さびしい感情が私を書き手として駆り立てる。

レイキやチャネリングにご興味がある方、お気軽にどうぞ。
Kindle版
さよなら、ツインレイ
当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。
kindleの読み放題『Kindle Unlimited30日間の無料体験』では、ほかの三冊も同時に読み放題
さびしいとは、共感がないことから生まれるものだと思う。
私はとてもさびしいなと思うことが多いんだけれど、それは否定されたり、間違えているとか言われたりとか。なんか色々指摘されるたびに、さびしいなって思っている。
なんかこう、否定されると腹が立つとかあると思うんだけれど、その根っこにあるものは孤独感だと思う。
人は、それなりに思考して、思いと考えのなかに生きていると思う。特に、私は感情と、思想のなかにいる人だからこそ、そのさびしさは強烈なものかもしれない。
理論の否定は、否定されることに腹が立つとき、自尊心が傷つくだとか、そういう話が多いんだけれどね。
そもそも、なぜ私たちが書くのか。その動機は『孤独』にあると思う。
さびしい、だから私たちは考えているし、思っている。それをシェアするために、共有することでさびしさを紛らわすために私たちは生み出しているものがある。
私たちは、自分を肯定されるために思想を作っているわけでもないし、何かを思っているわけでもない。
その思想や思いを、誰かとシェアすることでさびしさを紛らわそうとしている人たち。
色々作る人は特にね、その孤独感を情熱に変えて何かを生み出し続けていると思うんだ。
そして、差し出したものをシェアするは疎か、否定したり、見下したりして、そこにある孤独感を無視される。
孤独感があるから共有物を生み出す私たちにとって、否定廚はより一層孤独にさせる害悪であって、自分自身のなかに存在している孤独を否定する『何か』なのだと思う。
だからさ、私は自分のこれらを否定されたりするたびに「さびしい」と感じている。
感覚的には、子供が絵を大人に見せても「今、見てる暇ないから」って突き返されたような感覚かな。それに近い感覚を私は否定に感じている。あなたと私が共有できるはずのものが共有できなくてさびしい。
あなたがもし、ここにいたとしても、私はあなたが私を否定するたびに「さびしい」と感じると思う。
現実的にさびしくはなくても、それでも、精神的にさびしいと感じると思う。
私はそれは違うと思う。そばにいれば、それでいいでしょ? ってことじゃないと思う。
そばにいるだけじゃなくて、一緒に気持ちを共有することで、私たちはようやくさびしさを紛らわすことができる。
それは、現実的に共にいること、そして感情的にも共にいること。このどちらもが満たされなければ、私たちはさびしい生き物だと思う。
私が書き続けている理由は、さびしいからなんだと思う。
私の気持ちを誰かと共有したいから、書き続けている。
精神的な孤独が私を『書き手』に駆り立てる。
それは、ずっと、誰かと私の気持ちを共有したことがないからなんだと思う。
さびしい。この言葉がずっと見当たらなかったけれど、私はずっと精神的孤独を味わっている。
彼がいなくなって私は膨大な量を書き続けているけれど、それは、彼が精神的にそばにいなくてさびしいってことなんだと思う。
私は現実的に彼がそばにいなくてさびしいとはイチミリも感じていなかった。
私が常々感じ続けていた、そして、今も感じていることは精神的な孤独。
きっと、彼が現実的に側にいたならば、私はより一層、深い孤独に落ちたことでしょう。
それから、否定する人たちもまた、さびしいんだと思う。さびしい感情をカタチに変える方法を知らないんだと思う。
今まで私に繋がってきた人たちは、みんな、さびしいっていう感情を抱えているんだと思う。
そして、人はみな、孤独の宿命を背負っている。
私たちは、だからこそ、このさびしさを如何に紛らわせるかの方法を手に入れているかどうか。
さびしくない人間など存在していない。ただ、さびしさの感情を、いかに具現化するかの力を持つかどうか——なのだと思う。
共有できるものが多くあるのはいいこと。その分だけ、さびしさが紛れるからである。
しかし、共有できない人と共にいることもまた、孤独が際立つ。
人は、孤独に向き合うことも、ひとつの宿命なのかもしれない。