ツインレイの共同幻想の解除と原理について(サイレント空間)
ここ最近は「共同幻想の解除」に勤しんでおり、徐々に自分のなかにあるツインレイという概念を解除していくのかに余念がありません。その過程で、一応、ツインレイの共同幻想の原理についてを書いていこうと思います。
ツインレイの共同幻想とは、ツインレイそのものが幻想であるにも関わらず、ツインレイである情報に触れた分だけ「自分はツインレイである」という思い込みを生み出し、ツインレイの共同幻想という空間に留まり続けることを意味します。
ツインレイとは『存在しない』ものではありますが『存在している』という思い込みを持った人たちが集団化する、または大勢いることによりひとつの空間が成立し、そこで『ツインレイという幻想』が生じることで、ツインレイは存在するという幻想世界を構築する——という現象が生まれます。
これは、ツインレイのみならず、多くの宗教によっても行われている事であり、周知によって成立する世界観があり、その世界観が「ない」ものだとしても「ある」として知覚されたとき、共同幻想が生じる。
つまり、ツインレイの共同幻想が悪いことであったり、それがあってはならないことというわけでもない。ただ、そういう事象が生じ、その事象において私たちはどのように対応するべきなのか——については知識があってもいいんじゃないかとは思います。
共同幻想の原理
ツインレイの共同幻想空間では、祖や原点となる『人物』や『思想』というものが存在している。私の場合は「ツインレイの思想」にあり、その思想を信じることにより洗脳にあい、信仰をするというメカニズムを生じさせる。
洗脳とかいうと、ちょっと怖いイメージもあるかもしれないけれど、お金も洗脳だよ。100円の硬貨に本当に100円の価値があるのか? って考えてみると「わからない」わけで。これが共同幻想による洗脳なんだ。つまり、お金っていうのは信頼により成立しているし、あるとき、お金の価値が暴落したりもする現象が起きると「お金の価値がなくなる」っていう瞬間もやってくる。
つまり、お金への信頼関係をちゃんと構築した人と依存した人にはお金の取り扱いの仕方が違うよねって話にもなりますね。
で、ここでツインレイ的に説明してみると、そのツインレイのステージ、ツインレイであると語る人たちを『信じる』『信じない』という考え方をして、誰を信じるのか、何を信じるのか——によって、信者たちは振り分けられていく。
けっきょく、どの思想を重要視するのか、どこで洗脳にあい、どこで信仰をするのかってだけの話でもある。
だけれど、外部からすれば、全体的に「大丈夫?」って感じで見られている構造がわかる。けっきょく、幻想に惑わされている状態でもあるから、盲目的な信仰をしている人たちを見て、外部からすれば「あの人はヤバい人だ」と思うのと同じ現象が起きています。
という原理によって共同幻想空間は成立しています。
つまり、この共同幻想とは『人物』または『思想』により構築されている本質的な部分が存在しているということですね。
ここから『人物(教祖)』または『思想』に対して謀反が起こせれば、この共同幻想空間は破綻するわけでもある。
共同幻想空間を解除するためには
共同幻想空間とは『根本にあるもの』を探してみると、例えばツインレイの理論に『依存するだけの理由』があります。
ほかにも、ツインレイで語っている人たちを教祖として見立てて、その人たちを信じることも『依存するだけの理由』があります。
また、この『人物(教祖)』または『思想』に対して、謀反が起こせれば、それなりにツインレイの共同幻想の解除は出来るのだと思いますが、誰かをバッシングしても実は解除できません。
否定しても意味ないんですよね、それは肯定しているにすぎません。肯定と否定は同じことです。テーゼとアンチテーゼは『テーゼ』でしかないんです。
よく、定義やら人物やらを否定しますけれども。その存在を否定したいと思うんですが、基本的には否定することも肯定と原理は同じで『定義の成立を支えているだけ』です。
だからこそ、否定は肯定しているに等しく、肯定は否定しているに等しいと考える。
つまり、ここで「ツインレイは存在しない」と言ったところで、「ツインレイは存在している」と言っているも同義語である——と考えられる。否定には意味がないんですよ、存在の樹立を助けているだけなので。
否定も肯定にも意味がなくて、どちらもそこに『存在がある』と認めているという事実だけが残ります。
ツインレイは存在しない=ツインレイという概念を認めているとして認識しますので、幻想は解かれません。幻想の中にいるので否定ができます。けっきょく、否定することで外部者を装うこともできますし、マウントも出来ますが、肯定者と同類であると豪語しているだけだと私は認識しますね。
で、ここで重要なのが『祖』となる『人物』または『概念』『思想』がそこにあるから、共同幻想が成立しますので、この根源を破壊すれば、共同幻想が不成立となり終わります。
どのようにすればいいのか——ですが。
新しい定義をつくって仕舞えばいいじゃないって話でもあります。これが『創造』なんですね。
その創造は旧来の思想を破壊します。破壊して、新しい世界観を創造すればいい。そのとき、私たちは幻想を破壊します。
イチからの再構築をするって感じでしょうか。ただそのとき、私は両方を破壊します。
もはやカオスかなとは思いますが、古いツインレイ思想を新しいツインレイ思想をぶつけることで、私は『両方の思想を破壊する』というカタチをとりました。
古い定義(古いツインレイの教祖型やツインレイ思想)に対して懐疑的な方々は私に対して肯定的ですが、古い定義に対して肯定的な方々は私に対して否定的だと思います。(このようにして私の定義を成立させていきます、認識されて、否定と肯定されるだけでいい。それだけで私は『定義を世に定着させることができる』ということ。)
つまり、私は私で幻想空間をひとつ樹立させた——とも言えますね。
そして、従来の幻想空間と新しい幻想空間をぶつけることで両方破壊させるようにします。破壊すると『新しい現実世界』が成立していきます。
空間反転した空間がぶつかり合うと爆発を起こすでしょ。それを同じ原理を使っている。私は空間反転させた思想を樹立させたようなものだと思われる。
なので、その思想をぶつけることで『爆破』させる。
爆破させると、空間そのものが破壊されて何もなくなりますので『ツインレイの存在そのものがなくなる』という状態となり、現実世界に戻ってくる——という算段です。
つまり、世明けのツインレイを最初から私を追いかけるように読み続けると、最終的には『ツインレイの概念が爆破される』っていう起爆スイッチが組み込まれているようなものだと思います。
空間反転思想 | 空間反転図 |
---|---|
否定と肯定とは、新しい空間反転思想を構築し、支えるためにはめちゃくちゃ重要ではある。そもそも『私が空間反転思想を樹立させる』ためには否定者と肯定者が必要だったとも言える。
このとき、私は存在が認められ、私の思想も存在が認められた——ということ。
私は本体をも内包させている存在であり、本体から『否定』と『肯定』を自分のなかに樹立させ、その対立性により、新しい鏡による空間反転思想を樹立させているので、私のなかでは『四種類の思想』が成立しています。(なので、この空間反転思想を樹立していく段階では『本体の人』『肯定する人』『否定する人』の3人が必要とされた。私自身は『空間反転思想を樹立させている人』である。)
最終的には空間反転思想の私と本体の人(つまり表裏の相手)と抱き合わせることで『爆破』します。本体の人が私の思想を受け入れたら、完了って感じでしょうか。
この完了により『ツインレイの概念が存在しなくなる』という『無』になります。
そうするとどうなるのか? というと『新しい空間が生まれる』わけなんですが、それが現実世界です。
幻想と幻想をぶつけたので、現実が成立する感じではないでしょうか。
なので、私のなかでは、ツインレイの思想は消えました。幻想には囚われないって状態になります。
私が樹立した共同幻想空間とは
私が樹立したものは反転しています。鏡なので。
ですが、空間的な説明になると、穴が開いているイメージのほうが強いかもしれません。
つまり、共同幻想空間のなかでは優劣意識が強い人たちが留まり、そのなかで『対等意識』的な空間の穴をつくることで、脱出口が出来上がったって感じでしょうか。
いわゆる、ツインレイって選民意識思想だよね? ってことですね。そこに対等思想を持ち込んできてきたら、その思想は破壊されてしまうんだよって感じだろうか。
情報に対して信者となる下僕になるのか、はたまた情報に対して分析をかけるのかによって、祖は『洗脳物』になるのか『助教提供先』になるのかの違いが生じる。
情報提供先だと認識した人たちの多くが脱出できるまでに至る経緯をここに『幻想世界』として成立させ、内側から爆破させたイメージ。
で、その脱出口を使うと、現実世界に戻ってこれるよって感じだろうか。
今まで、このツインレイの思想からの脱出口が成立していなかったので世明けのツインレイの情報は「出口」みたいになっていると思われる。(まさに、世という幻想が明けるという意味にも捉えられるな。)
つまり『入口』と『出口』が揃い、そのふたつが重なってしまえば、もうそれは『トンネル』としか言いようがない。
入った人は出ていく仕組みになる。
で、この空間から出ていく出口が成立していなかったので、その出口を創った感じ。
はいればでていくしかない。ツインレイという領域にとどまっていることのほうが問題になる。
多くの人がツインレイの領域にとどまってしまう理由は「出口がないから」ってことです。
出口をつくるためには、入り口を理解せねばならないし、空間を理解せねばならない。理解したからこそ、空間反転させた鏡による出口が成立させることができる。
誰を信仰するのか?
ここで『信者』の人たちが誰を信仰するのか? って話になってきます。
情報を丸ごと鵜呑みしている状態の教祖を信仰し、そこの信者となってツインレイになろうとするのか。
それとも、ツインレイ情報を分析しまくって、最終的に「これは幻想である」と着地することになった哲学者を信仰するのか。
けっきょく、信仰するってよりも後者の哲学者を信仰することは出来ない。そもそも、その哲学を理解する必要性があるから、嫌でも頭をつかわなきゃ、言っている意味がわからない。
言っている意味を理解することが出来て、ようやく『幻想がとかれる』ことに繋がりますので、自分自身がそこそこ幻想を解除することができるまでの知性が得られる必要性があるということ。
つまり、ツインレイの期間にどれだけ考えて、どれだけその思想に対して向き合い、どれだけ哲学したのか——みたいなところもあって、その情報に対して、どれだけ理解しようと努めたのか? による結果が出てくるということです。
何も考えずに「ツインレイのステージは最終的に再会がある」とだけ考えていると、結果的には教祖になるということ。
途中で『ツインレイから脱出するのか』、はたまた『ツインレイの幻想に留まるのか』の分岐点がある。
これは最終的に『自分が哲学者として成立し、その自分を信じられるのか』って話でもあります。
情報を信じるのか、自分の決断を信じるのか。
自分の決断を信じた人から、ツインレイから脱却していきます。この領域から抜けていくことが出来ます。
人を信じるんじゃなくて、情報を信じるんじゃなくて。自分を信じましょうってことです。
ツインレイを信じるんじゃなくて、自分を信じよう。
自分を信仰しよう。