私が知る限りの自分軸とは
ツインレイやスピリチュアルでは『自分軸』というものを多く語られ、この自分軸を持つべきである——とされているかと思います。
多くが『他人軸』と『自分軸』による対比による自分軸について語られており、検索では、他者に影響を受けない存在のことだとされています。
さて、どうして他者に影響を受けることが悪いことなのでしょうか。どうして自身が犠牲になることが悪いことなのでしょうか。結局のところ『自分が被害者になることが悪いこと』というエゴイズムが潜むのが、この自分軸の思想となっています。
自分軸を二元論にて語ってしまえば『自分軸が善』『他人軸が悪』となっています。
自分軸とは『自分のみにより形成すること』にあります。その背景に『他者に影響されないこと』があるわけではありません。
自分軸と他人軸は対峙するような形で存在しているのではなく、自分軸と他人軸の両方を育てていくことに意味があります。
自分にも意見があり、他人にも意見があり、その両方を持ち得、『自分を形成すること』。これが自分軸なんですね。
最終的には自分軸と他人軸の両方が両立され、完成したとき、世界は自分となり、自分は世界となるような形へと昇華することになります。
しかし、個は個であり、私たちは誰でもない個の存在があります。個の視点を消失した段階で世界を語るには未熟すぎる。
私たちは他者に影響を受け、そして、他者へ影響を与えていくことによる互いの存在により、自分と言うモノを知っていくことになります。
自分軸とは先ず『自分』にありますが、自分を知るためには他者を知らねばなりません。人を通し、自分を知ることが必要なため、私たちは他人軸に溺れていく必要性があります。
このとき『身を他人軸へ落とすこと』は人が忌むものです。なぜならば、自我という『悪の自分軸』が存在しているため、他人軸になどなりたくないのです。
人は自身の考えを他人に預けることにも恐怖するものであり、だからこそ、自身の考えを通す人もいます。ほかにも自分にj自信がないから他人に依存し、自分を預け責任を逃れるようなところもある。
世に通じている他人軸は『悪』としても存在しており、世にはびこる自分軸の話は善悪思想をもとにされて形成されていることがわかるかと思います。
私が知る自分軸とは『常に自分を知り続けること』にあります。
『自分は誰なのか』。まずここから始まるかと思います。
少し視野を広げていくと、私の人種は日本人であり、私は地球のなかの日本という国に住んでいる。この視野を欠落させると、政治に対しての見解が『どこかの国が正しく、どこかの国が間違える』という考えに傾くことになります。
違いますね、私たちは日本を通して他国をみなければなりません。なぜならば、私たちは日本に住む日本人だからこそ、日本の先に他国が存在していることを忘れてはならないのです。
この視点が消失された状態では、おまえは神か何かか? というような地球にすまうことのない宇宙人のような考えを持つようになります。これが自分軸のブレです。
あれが正しい、あれが間違っている。善悪思想の視点そのものが自分軸のブレです。
自分が日本人であることを忘れた人は、日本という国を主体として政治について語りません。それこそ今ならば、戦時ゆえに傾いた考えを持つようになり日本人という立場を忘れることになります。
私は、自分の立場を忘れないでいることが自分軸だと思っています。それは肩書きでもあり、また立場でもあります。
自分が人に意見するほどの存在ではないことを忘れ、望まれてもいないのにアドバイスをしたりすることも自分軸のブレかと思います。
他者にとってそれほどにまで自分が存在意義があるのだと思ってしまうことも自分軸がブレている状態です。
他者と自分との関係性における適切さを忘れてしまうことは、自分の軸を消失させることに繋がっています。
自分の立場を消失していくこと。これが自分軸が存在していないことになります。自分の立場が理解できていないからこそ、他者の立場を奪うことも生まれ、他人の立場を奪うことができる自分に自負を生み出す。
自分を持たない人たちの多くが、他者の立場を奪い続けており、他者の立場を奪うことが自分軸の喪失でもあります。しかし、これを『他人軸』というかというと、そうではありませんね。
つまり、他人軸にも善悪が存在し、自分軸にも善悪が存在している。
この対峙性は、他人軸では『他者に依存すること』が悪であり、『他者に寄り添うこと』が善です。自分軸では『自分の立場にい続けること』が善であり、『自分の立場を失うこと』が悪です。
私たちは『他者に寄り添う為に』他人軸を持ち、人の意見を受け入れる必要性があります。だけれども、自分軸では『自分の立場を弁える』ために、他人軸を守るために自分軸を形成する必要性があります。
この視点を持つために必要なものが『心』です。
心無ければ、他者に寄り添うために自分の立場を弁えようとは思いません。私たちは自分軸を育てるのではなく、自分軸と他人軸を育てるために必要な、良心を必要としています。
そして、ツインレイへ良心を取り戻してほしいと考えているのが神々の願いかと思います。
他者に寄り添うことが出来ないことが自分軸ではなく、人に寄り添う心を自分軸として欲しいのです。そして、そのとき、自分の立場を弁えることができるのが自分軸です。
そこには必ず、心が存在しています。その心を失い続けているゆえに自分軸の思想もズレて解釈されているのではないか——と思います。
人に身を預ける勇気と、自分の立場を持ち続ける強さを持つことが芯です。そしてそれが今語られるべき『自分軸』ではないでしょうか。