『ツインレイ』が心の隙間につけ込むこと。

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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ツインレイっていう概念が心の隙間に付けこんでいたのだなと思った。

たまたま、心の隙の話をする機会があって『ツインレイ』も心の隙間にスッと入り込んできたもののようなことに気づいたので、その件について書いておきたいなと思った。

心の隙間って何か? っていうと、心が満たされていない部分を指している。

心が満たされていない部分にスッと入り込んでくるものが、心の隙間を生んでいる。その隙間を満たしてくれているものを『心の隙間につけこむ』を意味している。

私自身が心の隙間は、私の心の隙間は『彼』だった。

彼が喪失されたこと。その結果、私の心には隙間が生まれた。これこそが、私自身の依存の正体なのではないだろうか。

 

少し遡ること——。

私は、彼との別れが生まれたとき、ひとつの疑問を生んだ。

「どうして、うまくいかせなきゃいけないの?」

だって、うまくいかせようとしても、上手くいかないことはうまくいかない。だったら、上手くいかないことも、それひっくるめてふたりで一緒にいることが大事なことなんじゃないの?

上手くいかせよう、上手くいかせようとすればするだけ、苦しい。上手くいかないことを受け入れることも大事なことでしょう?

私はそう思っていた。その後、別れが生じたことになるんだけれど、それは私が「上手くいかせようとする人たちに付け込まれたとき」だった。

それは本意ではなかったし、それでも「上手くいくにはこうしたらいいんだよ」と言われ、その後、破局を迎えたのだ。

これが私の心の隙間である。私は自分の心の中にある隙間を受け入れていた人だったから、隙間に付け込まれることがなかったんだけれど、上手くいかせたいという願望が生まれた瞬間、隙間が『隙間』という役割を担い、翻弄された。

私は彼に依存していたわけでもなければ、心の隙間に付け込ませたわけでもない。でも、上手くいかないってことを自覚した際に、依存と隙間が生まれたような気がするんだ。

私は「こうしたらいい」と言われた内容を、そのまま、実行したけれど、私は自分が壊れていくような感覚がした。私はあの時、私らしさを失った。私は消えた。

未だにこの怒りが自分のなかにくすぶっているとは思わなかった。私は、このとき、人に操作されている感覚がして、自分を否定され、自分を懐柔され、他者に支配を許した気がした。そして、それが私の本望ではなかった。

 

その後、ツインレイに翻弄されるようになる。これぞまさに「本望」なのである。誰かに付け込まれ、そこから立ち戻るのに、日々を使いつぶしている。私の心の隙間に入り込まれてしまったがゆえに、私の隙間が浮き彫りになった。

そこから、私は私の依存と向き合う日々となる。

 

彼はトリガーだった。彼は私に依存することが出来なかったはず。それは、私が彼を私の心の隙間に付け込ませなかったから。

そして、彼を突き放せたのも、私が彼に依存することを是とは思わなかった。彼の心の隙間に私が付け込むことが出来なかった。

 

心の隙間は『依存』が隠れているかもしれないし、社会学的に『慢』が関係していると思う。

依存があれば、慢心が生まれる。慢心があれば、依存が生まれる。

私は、依存を抑制していた。だから、慢心が浮き彫りにならない人でもあった。

彼は、慢心を抑制していた。だから、依存が浮き彫りにならない人でもあった。

表裏一体の姿を持っていたと思う。

でも、そこにはあった。依存も、慢心も、そこにはあった。それは人間的にも精神的にも未熟だったということなんだと思う。ただ、抑制が出来ているというだけで。自制心という理性が育っていた。

彼の慢心を受け入れることは、私の依存が明確に浮き彫りになることだったのだな、と。

そして、私の依存は『ツインレイ』という概念のなかに没入することになった。私の心の隙間は、すっかり『ツインレイ』の虜になったのだ。ただ『約束通り』、私は思考を手放すことはなかった。それだけが頼りであったと思う。

人は考えることができる。それだけが私たちを成長させる鍵になる。思考を手放してはならないと思っていた。危険だから。汗

依存は理性で抑え、慢心もまた理性で抑えられる。そこにあるのは善悪の思想だと思う。

心には善悪がない。これは心理学的な視点だけれど、心には善悪がある——という視点が社会学になる。

社会的な人間たちは、心に善悪をつけ、悪しき心を忌むものである。だけれど、心には善悪がない年代に善悪を叩き込むことは、依存を生み、また、その人の心を分離させるものなのではないだろうか。

 

また、ツインレイという用語に心を付け込まれる人たちもまた、心が分離しているんだと思う。善と悪の分離が起き、悪を生んでいる。だから、依存と慢心が浮き彫りになっては、その心の虚しさを体現している。

ツインレイに再会したというのに、その行動に依存と、その心に慢があるのはなぜなのか。私はとても不思議なんだ。

自分に問題があるから再会ができないのではない。

相手に問題があるから再会ができないわけでもない。

なとり調べでは、どんなに人格者でも再会ができない人はできないし、どんなに低俗者でも再会できる人はできる。

つまり、ここに『統合しているかどうか』の有無は関係ない。人格統合とかも関係ない。

引用:ツインレイの再会の縁。

 

では、心の隙間に入り込むことを、もっと専門的なカタチに言語化してみれば、それを『洗脳』って言うんだ。

つまりなんだけれど、心の隙間に入り込んできたものを受け入れて、その言葉の意味や、その人たちが何をしているのかをよく理解せず、考えず。マルッと受け入れてしまっているとき、私たちは「何も考えていないあほんだらになりさがっては、洗脳される」わけである。

洗脳されたくないって思うのが普通かもしれないんだけれど、自分がツインレイだって思っている人たちは「ツインレイだと思う洗脳」を受けているわけで、その洗脳が完成したとき、誰かを洗脳する。それが伴侶である。

ツインレイのカップルとは、片方が100%の洗脳を完成させ、もう一方を洗脳しきることによって成立する。

根源には『依存』と『慢心』があり、だからこそ、ツインレイなのである。これが私が感じているツインレイの未熟な体系であり、彼らはツインレイとして再会していることを自慢し、嫉妬を受け取ることで自分のエネルギーを肥やして注目されているような気がしてならない。

嫉妬がここにあるということは、いわば、私たちはツインレイになることはできない。ただ、私は『依存と慢心を抱えたままのツインレイになりたい』とは思わなかった。残念ながら、私のモデルビジョンはどこにも出てきていないし、私自身が求めているビジョンは、私のなかにある。

それが『ツインレイ』という用語を必要せずとも説明が可能なことは明々白々と言ったところだろうか。

ツインレイとは『理想的なカップル』として定義するのであれば、その理想的なカップルとは何か——を言語化せよってときに、言語化が出来ないからツインレイっていう用語に納まっているとも言える。ここにアイデンティティやオリジナリティがあるとは思えない。

それを『理想的な』とは言えないと思う。理想とは自分の理想を語るべきであり、誰かの理想を体現することではない。ましてや、ツインレイになることではないし、ツインレイであることを受け入れることでもないし、自分がツインレイだっていう言葉を使わずとも理想的な夫婦になることは可能である。

それは誰かにとっての理想なのか、はたまた、自分にとっての理想なのかは別の話だと思われる。

ツインレイとは「誰かにとっての理想」であり、「自分にとっての理想」が同一化を果たしてしまうがために、嫉妬という第三者を必要としなければならないのだと思われる。誰かにとっての理想は他者を必要とし、そこから満足を得ることで自分にとっての理想だからである。

さて、ここで心の隙間が関係してくる。

誰かにとっての理想は他者を必要とする。このとき、他者の心の隙間を利用する必要性がある。これが嫉妬である。そして、そのとき、当事者にもまた心の隙間が存在する。自分の理想が体現出来てないことは満足がないから心の隙間が生まれるのである。

冒頭に戻ろう。では、心の隙間とは何か——。依存と慢心である。

すべては、心の隙間を埋めるための道具を必要とする生活なのか。はたまた、心の隙間を必要としない人たちとは、どのような生活をしているのか。

 

心の隙間が埋まっている人たちは、自らが理想そのものである。

自らが理想そのものであるとき、私たちは嫉妬を受け取るのだろうか。少なからず、私は理想的な自分に成れたとは思うが、人に嫉妬されても何も思わないのは事実。嫉妬してくる人たちを利用しようとは思わないし、嫉妬されたいとも思わない。崇められたいと思わない。

その嫉妬を利用するか、しないか——なのかもしれない。

誰かの目線を気にしている限り、私はこのブログを書きあげられなかった。私は自分に自信があるのかっていうと、自信があるっていう概念そのものがなかった。ただ、没頭していた。その没頭があるのかないのか——は、そこに慢心や依存があるかどうか——なのだと思う。

よくギフテッドは、何かに没頭すると言うが、没頭とは、何かに夢中になるってことだ。

私は誰かの目線を気にしている限り、何かに夢中になり、没頭することは出来ないと思う。第三者が気になっている限り、私たちは自分に集中することは出来ないし、何かに介入されている限り、私たちは自分だけになることができない。

依存や慢心があるとき、私たちのなかには『よからぬ誰か』がいる。その誰かを私は鬼だと思っている。

嫉妬を欲しがる、依存したがる、満足が足りない。それを求めているのは『心のなかに鬼がいる』んだと思う。

ツインレイという隠れ蓑に隠れても、そこに依存や不満があること——。なかったことにはならない。

誰かの目を騙すことが出来たとしても、自分自身のことは騙すことができない。

自分を騙せたと思った人たちは、誰かをも騙している。

誰かを騙している人たちは「ツインレイ」を語っていると思う。だって、ツインレイじゃないから、ツインレイを語っている。

本当に自分がツインレイだって思っている人たちは、自分がツインレイだって言葉にする必要性すら感じられないからだ。

また、そのときのツインレイたちは自らの理想の体現をしている。誰かの理想ではない、自分が思う、自分の理想を生きている。

私たちは、自分という人間の探求者に過ぎない。

私たちは、私たちが誰なのかを知らない。そして、知りたいと思っている。しかし、答えは外にはない。自分を知っているのは自分しかいない。

どんなに公明な霊能者にだって、私を知ることは出来ない。そして、どんなに心を許した存在であろうが、私を知る必要性だってない。私だけが私を知っていればいい。

 

そして、もし「知りたい」と思ってくれる人がいたならば、そのときは知り合えばいいと思う。

これを私は「愛している」ってことなんだと思うよ。そんな人といっしょに生きていきたいと思う。

 

私はツインレイの彼のこと知らないと言葉にしたが、私は確かに彼を知らないんだよ。

私は私を通しての彼しか知らない。もちろん、好きな食べものとかは知ってるけどね。

あなたは誰を知りたいと思ったのか。知りたい人と、いっしょに生きていくことが豊かさに繋がっていると思う。

そして、そこに『知れるほどのあなた』がいるのか——。

それは『過去が積み重ねて背負っているかどうか』だと思う。その過去を背負っている人ほど、知る価値があるんじゃないかな。

もし、その過去をたらふく含み、また、優しさが生まれるとき、誰かを救うことも出来る。

その慢心と依存がある限り、私たちの心は隙間だらけで、知ることができない。そこに入り込んでいるものは『他者』であり『あなた』ではないから。

 

知りたいのは、あなただけであり、あなたに介入している誰かの話ではなかった。

今回、私が思ったことはそんなとこ。