ツインレイは幻想から『無(道徳)』『空(肯定)』を導き出し、ツインレイの存在の自立を促す。
ツインレイ女性が光で、ツインレイ男性が闇だという話があるが、もっとも光と闇は相容れず。私はこのふたつを父と母とし、抱き合わせる必要性がある——、と世明けのツインレイで導き出していたような気がする。
しかし、父と母ではなく『女と男』としてツインレイを導き出すとき、ツインレイの女性は無となり、ツインレイ男性は空になるのではないだろうか。
そもそも、そこにまで到達するために必要なことは光としての人生を受け入れること、闇としての人生を受け入れることである。
闇の人生とは『無になっていくこと』である。そして、光の人生とは『空になっていくこと』である。
そして、光は無の本質を受け入れ、闇は空の本質を受け入れていく必要性がある。
人のなかには光と闇のふたつの気質を内包していることにまず着眼をする必要性がある。
ツインレイ男性を光だとし、ツインレイ女性を闇とするのではなく、私たちは自身のなかに光も闇も両方持っているのである。
どっちかを担当するのではなく、どっちも持っているものであり、そして偏ってしまうとき、私たちはツインレイの統合状態とも言える。
ツインレイの光と闇の違いについて
闇は理論を持って肯定と否定をする。光は精神をもって良し悪しを判断する。
便宜上、光と闇をそのように定義する。
闇の幻想者たち—否定と肯定
闇の存在である天使は対象に対しての肯定、悪魔は天使に対しての否定を行う。
悪魔は対象者を通して天使を否定している為、対象者は『否定と肯定』にあう。いわば、存在がある人は否定と肯定にあっているわけだが、なぜ否定が生まれるのかというと、肯定する天使がいるためである。
対象者が自分の意見ではないものを天使がうみだし、勝手に肯定し始めるため、悪魔はその思想が対象者のものだと思いこみ、否定を始める。
しかし、どちらも対象者の思想ではない。けっきょく、人の思想を『本当のところで理解できる人なんていないのに肯定と否定を始める幻想者たち』が発生する。
光の幻想者たち—悪と正義
悪が他者に対しての悪意を向けたとき、精神をもって正義が生まれる。そして、他者を守るふりをして悪を攻撃することになる。
いわば、正義とは道徳にある。
守られた側は正義を善と思う。自分が守らたがゆえに『守ってくれた正義はいい人』と誤解をする。
しかし、正義とは悪が存在しているから正義なのである。いわば、悪が存在しなければ正義は存在しない。では悪に消えていただこう。
正義は価値が無くなる。いわば、悪人がいなければ正義を振りかざすヒーローもいないのである。
しかし、私たちはこの正義に意味があると思っている。私たちは『守らるべき存在だ』という誤解があるからだ。そして悪意を向けられるべき存在ではないと思い込んでいる。
だが、私たちに正義なんてあったようでないものである。そもそも悪が存在しなければ存在できない正義など『そこにあるのか?』といえば、何もないのである。それは心ではない、ただの行いである。(簡単にいうと、教え込まれた定義のことだ。道徳なんぞ、教え込まれた定義でしかない。その定義を実行するのか、実行しないの違いでしかない。)
いわば、悪が存在しなければ正義もない。これが幻想である。誰かが存在しなければ存在価値がない、つまり悪を利用しているのが正義の存在である。
光の幻想者たちは、精神にないものをあると認識しているということだ。これを道徳に意味を見だしている、みえない道徳に価値があると考えているということだ。
悪は他者に対して『幻想』をいだく。そして、正義もまたを利用し『幻想の正義』を実行する。
光と闇の両方を合わせると・・・・・・
上記の通り『光の幻想者(善悪思想)』と『闇の幻想者(天使と悪魔思想)』の二つの種類をドッキングさせ、合わせてみる。
対象者は悪意を向けられる被害者という存在がある。それを『巻き込まれただけの空しい人』として定義する。いわば、彼らは何かしらの幻想を抱き、その幻想に振り回されている理論や定義をぶつけられているに過ぎない。
ケース1 天使が機能しない
肯定・否定・悪(犯罪)による幻想に巻き込まれていた。そこに正義はいなかった理由は、天使が『見せかけの正義』だったがゆえに、機能していなかったためである。
悪魔が行ったことは『否定』と『悪意』である。
私を肯定する人は、全員が味方ではなかった。正義感があったわけじゃない、私を肯定しているだけ。いわば、私は悪意と否定にさらされ続けていたが、誰も何もいわなかったし、なんなら『我慢すればいい』って話だった。
「あなたは間違っていないんだから、我慢すればいい。」ってこと。これが感性の欠落と呼ぶんじゃないか。自分がその場にたたされたとき、我慢ができると思っているんだろう。
つまり、肯定なんて『幻想』なのである。
私はこれを経験したが『羨ましい』と次の事例の方に言われている、人は自分のささくれが一番に痛いものだからな。
ケース1 悪魔が機能しない
このケースは『肯定・正義・悪(犯罪)』である。
今回は対象者が『被害者』である。その被害者が持っているのは被害者意識である。しかし、守ってくれる存在に『正義と言う理想』を持って、幻想化させる。
意味がないのである。いわば、このときの問題は悪と被害者が解決するべき問題に、他者が正義で守ってくれると言う幻想を抱いたことにある。いわば、それが『正義のヒーロー』を創りだす。
すると必然的に『悪』が必要だ。必要悪という言葉がある。しかし、その悪を生み出したのは誰か。それは正義のヒーローである。そこに『道徳』という幻想を持って生きているからこそ、私たちは『悪』を生み出す。倫理の崩壊と道徳の崩壊を感じるのである。
つまり、正義は『幻想』である。
闇は『空』を導き出し、光は『無』を導き出す
闇は否定と肯定をしているが、そこに正義が欠落する。
光は正義と悪意をしているが、そこに否定が欠落する。
これが光と闇の欠落である。
そして、このなかで幻想化したものは『肯定』と『正義』である。
なぜ肯定が必要で、正義が必要なのか——。そこに着眼すれば、私たちがどう生きればいいのかを理解することができる。
私たちは『自分が肯定されなければ存在が出来ない』と思っているし、『他者に守られなければならない存在である』と思っていることだ。
けっきょく、私たちは他者に依存している。
自分を肯定するのも自分であり、自分を守るのも自分である。
光は正義を無にする。それは『他者への依存』を失い、自立するしかない。
闇は肯定を空にする。それは『他者への依存』を失い、自立するしかない。
しかし、その他者こそが幻想なのである。そしてツインレイは幻想である。
自分軸とツインレイの存在の自立
いわば、ツインレイの相手に肯定されなければ存在できない。ツインレイの相手に守られなければならない存在である。
ツインレイの相手は自身の味方である。
悪魔の契約は『ツインレイの相手は自分の道具である(犠牲の概念)』という思想のもとにある。いわば、ツインレイの相手がいなければ自分は存在できないという自律ができない存在そのものにある。
ツインレイの自分軸を『ツインレイの相手に依存している』っていう時点で、私たちはツインレイの相手と分離することが出来ない。
私たちは、ツインレイの相手に依存しなくても、肯定されている。自分を守ることができる意思がある。
さすれば、ツインレイの相手に肯定されなくても、ツインレイの相手に守られることがなくても生きていけるよねってこと。
これが『ツインレイの存在の自立』ではないだろうか。
ツインレイの相手は自分を肯定する存在ではない。
ツインレイの相手は自分を守る正義のヒーローではない。
ツインレイの相手は自分の道具ではない。私たちは私たちの存在を『自分で維持することができる』のである。
ツインレイの相手は普通の人である。ここに『幻想』がある。
ツインレイの相手が『特別に自分を救ってくれる存在』だという幻想である。ツインレイの相手も普通の男の子であり、普通の女の子だ。だけど、正義のヒーローになりたい男の子と、それから一番の味方でいたい女の子でもある。
これが男女の従来の思想なのかもしれない。だけど、なりたいかもしれないけど『なれない事実』を私たちは受け入れていかなければならない。
私たちはツインレイの自立をするとき、正義を手放し、一番の味方でありたい自分を手放していく。
闇による『空』とは、その肯定には意味がないんだってこと。ツインレイの相手に肯定されたとしても、それに意味はない。
光による『無』とは、その正義には意味がないんだってこと。ツインレイの相手が自分を守ってくれたとしても、それに意味はない。
いわゆる『勝手にやっていること』であり、意味がない。
ツインレイの相手に言われたことだから、とか。『ツインレイ』を特別視し過ぎた結果、幻想に振り回されてしまう私たちの性から卒業していく必要性がある。
なぜならば、私たちは三位二体を分離させ、たがいを支え合う必要性なんていらなくなる。自分で自分の存在を維持することができるようになるからである。