ツインレイによる自己分離者と自己喪失者の『ふたつでひとつ』という異常性について

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ツインレイステージまとめ

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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昨日、菅田将暉主演の「キャラクター」っていう映画を見た。

内容は投影だったかな。ストーリーをめちゃ簡略的に話せば、ひとりは自己分離者(善と悪の分離)、ひとりは自己喪失者(自分がない・アイデンティティがない)というふたりが出会い、自己分離者側の認識されていない悪の人格を、自己喪失者という自分が存在しない側が模す——という映画。

最終的には自己分離者が自己統合を果たし、自己喪失者は自分がいないことを認識して終わる。

投影と、自己分離、また自己統合までの経緯がめちゃわかりやすく模されててよき作品だったので、おぬぬめする。

『ふたりでひとつ』の意味が分かると思う。

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これがまた、私の自己統合の経緯にて行われてきたことでもある。たぶん、ツインレイの期間では自己統合をしなければならないとされているんだが、では自己統合とは何か——の教科書としては最高にいい映画だと思われる。

自己分離者は、自己喪失者に自分のもうひとつの側面を見つける。もうひとりの喪失者は認識されてない自己に自分のアイデンティティーを見つけ、最終的には自己分離者を乗っ取るようになる。

自己分離者は統合へと向かう経緯で自己の獲得に向かわなければならないし、自己喪失者は自己分離者を乗っ取らなければならない戦争が巻き起こる。

この自己分離者と自己喪失者の相性は最高に良くて、ふたりでひとつ——ということ。善と悪で、ふたりでひとつ。

ちょっとゾッとするよね。ツインレイは「ふたりでひとつ」だから。

 

ツインレイのことだけれど、私は『自己喪失者』であり、彼は『自己分離者』として出会った。だけれど、私は彼のなかにある悪の投影を為しきったわけではない。私は彼を攻撃したいわけではなかったから、私は彼のなかにある分離した存在にはなれなかった。

これがまず、私と彼が『ふたりでひとつ』という精神を成し遂げなかった理由。

その後、私は彼となった。いわゆる、ここで『反転』した。私は彼を乗っ取ったし、彼は私を乗っ取ったとも言える。ただしくは則った——だとは思うが。

彼は最後にアイデンティティを拡散させ、私になった可能性がある。彼はアイデンティティを確立しなおしたはずだ。

私は最後に自己分離を起こし、彼になった可能性がある。私は自己統合を確立させている。

 

つまり、ツインレイは、片方はアイデンティティの拡散。片方は自己分離——という問題がでてくるということ。

このカップリングは、途中で『自己喪失者をアイデンティティ確立へ』『自己分離を統合者へ』というカタチへ切り替えるトリガーがある。それが自己喪失者が自己分離者の悪を体現しないこと。

悪を体現し続けることでふたりが別れた場合、ツインレイのふたりは関係性を自己分離者は喪失者へ、喪失者は自己分離者へと切り替わることになる。

いわば、ふたりの精神構造は反転し、ふたりの関係性は前回とは真逆となる。真逆になると、実は「関係性が結ばれやすくなる」というロジックが生まれる。いわゆる、シーソー効果みたいなものだとも言いたいが。

 

ツインレイの統合がもし『ツインレイのふたりがそろった段階で統合した』のであれば、それはふたりでひとつ——ということ。自己分離者による分離による穴にスポッと喪失者がハマりこんだから統合されたとして認識される。

私がどうしてツインレイは結合する——としているのかだが。

ツインレイの片割れの自己分離者はツインレイの反転後、自己喪失者(アイデンティティの拡散)となり、アイデンティティを再構築することにより『個人』として成立することになる。

ツインレイの片割れの自己喪失者(アイデンティティの拡散)はツインレイの反転後、自己分離者となり、自己統合をシャドウを通して再構築することにより『個人』として成立することになる。

この経緯を経ることにより、ツインレイのふたりは『結合』となる。精神上、ふたつの意識がひとつになるのではなく、それぞれふたつの意識がかけることなく完全であるからこそ、統合ではなく結合することになるのである。

よって、ツインレイの統合というよりも、ツインレイ自身がサイレント期間中に「自己統合とは何か」「自己統合という完全性」の状態へなっていることは大事なのだと思われる。

 

また、この結合に向かうツインレイの多くは「いっしょにいたらダメになる」と言って、いっしょにいません。だって「ふたつでひとつ」とは「ひとりでは生きていけません、あなたがいなければ生きていけません、いっしょにいたら共倒れになります」って意味です。

ですので、ふたつでひとつを脱却し、ふたつでふたつになっていかなければならない。

この過程を経るためには「自分がひとりで完全化」することであり、アイデンティティの確立と自己統合の課題は明確に必要であると考えられる。

つまり、ツインレイたちは

  • アイデンティティの確立
  • 自己統合の確立

を明確に済ませており、ツインレイたちの出会いそのものは『自己喪失』と『自己分離』という極めて危険な精神状態による出会いを済ませていると考えられる。また、そのふたりは『本当の意味で愛しているのであれば——』という意味で、ふたりは結ばれないことを先ずは選ぶだろう。

なので、ツインレイって教祖と信者という構成をしていると、過去に何度か書いているけれど。

自己分離者が教祖となって、自己喪失者が信者となる。だけれど、自己喪失者は自己分離者を乗っ取って『自分が教祖になる』という反転を起こしている感じ。これがふたつでひとつという関係性でお互いをぐるぐるぐるぐるして関係性が『うえ』または『した』を続けていく。

この反転が『真逆』を模したとき。単純に、信者側が教祖側を御したときに、ツインレイの統合を感じるらしい。

いわば、真逆の結びつきをしただけの話ではあると思われる。

 

で、私はこの真逆の結びつきをせずに、お互いの対等性を主張しているのだと思われる。

やはり対等になれないとき、私たちは『いっしょにいてはいけない』と思う。だって、いっしょにいたら、相手をダメにしたり共倒れにしたりなどしてしまうがために——である。

そして、ツインレイの相手を大事に思っているからこそ、私たちは対等になれるように独立しようとしていく。

 

キャラクターって映画、一回見るとめちゃくちゃわかりやすい原理。ちょっとサスペンスだから怖いんだけれど、それはもう菅田将暉のイケメンでカバーできる範囲だと思う。

で、最後の謎の目線だけれど。自己喪失者は『信者』なんだけれどね。最後は反転させれば関係性は『教祖』になるって話。信者は教祖の為に働くねん。意志を引き継ぐ。

悪意は引き継がれるってことだな。

 

自己喪失者が本当に自分と言うアイデンティティがないのか——についてなんだが。

これが本質なんだと思う。

自己分離者と自己喪失者のふたりには『本質』がある。たとえば、キャラクターの話でのふたりの本質は『悪意の表現をすること』にある。善の表現はマンガで殺意を表現をすること。悪の表現はそのまま人殺しにになること。

どちらも同じことをしているのに、善悪の概念が『殺意の表現方法』を右にも左にもわけたということがキーポイント。

そして、それが『人間性』ってことでもある。

途中で自己分離者側が「相手が自分のなかにはいってきて、自分が相手の中に入っていった」っていう表現があるんだが、統合失調の症状例のひとつでもある。自他領域があいまいになってしまった。

だけれど、どんな理由があったとしても「人は殺しちゃいけないよね?」っていうのが現実だし、現代なんだよな。

それを理解しているのかどうか。人間であろうとし続けているのか。それが人間性だと思う。そして社会への適応性を意味する。

善は社会への適応を持ち、悪は社会への適応を持たないこと――と定義できる。

社会への適応を持たないとは「人と円滑な関係性を持てない人格」をも意味すると思われる。

 

もしかしたら、私のなかにも『悪意』のようなものがあるのかもしれない。

だけれど、悪を決して許してはならないと思っている。だから私は理論を立てる。私の悪意が誰かを傷つけないためにである。

人のなかには必ずそういった側面があるということ。そして、自己統合とは、自分のなかにある悪意を認めていくことでもある。認める行為は、少なからず他人を傷つけることではない。他人を痛めつけることでもない。

自己正当化のために悪意を利用してはならない。

自己正当化が必要なのは、自分が存在していないからである。悪意が悪意なのは、自分がどこにも見つからないからである。