自己統合の結論|自己統合の意味を、ホントのところで理解した瞬間、私は私を愛していた。

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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『自己』統合なのだな、と。

私たちのなかには、自我と自己がある。自我は、自分の本体的な部分で、自己とは他者に転写されて使われている元型みたいなものである。

図の説明:恋と愛の違い

引用:ツインレイがアニマ&アニムスによる構造を理解する箇所について

この『自己』を自我へ統合せよってことだったんだなと、ようやく理解した。

それを意味するところは、依存すること、されること、投影すること、されることをストップさせること。

これらがすべて終わると『自立』を迎えることになる。

つまり、自我を自己に統合すると自立するのだ。これが精神的自立を意味する。

 

先ほど、私はずっと「私は私を愛しています」と言う言葉を第二チャクラと後頭部にレイキを当てながら過ごしていた。

なんとなく、そうしたかったからである。

すると、私の第二チャクラには、いくつかの糸が繋がっていた。前々から徐々に第二チャクラに繋げられていた依存されていた(投影されていた)部分を断ち切り続けてきた。

ひとつは姉。姉が姉自身を嫌う意識を私に投影し、私が姉を嫌うように仕向けられること。これを断ち切った翌日、姉はぎっくり腰になっていたらしい。(腰も第二チャクラである)

ひとつは母。母との分離を迎えました。

そのあと、ようやく『母との分離』が出来ました。

引用:レイキの好転反応、腹痛と下痢が起きる(^q^)

その直後に、母がトイレに駆け込みました。真夜中だったんですが膀胱炎になったそうな。(膀胱も第二チャクラ)

つまり、姉と母は私にエネルギーコードで繋げてきていたんでしょうね・・・・・・。それを断ち切ると、私に付け込んでいた部分が自分のほうに戻ってしまうのだと思う。

ちなみに私は翌日に腹痛になって、一回下して終わりました。姉のときは何も起きなかったかな。

そう。私は第二チャクラを整えていたんだが、相手から投影されるものを断ち切っていた。

 

本日は「私は私を愛しています」と唱え続け、ふと「すべてを水に流します」と流そうとすれば、知り合いがふたり頭のなかに浮かびました。このふたりもまた、私が投影をしているのだと思いました。

最初はコードを切ってさよならをしていきましたが、違いました。

すべきことは統合でした。

私がそうやって分離させて生み出した自己を自分に一体化させていくことが必要でした。

私は知り合いたちを自分に統合していく過程を経ていくとき、多くの分離した自己が存在している事にも気づきます。

 

すべては『他者に投影している自分を自分に引き戻し、統合すること』が必要で、これが自己統合なんですな。

つまりは、第二チャクラの課題が自己統合であり、この自己統合が果たされたとき、私たちのなかに『他者(自己)』が存在しなくなる。

これが『自己統合』なのだと理解した。

自己統合とは、自己という自分から派生して生まれた投影先を自我に統合していく過程なのである。

 

私たちのなかには色々な分離人格が存在していて、自己が分離している限り、私たちは投影することから逃れることができない。

だから、ツインレイ——。それがもし、心理学で捉えることができるのだとしたならば、それは私たちのなかに存在する異性性であるアニマとアニムスの投影を他者に行ってしまっているものを引き戻し、自我に一体化させる必要性があるということ。

これもまたひとつの自己統合なのである。異性性を統合するということ——。

簡素にやり方を書いておくが、自分のなかに『誰か』が忘れられずに存在しているのであれば、それが『自己』である。これを異性である相手が忘れられないってことになると、自己分離が起きてしまっており、ツインレイの相手が自らの中に自己として存在しているということ。

このとき、ツインレイの相手には投影を行っている。その投影を引き戻す作業が必要である。

ツインレイのことを好きだった気持ち、ツインレイのことに腹立たしかったこと。すべての感情をひっくるめてみてみると、相手は常に自分の姿をしているではないか——ってことに気づいていく。

よく他者へのバッシングは自分へのバッシングというが、つまりはツインレイを落とすことは自分自身を落とすことに繋がっているとも言えるし。いわば、これは『自己』だからである。

自分自身のなかに存在している自己が分離しているので、その自己をバッシングすることは自らをバッシングしているも同然である——ってことである。

ので、その対象とは自らのことであると自覚する必要性があり、その自覚が始まれば、徐々に記憶から『自分のことか』と思い始めていけば、自己統合が進んでいく。

 

ツインレイで行われていることは、自分自身のなかに存在している自我から自己(ツインレイの相手)を分離させる。その後、その分離を再び自らである自我に統合させる経緯を『自己統合』と呼んでいるのだ。

この自己統合の敬意を経ることで、私たちは一度は魂の錬金術(というか、心を練り上げる作業)を行ったともいえる。

そして、この作業を経ることは、私たちの精神が少しは純度が上がったってことにも繋がっている。というか、経験値があがったってところだろうか。自らの中に存在している異性性を受け入れる作業を行っているとも言える。

この自己統合を経ることは、私たちの精神のなかに入り込んでいる濁った純度の悪いエネルギーを吐き出す作業を行っている。

 

自己統合——。

これ、最終的に終わりないじゃないの・・・・・・って言っている理由なんだが、この『自己分離』は、今回、私たちが異性に出会うことで自己分離を起こしてしまったことによって生じるように、新しい出会いによっても自己分離を起こすことが度々生じることになる。

ので、自己統合が完全に出来上がるってことは在りえない。

私たちは日々分離しているし、日々統合している。でも、統合する方法を私は今回身に着けたような感じ。

なとり、錬金術師になった。そんな気分。

 

さて、自己統合がこのように『自己を自我に統合させて一体化させること』を意味するのであれば、この自己統合による現象は、他者投影をしなくなり、依存がなくなるということだ。

そして、自分自身のなかにい続けている他者が存在しなくなる。ふと思い出す誰かがいなくなり、ふと嫌なことを思い出したりなんかもないし、ツインレイのことを想い耽るようなこともなくなる。

ツインレイの相手を自己として分離させ、統合させる経緯で、分離している状態では頭の中を離れないんだが、自己統合させると、自分のことだからツインレイの相手のことを思い出すのではなく、自分のことしか考えていない状態になる。

この自己統合がすべて完了すると、自分のなかに他者が存在していないから、自分のやりたいことに集中し、自分の好きなことだけやっていたりなど、誰かに翻弄されることがなくなる。

ツインレイの相手がいなくても全然平気☆って状態になる。

つまり、ツインレイの相手がここに居なくても平気だし、なんなら、家に帰ってくるまで存在を忘れていたレベルにまでなれる。自己統合において、一度、相手を投影させ、自己統合させてしまうことで、再び分離することはない。のだが、新しい側面などを見つけてしまい、自分自身を投影を起こすようなことがあれば、再び、投影の引き戻しを行い、自己統合をさせることが必要になる。

でも、こんだけ自己統合しまくってんだから、もうモメたり、ケンカしたりなんてしなくたって、投影の引き戻しのプロ! 自己統合のプロである錬金術師になれてるよね? ってことになる。

つまりなんだが、ツインレイの再会後に『なにかモメる』ってことは、それ、自己統合が終わっていないってことになる。

 

さて、ここから自己統合がようやく理解され、何が言いたいのかも、いや、さすがにこのベクトルで理解できたならば、さすがにもうひとつ上段階での自己統合の意味を提示せよってことはないと思うんだ。(何度も、自己統合について定義し続けているなとり・・・・・・涙ぐましい努力もこれで終了だろう)

この結果、次に『統合』だってなってくるけれどね。

これ、私が思っている事なんだけれど、自己統合されて、次に統合が来たとして。

そのとき、私たちは投影することなく、相手をまっすぐに見つめることができる。

私たちは、未だに異性をまっすぐに見ては、まっすぐに受け止めることが出来なかった未熟な人間だったはず。

私たちは、ツインレイの相手に『自分を投影する』ことしか出来なかった状態から、自分を投影することなく、相手をまっすぐに見つめることができるってこと。

つまり、相手が本当はどんな人だったのか——をようやく知れる状態になる。

 

もし、私が再会するようなことがあるのであれば、私は、相手がどのような人なのかを投影をせずに知ることができること。

それが統合であってほしいと思っている。

いわば、統合とは相手の気質を統合することであり、私たちは未だ俄然、自らの中に存在している自己を統合しているに過ぎない。

私は、このサイレント期間に自己分離をさせ、彼自身だと思っていたものは私のなかに存在している『彼に投影して生み出した自己(アニムス)』であり、彼ではないものを自己統合させた。

つまり、私のなかにある気質が爆発的に大活躍したのがこのサイレント期間であり、彼の気質ではないということが判明したということ。

 

自己統合とは、自分のなかに存在する彼に投影した分離人格を統合すること。

統合とは、自分のなかに存在すらしていない彼の気質を、自らの中に統合すること。

それは、彼を投影せずに知ることが出来なければならない。自己統合のうえに統合が存在しているということ。

 

統合とは、人生をかけて行っていくことなんじゃないだろうか。

それは新しい発見と、未知との遭遇。

それは言葉を使い、また、心が触れ合うことでしか知ることができない。

父性とは「それは間違えているよ」と教えてくれることにあると思う。これが父性が与えてくれる条件付きの愛。

社会で生きていくための手段を教えてくれる。

私たちは既に父性を身に着けている。人に条件付きの愛を与えることまで出来るようになっている。

私たちは、無条件の愛を与え「メロメロに愛される」わけでもないし、条件付きの愛を与え「間違いを指摘する」わけでもない。

私たちは愛されたいわけではない。ツインレイの相手に親を演じてほしいわけじゃない。夫婦になりたい。

だからこそ、私たちは自分で自分を愛せねばならないし、自分の間違いには自分で気づいていかなければならない。

人に愛されたい、人に教えてもらいたいっていう甘えは、捨てていかなければならない。

それが大人っていう存在だから。

 

大人に許されているもの。それは自由であり、結婚である。

それは愛を与える人になれたからこそ、与えられている権利である。

無条件の愛も、条件付きの愛も、我が子にそそぐものであり、夫に与えるものではない。

私は夫になる人を知りたいし、知ってもらいたい。

知り合うなかで喜びを感じたい。

自分を与え、また相手を与えられたい。そうやって、新しく知る未知なる相手を吸収していくのが統合だと思う。

だから、私はツインレイの統合とは『夫婦の姿そのもの』として定義したい。

これは私の希求だから、本当の答えじゃなくていい。

みんな、違う答えがあっていいと思う。これは私の望み。

 

そうであってほしい。いいや、そうありたい。