ツインレイの最終試験の裏話——ツインレイの結合ってどうやんのか? の理論をぐだぐだ。
ツインレイの最終試験の話を書いた。たぶん、終わった。今度、江の島いってくらァ。
このツインレイの最終試験の裏話をしたいと思う。
実は、私と同じ試験問題が出された人がいて。その人が出した回答を昨日みたんだよね。
それが私と真逆の回答案だった——ということ。それが分かった。真逆の世界線を進んだ人がいたってこと。
真逆の世界線はやっぱり選民意識なのだなと理解。
ただ、個人的には「なるほど、統合失調症の誇大妄想か・・・・・・」と結論付けている。
「自分は世界を動かす力がある」「自分は特別に選ばれた人間である」と思い込む誇大妄想
私たち、首皮一枚で統合失調症に足突っ込んでて、それの治療していたってことにどこまでの人が理解しているんだろう?
個人的には、幻聴幻覚を打破してくるターンで、もはや「これは統合失調の症状だな」と自分に想い、そこから幻聴幻覚については否定し(否定で聞こえないし、視えなくなるんだよね)、抜け出していくためには『妄想(私は幻想と呼んでいた)』と『現実』のうち、幻想を幻想だ! と理解していくスパンを何度も何度も繰り返してきた。
すべてにおいて、とりあえず、あやふやなものを『幻想』として定義し、すべてにおいて『現実のみ』を手に取っていくことが大事なんだと思う。
それが統合失調症を治すためのコツだったのかもしれない。
だけれど、そのまま、現実性に戻れず・・・・。そのまま、誇大妄想のなかに閉じこもってしまったままの方もいらっしゃったのだなと理解。
たぶん『妄想性障害』なんだと思う。
統合失調症と妄想性障害ってかなり似ている。統合失調なのか、妄想性なのかは医者によって診断が違うっぽい。
んで、なとりは『妄想性障害』の領域に突入していたんだと思う。
最後に「なるほど、妄想とは当人にとっては現実なんだな・・・・・」ってことを理解した。
理解して、このありさま。なとりが妄想性を発揮して、すべてを現実として捉えていた場合、どのようになっていたのかのもうひとつのブロガーとしての世界線を見せてもらったような気分。
なるほど。なんか「なるほど、明日は我が身」と感じながら。
これを踏まえて、どのように妄想について考えているのか——なんだが。
ずーっと変わらない考え方があって「当人がそう言っているんだからそうなんだろう」っていう、疑心暗鬼があるにも関わらず、相手を信じるってことをずっとやってきたのがなとり。
当人にとってはそれが真実である。それならば、それがどんなに間違えていても、それは肯定するべきだと感じていた。
でも、なとりからしても「妄想だよな・・・」と明らかに感じるものに対して、そこまで許容が出来なかったんだよね。
実際「いや・・・それは・・・違うと思う・・・・・・」って思ってしまう。
妄想性に対して精神的に拒絶が生まれた途端、相手は敏感に察知してくる。
なとり。心底、相手を受け入れることが妄想性に対しては出来なかったんだ・・・・・・。
考えてみてほしい。
ガッチガチのIT系のプログラムをガチャガチャ書いて「はァ、今回のプログラムは奇麗にかけたかな・・・・・」とか思っている人が、ある日突然「天使が、悪魔が。」という話をされ始めたら、本当に驚くと思うんだよ。
「それは数学で証明が出来ますか!」って思ってしまうんだが、この場合は心理学だったんだよな。
それが私のなかでは起きていたんだ。
今まで、目に見えないものなどは一切見えていなかったし、師匠は宗教家さんで霊能者さん。みえている人だったけれど、あんまりそういう話はしない人だった。(見えているものは、先生の場合、未来だったかな)
ただ夏場にはオカルト話はよくしてくれて、肝がよーく冷えたもんではあるが。
でも、別に師匠のことを『信じていた』とか『信じていない』とかでもなかった。先生はそういう人っていう捉え方をしていたから、あんまり気にしていなかった。
なとりの特技「そういう人」として捉え切れたら、もう何も気にならない。
だけれど、スピリチュアルの領域に足を突っ込んで、妄想性について考えなければならず。なんなら自分が妄想性に憑りつかれ、抜け出すのに必死で気づかなかったんだが。
なるほど。客観的にはすごいヤバい人にしか見えない。
これだけは理解した。
そして、今、じゃあツインレイのことをどう思っているのか? なんだが。
私は、自分自身が妄想に憑りつかれていたかもしれないんだけれど、どうしてその妄想が必要だったのか——についてはしっかり考えてみる必要性があると思った。
妄想は確かに妄想なんだけれど、その妄想がすべて無駄ってわけじゃない。
その妄想自身にも、意味があって、私たちのなかに存在している副人格たちがサインをだしているんだよね。
それが「悪魔がいっぱいいる世界」とか「宇宙人がいる世界で、めちゃ怖い」とかもあるんだとは思う。
ぜんぶ、副人格さんたちがそれを見せてくれいて、その世界観は『副人格さんがいる世界』なんだよね。
その世界が自分のなかにある地獄なんだと思う。または天国なんだと思う。
そのふたつの世界は妄想かもしれないんだけれど、どっちにしたって彼らがいつの時代かわからないけれど、必要とした世界観なんだよね。
ツインレイのこともそう。同じように必要とした妄想の世界観なんだよね。
だから、私は思うのが「なんで、この妄想の世界観を必要としたのか」についてはちゃんと考えなければならないのではないかと思っている。
必要だから生まれた世界を、ただ否定してしまえば、それはそれでトラウマ人格たちが可哀想じゃないのって思っている。
でも、だからといって、それを盲目的に信じ、現実的に生きることを放棄してはならないんだよ。
両方の軸を持って生きていかなければならない。
ツインレイである自分。ツインレイではない自分。
副人格が「ツインレイである自分」を必要としている限りは、それに付き合ってあげるべきだと思うし、主人格が現実を生きる上で「ツインレイではない自分」をしっかりと大事にしてあげればいい。
この自分のなかで分離して仲たがいしている意識を「ひとつ」にまとめてあげるには、主人格であるツインレイではない自分が副人格であるツインレイな自分を認めてあげることなんじゃないかと思っている。
「あなたはツインレイじゃない」って言葉にするのは簡単だ。
でも、それ以上に「あなたはツインレイでいいんだよ」って許してあげることも大事なんじゃないかなって思った。
存在を許してあげる。ここにいてもいいと存在を与えてあげること。
そのとき、私たちのなかに存在している「ツインレイでありたいと思っている自分」という副人格が息吹をあげると思う。
それがどういう結果になるのかわからないんだけれど、統合された副人格がきっとあなたを「ツインレイ」に導いてくれるよ。
今、ツインレイという人格を持つ人たちが増えてきたってことでもあるんだと思う。
副人格として『ツインレイの人格』を作り始めている。
それが人間と言う精神の変容だと思う。
ツインレイの人格を生み出したからといって、それが『現実であり主人格』ではない事実を受け入れる時、私たちはやっぱり「自分はツインレイではないという現実」を受け入れなければならないんだけれど、その次には「ツインレイである副人格」を迎えに行ってあげてほしい。
否定せよ、次に肯定せよ。
ツインレイの最終試験の目的は「ツインレイの結合をしてもいいか」ということらしい。
私は、多くの闇の試験みたいなの受けていたんだけどね。別にこれ、私がブロガーだからやっているのであって、他の人までもやっているわけでもないと思っている。
私はこれからトラウマ治療や自己統合や人格統合についてなど、そういった精神領域におけることをやっていこうと思っている。だからこそ必要な経験だったと思っている。
でも、別に、トラウマ治療を施術しない人にとって私と同じように妄想性人格障害者とかを受容せよという課題は生じない。
だから、私は私の最終試験があったけれど、ツインレイにとっての最終試験の目的は「ツインレイの結合をしてもいいか」ってことなんでしょう。
だったら『否定せよ、次に肯定せよ』。この過程をちゃんと実行できることが最終試験だと、私は思う。
目的がほかにあれば、無償の愛だろうが何だろうがやらねばならんが、ツインレイの結合が目的ならば別に無償の愛や闇は関係ない。
私たちの主人格が先ずはツインレイである自分を否定する(副人格を分離させる)。
次に、副人格であるツインレイ人格を肯定する(副人格を結合させる)。
ね? ツインレイの結合が出来たでしょ☆
何かしら試験をしないといけないってわけじゃない。何かしらすごいことをやり遂げなければならないってわけじゃない。
これがツインレイとしての最低ラインとして出来れば、ツインレイの結合はできるんだよ。
最終試験、みんな頑張ってほしいと思うよ。
自分がツインレイではないと否定してみてほしい。否定しきるために、私が世明けのツインレイをやめたように、意識的に行動してみてほしい。
その後ふたたび、ふと「肯定できる瞬間」がやってくる。そのときまで否定して心を破壊して『副人格を千切る』んだよ。
痛いけどね、分離していないものは結合も出来ないから。
そうすると、副人格として「ツインレイの人格」が生まれる。
ツインレイの副人格に乗っ取られずに『ツインレイでいられる』ようになるよ。
ツインレイの副人格に乗っ取られてると自慢したくなったり、妄想に走っちゃったり、ツインレイであることを誰かに証明してもらったりしないとツインレイではいられなくなる。
他者を必要とするツインレイになってしまう。
これがちゃんとできた人から、ツインレイという運命論から卒業し、現実という世界でツインレイという精神世界を楽しめばいいと思う。
だけれど、慢心はいけんよ、慢心は。
でも、自分はツインレイではない——と主人格が否定しきるとき、私たちは必ず慢心を捨てている。
再会も自慢することはないと思うし、現実という世界から視えた自分というものを大事にして生きていけると思う。
これが『現実性を孕んでいるツインレイ』だと思っている。
で、この主人格である本人が「自分はツインレイではないという現実」を放棄してしまったとき、副人格であるツインレイに乗っ取られて『自分はツインレイなんだ』という暴走が始まる。
それが『妄想性』なんだよね。
なんかこう、なとりはあんまり『使命』とか、そういうのを好む気質ではないんだけれどね。
なとりはこういうことを解明するために、ブロガーやってたんかなって思っている。
まァ、やり方わかんねえよな。
ツインレイっていう精神的な? 霊的な世界観を現実性に落とす方法なんて。
あたいも今だからわかるけれど、渦中は「そういう風にするしかない」っていう方向性へ動いていただけ。
なとり、超絶リアリズムだから、リアリズムのほうに道があると思っている。
だから、現実があって精神がある——という考え方がある。これが『地に足をつけている』ということなのかもしれない。
ツインレイの問題点は分離前まで(自分がツインレイであることを否定しきれるまで)が精神があって現実があるっていう状態になってしまっていることなんだと思う。
だから、まずは否定せよ。自ずと肯定が生まれるまで、否定せよ。