愛と創造、そして結合。

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Kindle版
さよなら、ツインレイ
当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。
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本当に、それは愛だったのか。よく考えてみると、そうでもないなと思った。
私がずっと逃げてきたものがある。それが『支配者』である。
支配者が持つ不安からずっと逃げてきた。ただ、正直、やっぱり首根っこ捕まえて「逃げんなよ」と啖呵を切れるほど、私は横暴な人間にはなれない。
犠牲。次に、極まり抜いた自己犠牲の先にある反転した支配を私は『創造』とした。
支配とは創造である。創造とは犠牲の先にある支配である。犠牲者が行う支配が創造である。その世界へ私は到達するだろう。
私が逃げてきたものがある。それが『支配』である。支配されることを受け入れることが愛だと思っていた。彼らが思う私を演ずるとき、それが彼らの心を支えてきて来たこともまた、自己犠牲であり、その自己犠牲が愛だと思っていた。
しかし、犠牲は愛ではない。愛とは、支配の先にある犠牲である。そこに愛がある。
私のなかに存在しているシャドウは支配者だった。それは自分の思い通りにならなければ、駄々をこねては相手を支配しようとする不安の塊。未熟な自分。その自分を私は受け入れ続け、私はシャドウを統合させる。そして、それが創造に繋がっていく。
私が自己犠牲し続けたことが、私は愛だと思っていたし。
彼(アニムス)が支配し続けたことが、彼は創造だと思っていたし。
もし、私が支配へと到達することあらば、彼もまた犠牲へと到達することもあるだろう。
私がもし、支配へと到達したとき、私は創造をするし、
彼もまた、犠牲へと到達したとき、彼は愛となるだろう。
私はしばらくの間、ずっと支配を見てきた。どのような支配構造なのかを理解し、その支配の仕方を見続けてきた。
それは間違いだと私は思った。自分だけがよい世界を構築していくことが、それが『創造』だとは思わない。なぜ、そのような考えに至るのか。それは私が自己犠牲の人生を生きてきたからである。
彼もまた、犠牲を見てきただろう。どのような犠牲構造なのかを理解し、その犠牲の仕方を見続けただろう。
それが間違いだと彼は思うだろう。自分だけが犠牲になればいいと語る彼らをまた支配者である自らが構築したものかと絶望があるだろう。それが『愛』だとは思わない。なぜ、その考えに至るのか。それは彼が支配者の人生を生きてきたからである。
アニマ、それが創造。
アニムス、それが愛。
私たちのなかには、創造と愛がある。また、創造が支配となり、愛が犠牲である限り、私たちの世界は虐待の世界でしかない。
私はそれを是としない。私はそれを間違っていると思う。世界の在り方として、それは間違っている。
人を虐げるような世界を私は肯定することができない。
そして、アニマにもアニムスにも共通の意識として『不安』と『恐怖』が介在している限り、アニマは犠牲者であり、アニムスは支配者なのである。

アニマが創造を語るとき、支配を語っている節がある。また、アニムスが愛を語るとき、犠牲を語っている節がある。そして、そのふたつが相手の望む自らになろうとするとき、アニマは『犠牲者』となり、アニムスは『支配者』となる。
しかし、異性の望む自らになろうとしないアニマは支配者となり、アニムスは犠牲者となる。
アニマが犠牲者として成立し、アニムスが支配者として一時的にでも成立したとき、そこにもし『心』が通うものがあるならば、私たちは不安と恐怖に寄り添うことになるだろう。不安と恐怖を解消するとき、私たちは愛と創造へと立ち返る。
犠牲が愛ではないこと、支配が創造ではないことに気づいていくことになるだろう。
そして、男性が愛であり、女性が創造であることに気づく。そして、愛と創造なのか、それとも、支配と犠牲なのか。これがひとつの別れ道とも言えるんだろう。
あなたの行いは、創造的だったのか。それとも支配的だったのか。
あなたの心は、犠牲的だったのか。それとも愛だったのか。
あなたの言葉は、真だったのか、それとも嘘だったのか。
支配と犠牲からは、嘘が生まれる。それは『上手くいかないことはすべて人のせいにすること』である。
創造と愛からは、真が生まれる。それは『すべてが自己責任』である。これが言霊となる。
だからこそ「すべてが自己責任」の意識が生まれれば、創造と愛への立ち返ることができるのである。
あなたの行動、あなたの発言、あなたの存在。そのすべてが自己責任であり、その責任は私に存在し、その責任を私自身がとるのである。あなたが悪なのは、私のなかに悪があるからである。そして、悪がいなくなれば、あなたが一体化している悪は必要がなくなるのである。
あなたの責任のすべてを自分自身がとることこそ、愛と創造の極意。
私たちがすべきことは、誰かをコントロールすることでもなければ、誰かを引き寄せることでもない。見せかけの言葉で愛を囁くことでもなければ、誰かの犠牲になることでもない。
ただ「すべての責任を自分がとること」である。すべての責任を自分自身がとることで、私たちは愛による創造を産み落とすだろう。このとき、私たちの言葉のなかに『嘘』はない。
嘘がないとは、自分の本当の願いに気づき、自分の本当の願いを受け入れていることにある。
本当の願いに気づけないのは、不安や恐怖があるからであり、不安と恐怖を乗り越えている人たちは、支配もなければ犠牲も必要としない。
言葉は創造である。これを言霊とする。
言霊がすべて反映するのが創造である。この世界の創造に、支配もなければ犠牲もないものを構築する人たちがやってくる。
支配もない、犠牲もない。不安もない、恐怖もない。それは、未来に恐れをなさず、自分の存在に絶対を知る。その存在は畏怖を持ち、支配者からすれば畏れ多い人になるだろう。また、犠牲者からすれば憧れを持つ人になるだろう。
もし、あなたのなかに恐怖があり、あなたのなかに嫉妬があるならば、それは、まだ私自身が未完成であると言うことだ。
もし、私が創造と愛を手に入れたならば、私はあなたから畏れと憧れをいただくことになるだろう。そのとき、ようやく、私は完成する。
私がようやく「話し始める」日がやってくる。
そのときの言葉のすべてが愛と創造により満たされるとき、私は言霊を放つことが出来るようになる。
その日が刻々と近づいているんだろう。
支配と犠牲からは何も生まれない。生まれるものは悲しみだけである。神はあなたに悲しいんでほしいとは思っていないし、不安に思ってほしいとかも思っていない。ここに何かひとつでも学びとなる経験があるのかと言えば、しなくていい経験がたんまり詰まっていることだろうね。
これを私は学びだとは思わないし、経験したとも思わない。ただ、悲しい思いをしただけ。
そんな連鎖を断ち切りたい。私たちは未だに「すべき経験」をしていないとは思わないか。
それは、人が持つ愛ある循環のなかにある経験こそが、人たらしめる経験かと思う。それが『不幸な経験』を人にしてほしいだなんて神は思っていないし、信仰する神を間違えちゃいないかと思う。
信じるべき神は、あなたを悲しませ、あなたを不安にさせる神ではない。あなたを「神だ」と言う存在でもない。
あなたを「人に」してくれる神である。人が人であれるように、心の支えでいてくれる神こそ、信仰するべき神じゃないのか。
女性は自らのなかに「彼(アニムス)」がいてはならない。創造せよ。
男性は自らのなかに「彼女(アニマ)」がい続けること。愛せよ。
最終体形において、私たちは、そんなカタチになる。自立する私たちは立ち還る。ワンレイ。
また、私は女性だからなんとなくわかるけれど、私のなかに心はない。それは、彼らから与えられてようやく私のなかに芽生えるものなのではないかと思っている。ないものはない。だから自己犠牲しか出来なかった。
彼らも同じではないかな。創造ができない。だから支配するしかなかった。無から有を生む構造。
犠牲するのも苦しいし、支配するのも苦しい。でも、やんなきゃいけねえっていう信念で貫くしかない。
犠牲のない女性は支配者になってしまうし、支配のない男性は犠牲者になってしまう。なんもやらんかった人たちな。ただ流されて悪に同化した人たち。次にまた虐待の連鎖を生むと思うよ。
何もやらなかったっていうのは『信念』がなかったってことだな。信念は遺伝子でさえも書き換える。
信念があるっていうのは「優れている」ってこと。それは「優しい」って意味。
本当に優しい人は優れているし、信念があるよ。信念がその人のなかに視えるかどうか。それだけの話かもしれない。