私はすべてを許したかった、そして愛したかった。私は母ではなかった副人格を人格統合する。
私は母に苦しめられてきた。そんな母を許したかった。
私はすべてを許したかった。私を苦しめた根源さえをも許したかった。
すべてを愛したかった。
私は多くの失敗をしてきた。
その失敗さえも愛おしいと思う瞬間がやってくる。
私はその失敗を思い浮かべながら「私は私を許します」と言葉にする。
何度か繰り返せば、私の言葉は「私は私を愛しています」へと切り替わっている。
許すことは愛へと繋がっている。
それは失敗がそこにあるから、私は誰かを愛することができる。
私は失敗を愛している人なんだと思う。
失敗からしか人は学べないから。
その失敗は誰かを苦しめてしまった経験かもしれない。
その失敗は、どこかで恥をかいた経験かもしれないし、それは人それぞれ違うと思うけれど。
でも、誰かを苦しめた経験も、どこかで恥をかいた経験も、すべて丸ごとひっくるめて、私は愛したいと思っている。
私という存在は大失敗により生まれた存在である。
私は失敗作である。社会の何の役にも立たない。
だからこそ、私と言う失敗の存在を自己愛で許すことで愛が生まれる。
もし、どこかに大失敗により生まれた存在がいたとしたならば、それは私が他者愛で許すことができる。
私は自分の存在を許して愛している分だけ、誰かの存在を許して愛していく。
それがもし、私を苦しめる人でも、
それがもし、私の人生をぶち壊した存在だったとしても、
私は、その存在を愛する。きっと愛そうと苦悩する。
私は許したかったし、私は愛したかった。
それが私にとって苦しみを与える存在だったとしても、私は許し、愛したかった。
その愛の在り方を『無条件の愛』と呼んでいる。
ただ受け入れたかった。
そこに母の葛藤があったことを。母の苦悩があったことを受け入れたかった。
苦しんでいたのは私だけじゃないことを知っている。
私の苦しみは母の苦しみであることを理解しているからこそ、私は母を許したかった。
解放してあげたかった。
何度も繰り返されている母子の継承を断ちたかった。
子供に同じ苦しみを与えたいとは思わなかった。
私は自分を正当化することは出来なかった。同じだけ親を、家族を正当化することは出来なかった。
*
私は子を持たない母でした。
自分の子供はいないけれど、いない子を想いました。
そのとき、私は子供を生んだらいけないと思いました。
自分と同じ苦しみを与えたいとは思わなかったから。
その優しさがもし叶うことがあったのならば、きっと今となりましょう。
私は自分の子供に同じ苦しみを与えることなく育てることが出来ます。
私は子を持たない人でしたが、私はずっと『母』だったように思います。
子を思う心は親にしかありません。
私はずっと母でした。私は子をずっと愛していました。
それは母でした。子供のいない母でした。
私はずっと『この世に存在しない子』を大事に想っていたのです。愛していたのです。
私は妄想を繰り広げていたのだと思います。
悲しいかな、この世に存在しない子を想い続けてきました。
いないからこそよかったのです。私はそうやって子を守ってきた『母』という副人格です。
ですが、腕のなかには何もありません。それが現実です。
それでも、私は何かを守ったような気がします。
妄想だったり、空想だったりしたとしても、私は誰かを守ったような気がします。
そこには誰もいないのにね。
私を何を守り、何を愛してきたのでしょうか。
私は何も守っておらず、何も愛していません。それが現実です。
私は母ではありません。まだ誰も生んでおりません。
私はまだ結婚すらしておりません。
私は母ではありませんが、これから母になれます。
私は苦しみを子に与える母ではなく、無条件の愛を与える母になります。
私が自己統合する母とは『無条件の愛を持つ母』です。
ありがとう(^▽^)/