ツインレイの世界線の切り替えから見る『自己統合→浄化→統合』の話。
人は想像する範囲のことでしか世界線を引くことはできない。
また、世界線とは常に私たちが決定し続けているなかで未来が導かれている。
私たちは常に世界線を設定し続けているし、また、もうひとつの側面では私たちの世界線は常に決まっているとも言える。
私たちが自由意思を尊重しているとき、私たちは自分で世界線を設定しているように感じられるが、私たちが常に次元的な解釈をすれば、私たちの決定は常に宇宙の采配による決定である——という考え方もある。
これは視点の違いでしかなく、私たちの主観的な視点なのか、上昇した次元的な視点なのか——の違いでしかない。
宇宙の采配による決定が私たちの自由意思を損なっていると感じられているとき、私たちは私たち自身の人生を生きることに苦痛が感じられている。
すべては私たち自身が宇宙と繋がり、宇宙の采配と自己決定権が同一であると感じられているときにのみ、私たちは世界線を自由に謳歌することが出来ている。
世界線を切り替えていくことについて書いておきたく思う。
私たちは出会いと別れに関する期間で、同一の世界線を目指している。
それまでは、別々の世界線を目指し、互いに世界線が全く真逆のものであったりもする。ゆえに、ツインレイたちは離別というサイレント期間が設けられているのである。
出会いとは双方からやってくる世界線の衝突にあり、その衝突により恋に落ちるわけである。
が、お互いの世界線がまるで違う方向性へ向かっているのも確かである。
私たちは自分の世界線を追いかけ続けていれば、追いかけ続けているだけ、違った世界へと進むことになっている。
これでは私たちは結婚ができない。
では、従来の人たち(今まで結婚してきた男女)は、どのように結婚をしてきたのか。
それは男性、または女性のどちらかへ世界線を合わせ、片方が自分の世界線を諦めることで夫婦でひとつの世界線を追いかけることにより、夫婦が成立してきた。
優遇されてきたのが男性であり、女性は自分の世界線を諦めることになる。
いわば、私たちの世界線はふたつのうち、ひとつしか叶えられない——という考え方となる。
これが優劣思想にあり、男性が優位となり、世界線を生きることになるが、潜在意識的には女性に世界線を諦めさせたことにより、女性への劣等感が付きまとうことになる。
女性は自分の世界線を諦めたことにより男性への怒りが込み上げてくるようにもなる。これがカカァ天下の構造ということ。
女性への劣等感を持つ男性の妻は、男性を見下す心理によって怒りを鎮圧させている。これにてうまく回る——ということ。
新しい時代がやってくるというが、それは何か——というと、男性も女性も、どちらも自分の世界線を諦めることなく、自分の世界線を生きながらも「夫婦」がやっていける関係性を構築できるようになると言うこと。
これまた、私たちの精神構造に他ならず、精神構造のなかで『男女の優劣思想』という考え方が『男女の共存思想』へと組み替えられることで私たちは夫婦共々、自分の世界線を諦めずともやっていける世界線を新しく導き出すことが出来るようになる。
私が言いたいのは「ツインレイとはまさにこれのことではないか」ということ。
ツインレイ以前の話にはワンレイがある。ワンレイとして、ひとつの魂としての独立性が成立した後、ツインレイとしてふたつの魂が独立しているからこそ共存している——という世界線をツインレイは生み出していくシステムのひとつ。
男性と女性がどちらかに合わせて世界線を生きるのではなく、男女共々諦めなくても、自分の世界線を生きることができる『在る種もうひとつの世界線』を互いに導き出しては、その世界線で合流していく様である。
私たちは優劣思想のなかで二つ目までの世界線しか選択することができない。
- あなた
- わたし
このどちらかである。しかし、ツインレイたちは「あなたもわたしも選択される」という世界線を導き出したい。
そのためには先ずは『優劣思想の世界観』をすべて破壊することでもあり、同様に優劣思想を全受容することでもある。
ツインレイたちは、相手の世界線を丸ごと呑み込むことで、ふたつの世界線をひとつにしようとしているのである。
ゆえに、ツインレイたちは「ツインレイの相手を模す」必要性もあるし、自らの中に「ツインレイの相手を宿し、自らとする」必要性もある。
ツインレイ自身のなかに『ふたつの分離した世界線』を構築していくことは、自らの統合された人格へとなりあがったとき、私たちはふたつの分離した世界線を統合しているとも言える。
ツインレイにはサイレント期間と言う分離期間が存在し、その後、統合されると言う話でもあるが、世界線の視点からしても、分離している期間は自らの中にツインレイを内包したがゆえにふたつの分岐した世界線を持ち、また、統合時期においてふたつの世界線を結合し、また統合させていると言える。
私たちが私たちのなかに「誰かが棲み続けている」という感覚は、サイレント期間の分離的感覚であり、分離しているものを統合させていくことでふたつの世界線をひとつに統合させていくということ。
ひとつに統合された世界線の感覚が『自己統合』でもあるのは、私たちのなかにあるふたつの世界線は既に私たちのなかにあなたが組み上げられているからである。
また、この場合、ツインレイのふたつの世界線が、それぞれのなかに内包されることは、四つの世界線が成立するとも言える。
私たちのなかでツインレイの相手を内包し、自分のなかでツインレイの相手と自分の世界線を統合することが『自己統合』であり、また、自己統合をした同士が出会い、結びつくことは『ツインレイの統合』としても語れると思うが、そのとき、ツインレイの統合では四本の世界線を統合された状態とも言える。
これは、ツインレイが自己統合の段階で『男性の世界線』または『女性の世界線』のどちらかしか選べないのが、ツインレイが持つ優劣思想にあり、共存思想では『どちらもの性別による世界線』を引くために、常に自分が自己犠牲をするような姿勢がみせられるものだと思う。
つまり、相手の世界線に100%乗っかるだけの自分の人生を放棄することでもあり、相手の世界線を100%乗っ取り、相手の人生を丸ごとすべて責任をとることでもある。が、大抵は「責任をとりたくない」わけで「自分の人生を捨てたくない」わけである。(他人の人生のすべての責任をとるとは、相手がしでかした失敗のすべての罪を自分が背負うことで、自分の人生のすべての責任を放棄するとは、相手のせいで自分の人生がどん底100憶の借金生活になっても文句はないということ。)
共存とは『異性の責任をすべて引き受けるか』『自分の人生を全て捨てるか』の先にあり、その思考ゆえに、自分自身のなかに男女の共存的な視点が生まれるのである。また、この思考はどちらも同じことを意味している。
相手の100憶の借金生活になっても文句はないことは、相手の人生のすべての責任をとることである。
男女の視点の違いだが、どちらも共通的に愛があるって話だな。
異性のすべての責任をとるとき、自己のなかに『異性が宿る』わけであり、自分の人生をすべて捨てるとき、自己のなかに『自分が捨てられる』わけである。
どちらもが通じる時、自分が捨てられ異性が宿る——ということ。(また、真逆では異性が捨てられ自分が宿るということ。)
このとき、相手の世界線が宿り、相手の世界線のなかに自分の世界線を取り戻していくときに自己統合をしていくのである。
いわば、自己統合は『男女の世界線の統合』ということであり、異性性を体現しているのがツインレイの相手——である。
そして、異性性を自己統合しきることは、私たちがワンレイとして成立することであり、ワンレイとしての私たちは両性具有性でもあり、両性具有性とは異性性との共存が自己のなかに成立しているということ。
ここにどちらの性別の方が優位であり、劣位である——という優劣思想ではなく、どちらにも固有の素養があり、比べるのではなく、それぞれが持つ視点を共存させていくことができるようになる。
世界線を切り替えていくとは、自己統合のことであり、自己統合していくと共に、私たちは「新しい世界線」を認識するようになる。(この話がしたかった)
世界線を切り替えていく段階で、徐々に自己統合されていく。
世界線が切り替わるとは、自己統合されているということ。
赤い線の段階を自己統合としているが、単純に『男女の共存体になる』ってだけの話でもある。
双方真逆の方向性へと向かっている男女の分離的なものを統合していくのに、徐々に結合していくことにより、世界線があたらしくなっていくのである。
分離は異性性の内包により、自己分離を男性性と女性性によりおこす。
サイレント期間では、男性性と女性性の自己統合を果たしていき、ワンレイとして両性具有性を果たす。両性具有性が成立すれば、その段階で『自己統合』が完結する。このとき『統合』の世界線へ乗っかることになる。(というか、並行することになる。並行するとイコールとみなされ、視点が切り替わる。)
並行している世界線を浄化していくことで、両性具有性による統合の世界線に乗っかることになる。いわばこれが『ツインレイの再会』ってことにもなる。
ツインレイの男女の意識を自己統合したからといって、私たちの中にある異性に対してのトラウマがすべて解消されているとは限らないし、なんなら、男女の今までの優劣思想のわだかまりがとけるのとはわけが違う。
というか、異性交遊や、異性性の親から受けた優劣におけるわだかまりは、この『浄化』の段階でろ過していかなければ、統合の段階には向かわない。
ツインレイの相手との関係性で、2点の問題があると言うことだ。
- 自分の中にある男女が優劣思想になっている(自己統合、レイキでやっていった)
- 優劣思想により異性から受けた傷がたんまりある(浄化、フラワーエッセンス『エロス』をつかって私は対応している)
自己統合しても、心に傷が合ったら、その傷が相手を拒絶してしまうから、傷も癒さないとツインレイの相手と再会しても、再び嫌悪で苛まれるだけだと思う。
以下、理論が楽しくなってきたなとり。
3D図を書こうと思ったんだが、書けんかったので3Dを2Dに起こした図となった。
X(横)が時間軸
Y(縦)が男女における傷
Z(奥行)が男女の分離軸となっている。
時間において、出会い——ツインレイの統合が一線上に存在しているが、何かしらの問題が生じたために、その問題が湾曲させ、統合=出会いとならなかった。
その問題とは何か——というと『男女の優劣思想』『優劣思想により受けた傷』となっている。
y軸の単位とz軸の単位を消失させれば、x軸の一線上に戻る——ということ。
<Y(縦)が男女における傷>
y=2のとき、傷がある。
y=0のとき、傷がない。
<Z(奥行)が男女の分離軸>
z=2のとき、優劣思想がある。
z=0のとき、共存思想がある。
このように定義する。
自己統合はy=0,z=0となる。
そうすると、x=出会い=自己統合=統合ってことになる。
- 3D=時間・優劣思想・傷により生じている視点である。(出会い)
- 2D=時間・傷により生じている視点である。(自己統合)
- 1D=時間により生じている視点である。(統合)
- 無=時間の消失的な概念
ということになる。
じゃあ、3D的な視点とは、どのように獲得されるのか——っていうと、優劣思想があり、心の傷を持っている人は『時間の概念を獲得する』ということになる。
なんなら、優劣思想を優劣として認識し、心の傷を心の傷として認識しているとき、時間の概念を認識する。そうすると3D的な視点を獲得することができる。
つまりなんだが、人は『自分の人生のなかに複雑化されているものがある』わけなんだが、それを認識しているとき、視点が膨大化していく。
優劣思想があるのに「ない」と思っていれば、認識されない。認識されないのであれば視点の上昇はない。
自分に「あるもの」が概念的に構築されていくと、その概念に沿って視点の上昇点が増える。
私の場合は、この4Dまでがせいぜいってところ。
x=0,y=0,z=0のとき、無であるってところにまでしか、私は概念的に認識をしていない。
ツインレイたちは、y=0と、z=0を導き出せれば再会は可能だと思われる。
それは、心の傷の浄化と、優劣思想による概念を共存思想に組み替える。
ただ、それぞれ、何を0として定義するのかは別の話であって、心の傷があることが0、優劣思想が0であるならば、その人たちは、心の傷と優劣思想を持って再会することになる。(私の場合は地上の人になる)
もしかしたら、心の傷=0,共存思想=1の人もいるかもしれない。
「あるものがない」のか「あるものがある」のかの個体による認知度と次元的な解釈の度合いは比例するものとする。
つまりなんだが、それぞれ、1をあるものがないとして定義して再会するとする。(解消されない為)
あるものがあるとき、0となる。(解消される為)
a=x+y+zが3の単位になるとき、再会が早い。2となるとき、再会は普通。1となるとき、再会は遅い。0となるとき、くっそ遅い。
となる。0に近い数字であればあるだけやることが多い。
0に近ければ近いだけ、自己認知度が高いために次元的な解釈も強くなる——とする。(自分のなかが複雑だから複雑的な解釈をこなすことができる)
1.黒い線の型のツインレイ(中距離型・地上のツインレイ)
出会い——サイレント中に浄化を自己統合とする——統合(優劣が決まり統合したと感じる)
こちらは出会いがあって、サイレント中に『自己浄化』というカタチで自分の心の傷を癒す必要性があると思った方々。優劣思想が残る。2D的理解のみゆえに『優劣』という上下関係によるツインレイとなる。(異性を見下す)
2.ピンクの線の型のツインレイ(中距離型・地上のツインレイ)
出会い——サイレント中に概念変更を自己統合とする——統合(比較が決まり統合したと感じる)
こちらは出会いがあって、サイレント期間中に『優劣思想を共存思想にする』というカタチで自分の考え方に問題があって、その問題を立て直す必要性があると思った方々。心の傷が残る。2D的理解の為に『比較』というふたつの存在を比較することに惑わされるツインレイとなる。(同性と比較する)
3.水色の線の型のツインレイ(直近型・ツインソウル型)
出会い——統合(出会ったときから統合していると感じる)
自分にはなにも問題がないと思った方々。出会いと統合の段階で特に何か人として変わった部分があるわけでもないので、同じ状態で再会をすることになる。心の傷と優劣思想が残る。優劣と善悪によるツインレイとなり、1D的解釈(異性を見下し悪者に仕立て上げる)自分が最高至上主義者に他ならない。好き嫌いの解釈になるかなと思う。自分には問題がないから他者に問題があるとしか認識されない。
こんな感じかな。図からしても、2D(xy軸、xz軸)なのか、1D(x軸のみ)なのかの解釈の力量が変わっている。
ツインソウルによる関係性は1Dによる関係性ゆえに『心の傷と傲慢』がどのように成立するのか。(心の傷を背負い、傲慢となる必要性がある。では、心の傷とはいかに背負わされるのか——の話になる。)
こうしてくるとわかることがあって、
x=時間軸
y=優劣軸
x=比較軸
なのかなと感じている。優劣や比較という概念に惑わされて、時間の概念がさらわれてしまうと言うか、歪んでしまうのだなと思われる。
サイレント期間中に時間のゆがみを感じている人が多いと思うんだが、そのなかでも、時間のゆがみが最上級にくるのが『優劣と比較の両方を解消する』ツインレイたちは、時間の概念がおかしくなる。
3年と1年の違いがわからないというか。時間がおかしくなってしまう。
でも、2Dの概念の人たちは在る種、まだマシな時間の概念のゆがみレベルかもしれない。
1Dの概念の人たちは、優劣と比較の概念が解消されていかないし、認識されないから「ずっとそのまま」のような気がする。抜け出せないっていうか、時間が止まったままかもしれない。出会ったときのまま、時間が先に進まないっていう現象が起こりえる。
時間を進ませるためには『優劣思想を抜く』『比較してしまう自分の心の傷に向き合う』必要性が合って、とりま、その先に或る者は『自立』というワンレイなんだが、最終的には時間的概念を認識していく必要性がある。
ちなみに私はサイレント中は、時間がものすごくおかしかったかな。過去のことを過去のこととして片づけることがなかなか難しいと言うか。だから過去のことをなんとか処理する為に、前に進むために考え続けていたのもあるんだが・・・・・。
この世の絶対的ルールは『時間』にある。時間ってすごく重要なんだが、+となった数字になれば、時空がゆがむ。0という無になれば、時間が一切先に進まない。
つまり私たちは『1』であり続ける必要性がある。
x軸だけでいいんだけれど、y,zっていう+が追加されると時の流れが膨大化する。すごい長い時間を生きることになる。
x,y,xが消失されるとき、無になる。あっという間に時間が終わるとも言えるんだけれど、一切時間が進まないことになる。
私は無→yz(優劣比較軸)→x(時間軸)って感じで戻ってきているけれど、無の時期(何が問題なのかわかっていなかった時期)は『あっという間に過ぎたけれど、何も発展性がなかった』のであって、yz(優劣比較軸)の時期(何が問題なのかが明確にわかってきた時期)は『時間がものすごく流れているのに現実の時間はそれほどでもない』感覚があった。
無の感覚は1年たってもそのまま何も変わらないこと。相手とまだ付き合っている気分のままであること。(1年前に別れた相手に当時の文句を言うとか、当時のままの感覚を保有し続けていることのことを指す。付き合いが切れたのに、付き合いが切れたことを認められないでいる感覚。)
yzの感覚は過ぎた時間を認め、自分のなかにある問題に向き合い始めているとき、ものすごく長い時間を感じていること。
時間の感覚は、yzのなかにある課題を全てとり去ることにより『時間だけ』が残る。
時間だけが残っているとき、心の傷も優劣も比較も無くなっている。
このとき、私たちは知的生命体である苦しみを抜き去っている状態の人類となる。
つまり、人間って何か? っていうと「時間を生きている存在」とも定義できるね。
ただ生きている。それだけでいい。それこそが人間だからである。
ちょっと箇所の訂正が必要なんだが、もう書き直す気力がないのでここに書いておく。
y=男女の優劣、同性の優劣、x=同性の比較、男女の比較。
かもしれない。男女に優劣も比較もない。ただ共存すれば良し。
それができるのは「ただ生きる」ことができるようになったときなのかもしれないね。