうかも分からなかった。

エネルギー的価値観とは

今回のお題目であるエネルギー価値観とは、エネルギー的な価値観を見ることにある。

たとえば、なとりのツインレイ情報を1250円で購入してもらっているが、ではこれが1万円の価値あるもの(神の感覚的になのでわからないが)だとしたならば、なとりは大損をしている状態になる。しかし、なとりは特に『損をした』わけではない。

しかし、1万=1250円という視点では金銭的価値の視点でみれば、まるで損をしたようにしか見えない。これがエネルギー的価値観の視点に切り替われば1万円=1250円の価値に相当するようになるのである。

私にとって1250円の儲けは1万円を持っている人とおなじだけの金額の価値を持っていると言うことだ。

逆も然り。もし、私が1250円の金額で売っているツインレイ情報が10円の価値(神調べ)だったならば、私の1250円は10円の価値でしかない。詐欺にあうって感じレベルのことのように思う。

金銭的価値観と精神的価値観が結びつくとき、私たちはエネルギーにより解釈を始める。

それは『金銭的価値観が精神的価値観に相当しいわけではない』ということでもあり、私たちは見えないエネルギーにより多くの帳尻合わせをするようにしているって話でもあるんだ。

 

今回は、このエネルギー的価値観についてを詰めて話してきたいと思っている。

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エネルギー的価値観は精神と金銭の統合

エネルギー的価値観とは『金銭(物質的感覚)』と『精神(精神的感覚)』により認識されるようになる。

冒頭に書いた通り、私たちの金銭的価値観は共同幻想にある。あるようでないもの、隣の住人が10円といえばそれは10円だということ。しかし、精神的価値観では10円のものに対して1000円の価値があると思う人もいる。

10円で1000円のものを手に入れたら「得した!」と思う感覚がある。この得したという感覚が金銭的価値観にあるが、精神的価値観とは「満たされた!」という感覚だ。

  • 金銭的価値観・・・・・・損・得
  • 精神的価値観・・・・・・不足・満足

この感覚の違いをエネルギー的感覚で帳尻を合わせている。ただどちらも主観に依存していることを忘れてはならない。

ただ問題は精神的価値観をどのように捉えるのか——である。

エネルギー的価値観が持つ満足とは

金銭的価値観を生きている人たちにとって精神的価値観を認識することはないため、そこに「お金を払う価値はない」として考えている。もし、お金を払う価値がないと考えているとき、そこに感じられる感覚派『不足』にある。

ただ、精神的価値観を追い求めている人たちは『満足』を感じられるようになる。

もっとわかりやすく説明をしてみよう。

そこにあるツインレイの情報を買ったとする。その情報を買った人は『自分の為に有効活用することができる』けれども、その情報を奪って手に入れた人は『自分の為に有効活用することができない』。

ネットで読んだ適当なブログの記事を覚えているのか、覚えていないのか——でいえば、ほとんどの人がいまさならば覚えていない内容のことが多いように思う。そのなかでも「この人からは多くを学べた」と思う心象強い情報もあったりもするけれども、ほとんどのネットの情報は右から左に流れていく。

これが『身にならない』情報の手に入れ方でもある。だけど、もしお金を払ったのであるならば、その情報は『身になる』可能性が格段にあがる。

私たちがお金を払うとは「そこに価値がある」と認めているからである。価値があるからお金を払っている、ゆえに価値がないものは買わないわけだ。

これがエネルギー的価値観からみた満足にある。私たちは『手に入れた』わけだから。しかし、お金を払うことに不満があったり、お金を払わずに奪ったりなどして手に入れた情報などは『身にならない』わけである。それは『相手に価値を払っていないから』でもある。

無償による提供による満足とは

上記の通り、『お金を払って手に入れる情報』と『お金を払わずに、奪うようにして手に入れる情報』『お金を払うことに不満を感じながら手に入れた情報』としてのエネルギー的な満足の違いがわかったところで、じゃあ『無料とか無償ってどうなの?』ってことになってくる。

書いた通り、無料や無償で手に入れた情報は、たいてい右から左に流れてしまい身になることがない。なんなら、間違った情報を掴まされても文句は言えないわけだ。だって無料だし、お金を払ったわけでもないから損をしたわけでもないから。

だから無料の提供しているものにたいしてイチャモンをつけ始める場合、たいていそこに『無料で提供している内容に対しての不足』だから、そこから不足な内容しか手に入らない、または正しい情報を正しく認識できない等の認知問題が生じたりする。

だからこそ、ブログの情報などに対してイチャモンつけたりなんかしていると『欲しい情報がお金払っても手に入らない』ような状態になったりもする。または詐欺教材などをつかまされたりもするようになる。これが不徳とも言える。

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エネルギー的価値観による収入とは

エネルギー的価値観による収入だが、もし、私がこのツインレイサイトをすべて丸パクして記事を作成し、その記事作成により収入を得ていたり、支持を受けれていた場合、その内容で得たお金などはほとんど『価値がないにも等しいお金』的な解釈でいいんじゃないかと思っている。

それでも頑張って書いた時間などの価値観は生まれたりもするように思うが、そこにある『価値を生み出した創造性』に対しての価値は生まれない。

お金の使い道として満たされるようなお金の使い方(精神的価値観を持ったお金の使い方)ができないお金となる。

たとえば、使わないブランド品を買って仕舞いこんでしまう、とか。けっきょくは何も使わずに捨てることになった、とか。マイナスの金額分だけ詐欺にあう——とかもある。

エネルギー的価値観から見ると「みんな平等世界」に存在している。つまり、1円しかない人も100万円持っている人も、同じだけのエネルギー的価値観しかない可能性があるんだ。

たとえば、1円を稼ぐのに5時間かかった人と、100万円を稼ぐのに5時間かかったとして、どちらも能力は同じだとする。すると、1円=100万円ってことになる。

つまりあるからいいってわけじゃない、あってもそのお金を手に入れたルーツに意味がある。つまり背景だ。

こうやって私たちがどれだけ苦労してお金を稼いだのかって話でもある。だけど苦労して手に入れていないお金は消える。これは本当に『消える』し『融ける』ものだと思われる。それが如何様にして消えるのか、融けるのかはわからないが『なくなるお金』として考えたほうがいい。

なんなら『消えたお金』に対して文句が出るとき、そこには余計にマイナスがつくから再び消えるお金がでてくる可能性があるから注意が必要。

 

ゆえに頑張ってお金を地道に稼ぐとは大事なことで、楽に大金を稼いだからといってそのお金に『価値がある』とは言えないんだ。

もしかしたら、そのお金の稼ぎ方に問題があるとき、そこにエネルギー的価値観が生まれない。

エネルギー的価値観による『徳』とは

エネルギー的価値観のなかで収入がどのように得られるのか、そのルーツによってエネルギー的価値観の変動が生まれることがわかったかと思う。

その多くは「どれだけ時間を費やしたのか」「どれだけ苦労したのか」「どれだけ努力をしたのか」等の話でもあり、また、その苦労を買ってでた人たちが持つお金のエネルギー的価値観はとても高いゆえに、得た収入の使い方は『自分を満たすためのお金の使い方』が出来るようになる。

しかし、そのお金を楽して手に入れた場合は、そのお金の価値がドーンと落ちるわけである。

さて、そのなかでもエネルギー的価値観のなかでひときわ徳があるって話だ。これが『人を育てること』だったりする。

これがとても簡単なようでなかなか難しいことだったりもする。その人へ何か新しいもたらしを与えようとしても、与えようとして与えられるものでもないし、育てようとして人は育たない。

与えようとしても与えらないし、与えたことがある人にはよくわかることかと思うが与えようと思えば思うほど受け取ってはもらえないものなのである。

なんなら与えようなんて思っていない時の方が与えているときも多い。

つまりこれが『徳』に相応してくる。

なにかしようだなんて思っていないけれども、勝手に提供しているものがあって、それを勝手に相手が受け取っていく。この無自覚なる循環が『徳』なのである。

また、その無自覚なる循環のなかで受け取る側には受け取るだけの徳があり、提供する側には提供するだけの徳がある。つまりここで授受がしっかりと成立することはたがいに存在する徳ゆえにある。

価値観のレベルと精神領域

価値観と精神の認識領域
価値観 魂の学校 精神
金銭的価値観 小~中学 欲求意識
精神的価値観 中~高校 無意識
エネルギー的価値観 大学~社会 潜在意識

魂の学校のレベルによって認識している意識や時間の概念なども違う。

金銭的価値観を主軸にしているとき、その価値観は『今』という瞬間に着眼される。ゆえにそのときに発生する欲求を満たすようなお金の使い方をする。単純にリアリズムって感じだろうか。

簡単に説明すれば「のどが渇いた、お水買おう。」である。

精神的価値観を主軸にしているとき、その価値観は『過去』と『未来』という時間に着眼される。無意識的に過去の問題に対してと未来の問題に対しての不安や恐怖などを感じたりもし、その部分にお金を使ったりする。無という私たちには認識できない部分への使い方だ。

例えば「未来に対しての投資についての勉強教材を買おう。」である。また、それを『今実行』することにより、お金を支払う。

エネルギー的価値観を主軸にしているとき、その価値観は『人生』という時間に着眼される。一生に対しての視点を持つため『過去』『現在』『未来』の三つが同時に認識されることになる。このとき、私たちは「ひとつの人生として」の価値観を見つけるようになるが為に、エネルギー的価値観を導き出す。

たとえば「投資の勉強のためにお金を払ったけれども、それは役に立ったのか? お金だけの価値はあったのか?」である。

エネルギー的価値観とは、人生的なスパンを視野にしたとき、それが結果を生み出したのか。またはそれだけの価値があったのか——という真価の導き出しにある。

ここに『金銭的価値観(眼に見える価値)』と『精神的価値観(眼に見えない価値)』が合わさり循環することでエネルギー的価値観が生じ、もし、その結果『価値があった』と感じられた場合と『価値が無かった』と感じられた場合が生じる。

この違いがどこにあるのかと考えたとき、私たちは真価へ導かれていくのである。得たお金の価値、出ていったお金により得られた価値はいつも等しい。金額は幻想にあり、また価値は常に私たちのなかで皆同じように抱えているエネルギー的価値観によりやりとりされているということだ。

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絶対的価値

絶対的価値というものはエネルギー的な循環のなかに存在し、その価値は常に私たち個人に由来している。

集合的無意識のなかでやりとりをされている価値観は『絶対的価値』にあるが、その価値は常に変動しているため、この人にとって良い結果をもたらしたものだからといい、ほかの人にとって良い結果をもたらすとも限らない。

私のツインレイ情報も役に立つ人には役に立つし、役に立たない人には役に立たない。理解する人もいれば、理解したと思っても曲解している人もいる。つまりそれが『徳』というものに依存している価値観にある。

もし、情報に対して文句ばっかり言っている人たちは『情報に対しての曲解』をすることになり、正しい情報が得られなくもなる。そんな人に情報を与えたとしても、それが価値ある情報にはならない。

しかし、情報を得られていることに感謝している人たちには『正しい情報を与えよう』と世界がまわるようになる。その人たちは正常な判断により価値を得るようになる。

ただ、集合的無意識のなかでの『絶対的価値』は絶対的にある。しかし受け取りてにより流動している状態にある。

価値