ツインレイは自分の使命を純粋に実行する。(心を手放す)

2024年8月16日

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

私のステージが進むごとに更新していくステージをひとつの記事にして販売しています。


さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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私たちは使命を背負っている。

ツインレイとは、私たちが純粋に使命を実行するために必要な出会いだったような気がする。

私はどんどんと浄化されていく道に進み、最終的には自分のなかにある記憶のない記憶までも触れていくことになった。

その使命は人それぞれ違うのだと思う。けれど私たちはその使命の道を上手く歩めず、二元論の思想に落ちてしまうケースがあるのだ。

私が受けていた洗脳――、もとい原罪というクラヤミの世は支配と犠牲という世界観の優劣思想の強い世界だった。

犠牲の道を進んでいたとしても、自分よりも弱い犠牲がいれば、犠牲が支配へと転ずる。そんなことの繰り返しをし続けている世界が私の世界。

もし、支配に転ずることがあっても、その人たちも必ず奉仕の道に進むという仕組みがある。

根っこの部分にある罪悪感がそうさせるのだ。

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だけど罪悪感が解かれたならば?

支配と犠牲はどうなるんだろう。

実は『何も変わらない』んだ。

 

私たちは、特にツインレイっていうワードを追いかける人たちは精神主義と私は呼んでいるけれど、本来、根っこに罪悪感があろうがなかろうが。その奉仕の意味が支配であろうが犠牲であろうが。

動機がなんであろうが。

私たちは『奉仕に従事している』っていう事実は変わらない。

でも精神主義は『なぜ奉仕に従事しているのか』っていう問いかけの答えを探す。その答えが精神や心理にあると思っている。そこに『心』があると思っているんだ。

例えば、私がツインレイについて書いている。その動機が不安や恐怖がある。しかし、不安や恐怖がなくともツインレイについて書くことはできる。

もちろん執着がなくてもツインレイについて書くことは出来る。これは行動であり、行動が常に精神とリンクしていなければならないわけではないから。

つまり、使命には『心理』が関係していないってことなんだ。

例えば、私がニートしているけど、ここに心理的な動機は無いけどあるように感じているのが人間。

ここには『何も無い』のに『ある』と思っている。いわゆるこれが空の思想。(というか、自分の感情へのこだわりってことだな。)

何も無いことに気づいていかなきゃいけない。

なにもないのに、ないものを期待して執着してる。でも、大事なのは『行動』『発言』。

これは精神主義を極め抜くと、現実主義に反転してしまい、『心ってそこには何も無くない? 意味無くない?』っていう現実的視点へと到達することなんだと思う。(なんなら全部、妄想で自分の思い込みと記憶でしかない。)

そこまで理解して、次に再び『ないものがある』ことに気づいていく経緯がある。

空の思想をも手放していくって感じだろうか。

順序で言えば、精神主義への傾倒、現実主義への反転(空の思想)、精神主義の内包っていう経緯である。

精神主義を内包する為には、まずは精神主義を分離させる必要性があり、精神主義を内包するとき、私たちのなかに『心』が生まれることになる。

当初は精神や感情という思い込みで、自分勝手に人の気持ちを思い込むことで生きてきた私達も、このときばかりはワンネスを知る。

シンクロニシティとも言えると思う。

私たちが行動を起こしたもののなかに心が生まれるのである。

動機が精神や感情なのではなく、結果として心が生まれる。意味が違ってくる。

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つまり、私がツインレイの記事をかいている。当初は執着や悲しみが動機としてツインレイの記事を書いていたが、今はツインレイの記事を書くことが『愛情』という心を生み出す。

動機に感情があると、不安や恐怖を元に行動してしまいやすい。

不安や恐怖があるからツインレイへしがみつく。でも空の思想をも手放せば、今やツインレイへの不安や恐怖があるのではなく、ただの愛情がそこにある――というスタンスになってしまう。

でもそこに『心』があるのは違いなく、自ら心を生み出し、自ら実行することに意味がある。

また、私のなかで『使命』とは、行動の動機があるのではなく、行動したことにより心が生まれることにより、使命が生まれるものでは無いか――と感じている。

使命は行動だから。行動がなければ、そこに使命は発揮されない。

まずは行動する。心は後からついてくる。このとき、使命が行動と精神により生じる。

使命を心から喜び受け入れられる人生となる。

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ツインレイの恋愛もそうだと思う。

まずは行動する。心はあとから着いてきた。行動によって『心』が生まれたからである。

その心は私たちが自ら生み出したもの。そして、私たちは生み出した心を動機にした。

いっしょにいたら好きになった。

好きになったから一緒にいたい。

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ツインレイの出会いからサイレントまで、私たちはずっと心を生み出す、結果を出すための使命の道にいたと思う。

でも、サイレント期間にはいり、使命の道を外れた。その理由は『動機』が生まれたからなんだ。(いっしょにいたいと思った)

サイレントは『悲しいの始まり』と『嬉しいの結果』という経緯が生まれる。

しかし、嬉しいの始まりが得られたとき、次に再び悲しいの結果が出ることになるだろう。

だから『動機』と『結果』を統合させる。

動機と結果を同じにする。

そのとき『使命』がずっと続くようになる。

これがツインレイは自分の使命を純粋に実行することができるようになること――なのだと思う。

 

ちなみにツインレイの彼への気持ちは、出会った頃とはまるで変わらない初心なものだなと思うが、今はもっとそれを実感出来るかな。

純粋な気持ちってこんなにも透明なもので、何も意味をなさないものなのだなと思う。

これがあるからってなにかいいことがあるわけではないけれど、心がぽかぽかするんだ。ずっと心が満たされている感覚がする。

人を思うと苦しかったけれど、今はそうでもない。人を思うと――ツインレイを思うと、心が満たされる。自他統合的だからかな?

最近は特に毎日幸せなんだが、ツインレイのネタが切れてきた。書きたいのは山々なんだがなー。

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簡単に説明すると、自分の感情を大事にするのはいいけど、それもこだわりだよってこと。

こだわってしまっている感情があると、それにより苦しみが生まれる。

私の場合、無自覚にも『罪悪感』へのこだわりがあったから、このこだわりを手放す必要性があったよ。

みんな自分の『なにかの感情』にこだわってるけれど、そこにあるには全部思い込みと妄想だから、こだわってもその先にはなんにもないよ。妄想し続けてるだけだし。

ツインレイへの感情も、実際は思い込みみたいなものだし、それらも全部手放してしまったほうが楽になるぜ≡⊂( ^-^)⊃

でも、きっとこの『感情を手放せ』っていうことに『無理』とか悪魔の囁きのように聞こえる段階があるから、そのときは感情を手放さずにもっと深く洞察してみるといい。

大事なのはそこに手放せていない感情があるっていう自覚の方で、自覚できればそれでいいのよ。勝手に手放されるから。でもあたいは感情を手放せとか、悪魔の囁きにしか聞こえなかったよ。

だって「好きな人がいるんだよね」って言っている人に「好きな気持ちを手放しましょう」って斬新すぎて意味わかんなくね? ってなった。

感情がなぜあることがいいことだと思っているのか、感情がないことが悪い事だと思っている原因があるから。

でも、最終的に手放しても戻ってくるから( ˇωˇ )

失ったと思っている時点でよくわかってねえのかも。失ったと思っているには自分が『もっている』っていう思い込みから生まれる感覚だよ。

自分には感情があるって思いこんでるけど、持ってないから。なんならそれ妄想と記憶でしかないから。だから手放してみると『気づいていないけれど持っていたもの』を手に取ることができるようになるよ。

つまり、思い込みや洗脳を全部解除していくと、たどり着くところがあるんだよ。

仏教はそういう思想なんだろうなと思われる( ˇωˇ )