ツインレイのアダムとイブの話に『蛇(闇の刺客)』は関係があるのか。私は失敗しましたって話。

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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結論から申し上げますと、アダムとイブの話に蛇は「自分は関係している」と言っているが、残念ながら、まるでアダムとイブの話に関係がなかったからこそ、蛇はしゃしゃり出てきては「自分は関係している」との主張をしていたように思いました。

さて、話を掘り下げていこうと思う。

アダムとイブの話を先ずはあげておく。

アダムとイブは神の言いつけをまもり、幸せに過ごしていました。

ところがある日、知恵を持っている蛇がイブへ囁きます。

「この善悪の実を食べてみたらいい、別に死にはしないし、目が覚めるよ。神のように善悪を知ることができるよ。」

と。

イブは蛇の言葉に惑わされ、善悪の実を食べました。

とても美味しい実だったので、イブはアダムにも食べてみたらいいと進めてみると、最後の最後にはアダムも善悪の実を食べることになりました。

そのとき、アダムとイブは『羞恥心』から『怒り』『悲しみ』という本来の姿を恥じたり、嫌悪したりするような無垢たる心とは反対側となる感情が芽生え始めました。

アダムとイブは神の言いつけをまもり、幸せに過ごしていました。

ところがある日、知恵を持っている蛇がイブへ囁きます。

「この善悪の実を食べてみたらいい、別に死にはしないし、目が覚めるよ。神のように善悪を知ることができるよ。」

と。

イブは蛇の言葉に惑わされ、善悪の実を食べました。

とても美味しい実だったので、イブはアダムにも食べてみたらいいと進めてみると、最後の最後にはアダムも善悪の実を食べることになりました。

そのとき、アダムとイブは『羞恥心』から『怒り』『悲しみ』という本来の姿を恥じたり、嫌悪したりするような無垢たる心とは反対側となる感情が芽生え始めました。

引用:アダムとイブの神話

一般的にはこのように書かれているケースが多いと思うのだが、実は「アダムが先に神にキレられた件」みたいなお話などもあるから、実はこれだけを重要視するのは違うのかなとも思っている。(つまり、イブもイブだがアダムもアダムなんだよ)

そして、私はツインレイは『楽園のツインレイ』として定義しており、『地上のツインレイ』としても定義された存在がいる。

アダムとイブは楽園のツインレイでした。の記事ではたぶん、その件に触れていると思われる。(読み返していないのでわからないが、タイトル的にそんな雰囲気を醸し出していると思われる。)

地上のツインレイとは、アダムとイブが『蛇』と関与している状態である。

「イブが善悪の実を食べて、アダムも善悪の実を食べた。」という状態が地上のツインレイである。

楽園のツインレイは、アダムとイブが『蛇』と関与していない状態である。

「イブが善悪の実を食べず、アダムも善悪の実を食べていない」という状態が楽園のツインレイである。

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闇の刺客という『蛇』とは何か

アダムとイブの間に割ってはいりたい人のことを意味している。

ツインレイのふたりに『自分は関係している』と言っている。ちなみにまるで関係がないのだが、自分が関係していると思いたい。

その理由は自意識が関係しているような気がした。

アダムとイブのふたりの関係性に自分が関係していなければ、自分の存在は認めてもらうことも出来ないからである。だからこそ、闇の刺客という存在になり、ツインレイに自分は関係していると言っている。

もし、ツインレイが光だとするのであれば、闇の刺客は真逆の闇である。

しかし、ツインレイたちが光り輝くのにあたり、闇が必要なのか? というと不必要である。

闇の刺客はツインレイには必要がないのである。しかし、ツインレイたちが「何が闇なのかがわからない」というところもあって、闇を除去していくことが出来ないと思われる。

ツインレイにとって闇は必要がない。だからこそ、闇の刺客である蛇は「自分はツインレイに関係している」としゃしゃりでてくるようになっている。

闇の刺客にとっては光が必要なのである。ツインレイという光が無ければ、自分の役割がなくなってしまう。

アダムとイブのふたりがいなければ、蛇の出番はやってこない。もし蛇がいなくても、アダムとイブのお話は先に進んでいく。だからこそ、アダムとイブに蛇はちょっかいをだしたのである。

ツインレイにとっての闇の刺客とは、眼中にない存在

ツインレイたちにとって闇の刺客とは『眼中にない』かなと思う。個人的には羽虫ぐらいの感覚かもしれない。

ただ、それが当初は怖いものである。蛇とは怖いものであり、嫌なものだと認識する。わざわざ人を殴りかかってくる人をみて「怖くない」という猛者はいないかと思われる。少なからず、嫌悪感しか湧かない。

それでも、実際、自分の話のなかに『闇の刺客が関係していたのか』っていうと、Noである。

私とツインレイの相手との関係性のなかに、闇の刺客が関係しているからこそ成立しているとは思ったことがない。ただ「何をしているんだろう・・・・・・・?」っていう疑問はものすごくあった。

個人的には「よくわからない人」である。何がしたいのかがわからないのと、多くを履き違えている人だと捉えている。

それこそ、関係がない部分に自分が関係があると主張してくる点、大きな履き違えが起きているのではないか——と思う。

眼中にないからこそ、蛇は「自分を見て」「自分は関係している」と主張してくる。

なぜならば、ツインレイのふたりに「自分は関係している」と主張することで『自分の存在』を生み出しているからである。※しかしまるで関係がない

図の説明:関係性の間に関係のない蛇が関係している

アダムとイブの関係性は、蛇がいなくても関係は成立するが「自分が関係している」と主張することで自分の存在アピールをしている。

神とアダムとイブの関係性は、蛇がいなくても関係は成立するが「自分が関係している」と主張することで自分の存在アピールをしている。

つまり、闇の刺客とは『関係性の間に挟まろうとしてくる人』を意味する。いや、全然関係なので、邪魔しないでもらえますか? ってなっている人。

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闇とは『愛』に気づくことができない

闇とは——。もとい、蛇とは『愛』に気づくことがないことである。

多くの愛があるのだが、与えられている愛に気づくことがない。

もともと蛇は「神の気を引きたかった」のであるならば、そこにある愛に気づかなかったからである。だからアダムとイブを堕落させることで神の怒りを買う。

しかし、蛇は本当に愛されていなかったのか——ということである。

ルシファーなどの堕天使は神への謀反を起こしたわけだが、蛇はこの悪魔として描かれている。

闇とは、神の愛に気づかないことである。

神の愛とは目に見えるものではない。常に目をつむっている状態である。

私のツインレイの彼が地上に落ちていってしまったとき、彼は目がひらかないまま落ちていってしまった——と書いたが、そっくりそのまま、彼は「愛に気づけない」のかもしれない。

闇とは目が開いていない心を意味しているのだと思われる。

ルシファーたちは神の気を引きたかったのだとして、では、神はルシファーを愛していなかったのか? というと、個人的に、認めているものを「認めている」と言葉にすることはない。

自分を見てほしい、自分を認めてほしいと言われても、認めているものをわざわざ「認めている」と言葉にすることはない。

 

沈黙の中にある愛がある。与えられている愛はすべてがそこにある。

それは言葉を持たなければ、何かしらの形をも持たない。

そんな愛に気づいていくことが出来ないのが『闇』であり『闇の刺客』だったような気がする。

次の世代の闇の刺客は『共存を希望』している

私は、個人的にね。

個人的に、闇の刺客とは友達になれるんじゃないかと思っていた。一番の理解者にお互いがなれたんだろうと思っていた。

それは本質的な部分でのお互いの経験は、そうたいして変わらないからである。私自身、彼女の気持ちがわからないでもないし、私自身の闇に彼女が一番に触れることが出来たんだと思う。

だけれど、それが叶わなかった理由は、彼女が一番に理解しているのではないかと思う。

これはケンカではない、もはや示談や民事訴訟にまで触れる状態にまでしてしまったのは彼女である。それは紛れもない事実であり、ここで再び仲直りが出来るだなんて思えるはずがないのである。

そして私も向き合うまでに時間がかかってしまった。その時間にどんどんと助長されていったものがある。

だからこそ、私は闇の刺客とは決別となる。これ以上に関与することは好ましくないと考えているし、それはしてはならないことだと思っている。

しかし、個人的に闇の刺客とは一番の理解者と言える存在になりえることをここに書いておきたいんだ。

私は彼女の闇に一番に近く、彼女は私の闇に一番に近い。一番の理解者になれたはずだ。

 

私のもうひとつの視点はここにある。

もし、私の決別による経験が、次の世代に影響するのであれば。

そのとき、私の闇の刺客による『闇とは決別する』をひっくり返し『闇とは共存できる』状態に修正することができるはずだろう。

そして、闇の刺客こそが『縁結び』というアダムとイブのふたりを結ぶきっかけにだってなることができる。だって関係性の板挟みになっているんだから。

同じように、神と人を結ぶことができる存在に闇の刺客がいたとしてもいい。

だからこそ、私は闇の刺客とは決別をする。この決断が次につなげられるからである。

次という未来に希望がもたらされるからである。

私は失敗した、でも誰かがきっと成功させることができるだろう。それは私じゃなくていい、誰が成し遂げてくれればいい。

全員が光の道を目指す道があってもいいと思っている。高め合うことが出来る関係性が光と闇でもいいと思う。

いつかは光も闇も混じり、混沌の世界へ戻りたい。これが皆の願いではないだろうか。

 

次世代には私の人生を全否定する人生を持ってきてほしいと思っている。私の人生を否定してほしいと思う。それ以外にも道があることを示してほしいと思う。

私たちが成し遂げることが出来なかったことを、次の世代には成し遂げてほしいと思う。それが私の願いである。

私は私の人生を否定されるのを心待ちにしているよ。

私は失敗者です。次に成功が出来ることを祈っている。そのために、私は全力で失敗の道を進みます。

再びこの道を進む人がいなくなるために、私はこの道を明かすから。そして記録に残す。

同じような悲劇を起こさないためにである。

明かされていない道を誰かが探してほしい。その道が私たちの『天』へと導ききるまで、何度だって失敗しよう。

 

皆同じ、帰りたい気持ちは変わらない。