ツインレイのなかにある『自己分離している感情』を突き止めること(アダムとイブの自己統合と楽園からの追放理由)
アダムから切り離された存在がイブ。
これは私たちが両性性を得るためには必要な段階です。
アダム(男性性)とイブ(女性性)の2種類の性別は、ふたつとも私たち自身のなかに認めることが出来ます。
アダムとイブは、ふたつに分離したのち、地上にやってきました。善悪の実を食べたからです。
これは、アダムとイブが分離した原因を善悪で理解したためのようでした。
そうすることで、地上に生まれてくる——という構造が生まれます。
つまりですが、アダムとイブは『人間が楽園から地上にやってくる理由』を意味しているようです。
楽園の存在が地上にやってくる原理
神のいいつけを守らなかったことにより、楽園を追放された——と表現されているのが聖書のお話です。
しかし、神が裁きを下したというよりも、神の世界にいる存在が『善悪を理解した』とき、地上にやってくるというのが正解の用です。
善悪の概念を理解することは、神の世界から地上にやってくる原因とはなりますが、善悪の概念が悪というわけではありません。もちろん、二元性を理解することが善というわけでもありません。
もともと私たちが楽園の世界にいるとき、善悪の概念を理解してしまう瞬間がどのようなシーンにおいても存在しています。
善悪の理解をすることは、私たちが「ひとつの理解度を上げた」という段階をも意味しています。
そして、それは『善悪の分離的な存在に自身がなること』でもあります。
アダムとイブと蛇の関係性
アダムである『楽園の存在(神の世界にいた存在)』は、なにかしらの感情の否定や自分自身のなかにある認めたくない感情を否定することで、イブである『自分の感情を満たすもの』と蛇である『自分の感情を否定するもの』の2種類に分離し、善悪二元論の思想を自身のなかに根付かせ、この世に生まれてきます。
この条件が満たされたとき、私たちは楽園から地上へやってきます。
この2つの原理によって、私たちは分離した原因である『感情』に対しての否定と肯定をします。
私の場合、は『さびしい』という感情ですが、イブはさびしい気持ちを満たしてくれるための道具、蛇はさびしい気持ちにさせている原因への復讐と、それから自分を見てほしいという欲求を抱きます。
この2つを見てみると、どちらも『さびしい』という感情には違いありません。
地上から楽園へ還るためには、
- 自分の持つ満たされない感情を誰かで道具にしていないか
- 自分の持つ感情による行動が悪意に満ちていないか
などを克復していく必要性があります。
いわば、善悪という概念は、楽園からすれば、どちらも悪だということでした。
ここで、イブは『善』であり、蛇は『悪』になりますが、イブを道具にしないこと、蛇の本心に気づくことがトリガーでした。
楽園から地上にやってくる条件『何かしらの根源的な自己否定』
楽園から地上にやってくる条件は、自身のなかに認められる何かしらの強い自己否定です。
この自己否定が『人間の輪廻のなかに入ったまま、でてこれない』ということに繋がっています。
自己否定の内容は、自身の精神構造の中にある大きな否定ですが、否定によって『分離していること』に意味があります。
しかし、自己否定の内容に気づくまでは『イブという道具を利用すること』によって、私たちは蛇にならない道を選択していきます。
蛇は自分のなかにある究極の自己否定により、神への恨みを持つ存在となります。いわば、神への復讐者ですね。
イブが善悪の実を食べた理由を「蛇のせいにした」ように、蛇は「誰かのせいにすることで感情から逃れようとする」きらいがあります。
イブは自己否定を『保存』し、蛇は自己否定を『否定』します。
保存とは、そのままを維持するということ。自分のなかにある大きな自己否定している感情を認識しないために必要な存在です。
否定とは、自分の自己否定を否定します。自分のなかにある自己否定を否定する為に、他者を必要とし、その存在のせいで——と復讐をします。(自分には問題がないと思い込みたい)
蛇である『人のせいをやめること』の重要性
蛇は、なにかしらの自分が自己分離している原因を他者になすりつけていく存在です。ですので、最終的には復讐にいたります。
蛇はイブを唆した件で神によって「一生、地を這いずる」ことが命じられていますが、蛇の問題は、
- 人を道具にする意識(イブを自分の道具として扱う)
- 自分の自己否定を他人が原因だと押し付ける
- 復讐精神
です。
この三つ(ほかにもあるのかもしれませんが)が、自身のなかに認められているとき、私たちは地上の輪廻から外れていくことができません。
楽園から地上にやってくる存在『みんな違う』
みんな、違います。
そもそも『人間』として生まれてくる人たちは、ほぼ全員大きな自己否定を抱えています。
その自己否定が何かは皆違います。ハイヤーセルフ(楽園にいたときの概念的存在)のなかにある『なにかの役割』を自己否定することで、私たちは、楽園から追放されます。
つまり、ハイヤーセルフは役割を持つ存在として発生してきますが、役割そのものを否定します。
神さまになるまでの経緯で、魂は
- 楽園に魂の発生
- 楽園で魂の分離(イブの分離)
- 楽園から地上にやってくる
- 地上で魂の統合をする(イブの統合)
- 楽園へ還る
という構造のなかで、魂の発生時点では、子供の魂も楽園へ還るときには自分の職務を全うする(自分の役割や存在を肯定する)ことができるようになっていくことで、楽園の存在として受け入れられることになります。
楽園からやってくる魂は『人間』と『神さま』で違う
ここで2種類の存在に分類できます。
- 元々人間になるために分離して発生した魂
- 楽園で過ごしている最中に分離して、地上にやってきた魂
に分けられます。
元々人間になるために分離して発生した魂は『そもそも最初から人間の分離体系』を模されます。
ゆえに、最初から人間の魂にされますので、強い自己否定を持って地上に縛り付けられている人たちってイメージでしょうか。
この自己否定を克復していくことで楽園に向かいますが、人間出身で楽園に行く人は数がめちゃくちゃ少ないみたいです。
楽園に過ごしている最中に分離して、地上にやってきた魂は、あんまり多くありません。
私も今のところ、三人ぐらいしか関わったことがありません。
楽園に過ごしている最中で、何かしらのアクシデントによってこっちの世界にやってきてしまったという魂の存在がいるにはいますね。でも、すごくレアなんじゃないかな? と思います。
私が知っている限りでは、
- 楽園で突然、自己分離してしまった件
- 楽園でのアクシデントによって地上に逃れてきた件
- 人が好き過ぎて、地上にきた件
とかで三人です。
前者のふたりは『楽園の世界での子供』でしたので、神さま修行の為に地にきていると考えられるかなと思います。
神さんの魂(楽園の魂)は、成長過程である種ひとつの通過点として地上に送られてきているのだと思います。
それが例えば「青年期に入りますから、地上にむかいましょう」とかのツアーならばいいんですが、たいていが、成長過程で『アクシデント』が起こり、地上に送られてくるケースが多いと思います。
自分の役割に溺れてしまう——と、いいますか。神さまには神さまの役割としての存在ですが、役割が分離してしまうケースが多いみたいです。
この件についてもう少し深く掘り下げて書いておきたいと思います。
楽園の存在(神さま)が地上に来る件について
前にもどこかに書いたような気がしますが、どこに書いたか全くもって忘れたので、書きしたためておきます。
楽園の存在とは『神として発生している』存在です。
いわゆる概念的な存在ですね。
私たちが信仰をすると、概念が発生します。その概念によって『神が発生する』ってことですね。
日本に神さんが多いのは、神の概念がめちゃくちゃ多いってことが理由にあげられます。神への信仰心がめちゃあつかった。だから、日本には神が多いです。(つっても、キリストさんなんて、信仰めっちゃ集めてるのもあってキリストさんのポスト神は複数人いると思います。)
だけれど、古今において信仰が減ってきているのもあって、神の発生は減っています。信仰心によって概念が成立し、神が樹立するのであれば、人が信仰しなければ神は力を得ないとも言えますね。
この神として発生した存在が、もしかしたら『成長過程の通過儀礼のひとつ』として、地上送りが存在している可能性がありますが、もうひとつの問題として『人間が持つ善悪二元論のエネルギーを信仰心と共に受け取っていること』が原因にあると思います。
たとえば、神への信仰心によって『神』が成立しているのであれば、その神は人により構築されている。
進行によって、人の心に繋がれる神の概念が『善悪』になったとしたならば、神であろうが、人のように善悪二元論に精神が分離してしまう可能性がある。
もともと大人の神さん(成熟した神)なのであれば、自分の精神のなかにある善悪を管理しきれるとは思いますが、子供の神さん(未熟な神)であれば、自分の善悪を管理しきれず、神として自己分離を勝手に起こしてしまい、アクシデントに巻き込まれたり、自ずと楽園にはいられない存在へとなってしまう可能性がありますね。(強制的に地上に送られる)
ゆえに、地上で『大人になる』ことが余儀なくされた神の魂などもいるかと思います。
ですが、もともと大人の神さんがこっちの世界にきているケースもあります。自己分離させれば、地上に来れますので、自己分離させて生まれてくるかな、と。(用事があってきている神さんもしばしばいる)
私がなぜ地上にいるのか——ですが。
私は楽園の世界を視たりとか夢見でしていますが、神の世に住んでいたことはありません。
ですので、元々が『人間の魂として生まれた』んですが、親がタカミムスビ(ユダヤでいえばヤハウェだと思われる)です。神として発生して自己分離させられて地上にきているのが私です。
竜宮城の記憶があるから竜宮城にいたかも。あそこは分離している魂でもいられる場所だと思われる。階層がある。(神さんの領域に私の分離している魂で入ると魂が消滅する。)
だから、神生まれの人間です。神から生まれた神人間が『なとり』です。アダムっぽいよね。生まれた瞬間にイブを分離させていて、それが彼くん。彼くんは、そのまま地上に生まれた子。私は竜宮城にいたっぽい。
彼くんを内包したら、神の世(楽園)に入れる感じ。
神やったことないんですけど、魂そのものは第二次の戦後、玉音放送により生まれたのが私です。
そういえば、玉依ですけれど、、玉音とは天皇の声って意味です。声だけは奇麗な声しているって言われます。音痴ですが、私の声は歌うためにあるのではないのだなと思いました。
私は『天皇の声の音を聞いた人々の心』により生まれました。
人が持つ天皇への心が玉依。神を想う心そのものが玉依。巫女さんだもんね、玉依は。神が寄り付く魂って意味がある。
神に愛されていると思っていましたが、今は神を愛している感覚があります。
神を愛している。これが『玉依』なのだと思います。神を受け入れる心です、だから神の衣になれる。
そういえば、玉音放送された日は8月15日らへんは私のディセンダントが太陽ですね。彼は17日が誕生日。
あの日、天皇が初めて国民に向けて声を届けました。これはひとつの絶望です。戦争に敗けたからの絶望でもなく、天皇が民に声を届けなければならないと思う事態そのものが絶望的感覚が私のなかにこみあげてきます。それはひとつの愛です。
絶望は愛です。『思い出す』とぐちゃぐちゃしますが、私にとって終戦を伝える放送は絶望であり、そして愛でした。神の言葉を多くの人が初めて耳にして受け入れました。
神は人である、と。
そして、日本の犠牲となってくれた天皇を愛している気持ちです。本来ならば、天皇は戦争裁判で死罪となります。ほとんどの人がこれを理解していたと思います。
玉音放送の終戦の放送は「これから自分は日本の責任を全てとり、死にます」と伝えているようなものだと思います。
この放送はひとつの分岐点でした。この一件がなかったら、人は天皇が人であることの真実味を持っていなかったと思います。
ものすごく国民に愛されていたのが、昭和天皇だったと思います。
私は神に愛され、神を愛している循環のなかに生まれた存在なのだなと思います。
日本に生まれるとは、このようなことだとも思います。
ツインレイの彼は「ようやく会えた私のちぎって生んだ魂」です。私の小さな陛下です、私の小さな神さまです。私です。
人の上に立つ孤独そのものです。人の為に死ぬ心です。私です。
繰り返しています、何度も、何度も。本質は同じです。何度も同じことを繰り返している。
これはひとつのサインです。誰かの為に犠牲になるのはもうおしまい。
あのときと同じです。神は人である。神は地上には生まれてきません。
だから、神さまのように優しい人を犠牲にしないでほしい。
私は彼の『さびしい』を愛して受け入れます。今まで、私の一部を抱えてくれてありがとう。アダムとイブの統合です。
ずっと鳴門の渦を見上げていたのは、さびしかったからなんだなと思った。
だから私は会いに来たんだと思います。