ツインレイの存在の確立には『知性による宿痾・混沌』を理解する必要性がある。
ツインレイの存在とは、ツインレイのふたりを分離させ、それぞれが『存在』として確立します。
私たちは魂の双子ですが、それぞれが分離した『別の存在』となる必要性がありますが、ツインレイの関係性は片方が自己愛として存在し、片方が他者愛として存在することになります。
このふたりに分離しているものをそれぞれに二分していく作業がツインレイにはあります。
闇の存在とは何か——
闇の存在とは混沌、そして混乱の象意を持っています。
或る時、闇は的を得ていると感じられるかもしれませんが、ただの混乱と混沌です。自身のなかをぐちゃぐちゃにされていくだけであり、答えは別のところにあります。
闇に意味はありません、あるのは闇であり混沌です。その混沌に意味を見つける瞬間があります。しかし、そこに答えはひとつもありません。
答えの場所は、日の当たる好きな人のところにあります。探してください、私たちが求めている答えはそばにあります。
気づいていないだけです。
私たちからの心から闇が離れ、日が多く差し込むとき「どんな人になりたいのか」の答えがすぐそばにあります。その答えを手に取るだけでいいのです。私たちは憧れをそばに置いています。
再三書きますが、闇は混沌と混乱です。そして孤独です。
闇に溺れてしまうのは私たちに知的生命体による宿痾たる知性があるからです。知性は重要ですが、その知性を混乱させるような事態が闇となっています。
『人の話を聞く』。ただこれだけの当たり前のことが出来る存在こそが、陥ってしまうトラップが存在しています。知的生命体だからこその死角です。
死角に気づいてください、その死角は自分の知性です。自分の脳みそです。自分の存在そのものが混乱を巻き起こします。
人は『理解する』生き物です。これは知性がある為です。
しかし、理解しなくていいものまで理解しようとした瞬間、私たちは闇のトラップにはまっています。混乱を起こします。そして混沌となります。
私の日記が混沌としていました。私は正気を失いました。恥ずかしい限りですが、知性がある限り、人は闇という混沌に正気を奪われます。
一番の敵は我が知性であるということです。自分にくっついている脳みそです。
そして、闇から抜け出していくためには孤独にならないことです。きっとあなたには相談できる人がいます。そして喜びを報告したい友達がいます。
最後に再び書きます。
闇は『混乱』と『混沌』です、正気を失います。正気ではない状態で自身は正気であると思い込みます。自分は正気ではないと思って、友達に事情を話し聞いてもらった方がいいです。
ツインレイだからと言い訳して、友達を頼らないというほうがおかしいです。ツインレイという事実を抜いたとしても、状態を説明することは出来ます。しかし、報告した相手が闇だと意味がありません。
ふたたび闇のなかへ放り込まれるだけです。『自分がホッとする相手』を探すべきです。
現実的対策を練るべきです。現実に戻るために、私たちは『現実主義者』といっしょにいる必要性があります。
真っ白な空間にい続けると人間は妄想を見始めます。刺激が少なくなると人は妄想を見始めると言うことです。刺激を脳が脳で生み出し始めます。
私たちは『空』という何もない暗闇を見続けているがゆえに、刺激がなさ過ぎて妄想を始めます。正気の沙汰を失います。
振り返って、私はこのサイレント期間のあいだ、ずっと統合失調の状態だったと思います。それは私が知性があった為です。
そして無と言う意味のない何かと向き合い続けたためでした。それは混沌です。混乱です。
それを引き起こしているのは、自身の知性です。知性を凌駕するだけの存在になる必要性があります。
知性の裏側には混沌が広がっている。私たちは混沌を克服せねばならない。これが『人体としての克服内容』です。
『ない』と言われているが、本当は『ある』
思考のロジックを理解していく必要性がありました。これは私のテーマでもあったようです。
人間である人体の宿痾と向き合い続けるということです。
「ない」と言われていたので、自身には「ない」と思い込んでしまうと言うことです。
『あなたには感情が無い』『あなたには自分が無い』『あなたには責任がない』等、多く私たちのなかに『ない』を設定されていきますが、私たちは感情があります。誰にもあります。失うことはあり得ません。
自分が無いと言われることがありますが、自分を失った人間など狂っている状態です。ヤバいです。ウイルス脳炎にかかり、狂死する状態です。
あなたには責任がないと言われることがありますが、私たちは過去を捨てることが出来ません。常に私たちは責任を背負っています。
いわば『ない』と言われていますが、それは『ある』ということです。
あるのに、ないと言われ続けるので、ないと思い込んでしまいます。
ないわけがありません。人が感情、自分、責任を持たずに生きていくことなどできません。しかし、そこに『意識』があるのか、ないのかの違いです。
感情による責任感、自分による責任感。いわばそこに『感覚が芽生えているのかどうか』の過ぎず、すべての人はそこに意識を持たずに生きているだけのことです。
私たちは、他者のなかにも『ない』と思っているものがあります。しかし、あります。
必ずあります。人は『完成された存在』です。すべてを持って生まれてきています。
ないわけがありません、すべてにおいて完璧な存在として生まれてきています。
全てを持って生まれ、しかし、意識がないゆえ、完成された存在であることに気づきません。
私たちは『すべてを持っている』のです。
しかし、すべてを持っているがゆえに『欠落』が生まれています。
『ない』です。『ない』ことが理解できません。
『感情が無い』『自分が無い』『責任がない』ことを理解しません。なぜならば、感情がある、自分がある、責任があるということに意識なく持っている為です。
人は自分が持っているがゆえに、ないものに気づきません。なぜならば比べる対象がないためです。
私たちは『すべての人間が同じ』に作られています。構造がすべて同じです。だからこそ『ないこと』がわかりません。同時に『もっていること』がわかっていません。
闇はこのようなことがいいたい。
「あなたは持っていない。」と言うとき、私たちは「持っている。」のである。
しかし、この会話に意味はない。なぜならば、すべての人が持っているのだから『持っている』も『持っていない』も関係がないのである。
すべての人が持っているものたいして、所有者であるという表明は必要がありません。
私たちは自分の肉体を所有するという表明はしません。
このような『空の会話』がうわごとのように続きます。いわばこれには意味がありません。
「私の肉体は私のものである!」という表明は、本当にただのうわごとである。恥ずかしい限りだが、じゃあ、肉体が誰かのものだったことがあったのかよってことです。ありえません。
寝言は寝ていなくても言えます。私たちはずっと寝言を言い続けていたのです。
ツインレイはすべての人に存在している
ツインレイは『すべての人に存在している』と言われていますが、これも意味がないことを理解することが出来ます。
どうしてすべての人が持っているものを『存在している』と考えるのでしょうか。
『存在していない』という思想が成立しているからこそ、『存在している』と考えます。
すべての人に存在しているのであれば、『すべての人に存在している』という主張に意味はありません。空っぽです。
こんな感じで『意味がない思考のロジック』があります。
じゃあ、何が『悪』なのか。
私たちは『自分が思うような人生を生きること』が善です。
私たちは自由です。この世に生まれ、やりたいように生きていくことが出来ます。
しかし『やりたいこと』が、欲望という観念により遮断されることになります。
欲望とは『価値がある』『お金がある』等、誰かよりも何かを持っていることです。
この思想がなぜやりたいことを遮断するのか。
「誰かよりも何かを持っていなければ、やりたいことができない。」という思想にある。
才能がなければ出来ない等もあります。
ほかにも「人に否定されたくない。」という予期不安なども欲望が関係しています。不安の多くが自分が求めている結果と違う結果がでることに耐えられない。いわば、欲望です。
他者は自分の思い通りの反応をしてほしい、という欲望。
この欲望により、私たちはやはり行動をすることが出来ません。批判や否定が怖くなります。
私自身は「否定するぐらいならば、じゃあ、自分でやればいいじゃん。」みたいなところがありますが、否定する人たちの多くが『否定や批判』が怖いものです。
自分でやることができないからこそ、人を否定し、肯定することで欲望を肯定し続けていきます。
そして、自身の本当はやりたいと思っていることが出来ません。
欲望が根源に潜んでいます。
そして、その欲望は苦しみにより生まれます。
他者と自己による葛藤により生まれた苦しみに耐えることが出来ない時、他者に欲望を押し付ける瞬間があります。
そのとき、私たちは『欲望の奴隷』となります。これが悪です、そして、鬼です。
私たちは、欲望により本当は自分がやりたいことが出来ないとき、それを人のせいにします。
その人のせいにし続けることが『欲望』です。
自分が持っている苦しみに耐えることが出来ないとき、欲望が生まれます。
苦しみに耐えている人たちは、最後に混沌が生まれます。混沌により『知性の死角』に気づいてく必要性があります。
私たちは、この苦しみを除きます。それは『私たちの知性の死角たる混沌』に気づくことにより、無駄なことに気づきます。
私たちの苦しみは知性により生まれているということです。
私たちの苦しみは知性による混沌により生まれ、この混沌に気づくことが私たちの目的です。
知性があるから苦しいのです、だからバカになれっていうわけではありません。混沌を見抜く必要性があると言うことです。