依存を断っていくと『現実』が見えてくる。そして時間を取り戻せる。

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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最近、ブログの更新頻度が落ちている。その理由なんだが、書くことが頭のなかに浮かびはするし、書き出しもするんだけれど、これを『表に出す』と考える時、いや、ださなくてもいいかな? と思い、下書きのまま、執筆した内容を公開しない日々が、数日間にわたって及んでいた。

そんな感じで、今、近況的なものを書こうかなと思い、パソコン前に座っている。

この頃は、普段の私よりも忙しい日々で、ほぼ毎日に手帳には何かしらの予定が大なり小なり入っている。最近では玉前神社にまで出かけたことが小旅行的なものだった。

その過程でふと感じたことなんだが「動かなくちゃダメだな」ってこと。

行動を起こさなくちゃいけないってわけでもなく『動く』ことに意識を持って行った方がいい感じ。もちろん、停滞も大事なんだけれど、停滞が抜ければ『動く』ほうに意識を向けていく必要性がある。

例えば、この一カ所にとどまっていたところで、何かしらの発展を見込めるわけでもない。つまりは『動く』ことで滞っている気が循環する。そんな感覚がした。

そう思って調べてみるとやっぱり皆、同じことを考えているみたい。

旅行にでかけたり、どこでもいいから出かけていくことは「運気を変える力」があるとのこと。今が何か「違う」のであれば、それはちょっと旅行に出かけていつもとは違う気を吸収するのは、本当に「アリ」なんだろうなって思った。

 

頭のなかに色々な思考が巡ってしまう人が多い気がする。

その結果、ネットサーフィンに明け暮れてみたりもするんだけれど、だからといって何かを得て戻ってくるわけではなくて、時間だけが過ぎている。そんなこともある。

私はスマホ断ちをおすすめしている。一ヶ月ぐらいスマホの電源を落とす。インターネットから分離した世界にいると、どれだけ自分がスマホで時間つぶしをしていたのかがわかる。その時間、ソワソワしちゃうもんだから掃除とかするんだけれど。

他にも、カフェイン依存だったり、色々な依存があるんだけれど「これをやり続けることで、何か得られるわけではないんだけれど、やり続けちゃう」ってことを全部、やめてみる。

私たちは、他者依存的な意識の代替えに『なにかを依存先』としているものを断ってみる。そうすると、無視している現実が見えてくる。ほら、部屋が汚いことが見えてくる。

依存って『現実的なものを無視する』ってことに繋がっている。だから、現実的な視点を得るためには、依存しているものを全て経ってみる必要性がある。無視しないように依存を断つ。その結果、視えてくるものがある。それが『現実』である。

この依存は、色々な形であって、その依存を片っ端から断つ。

それがもしかしたら、ブログの更新かもしれないし、誰かへの悪口かもしれないし、人それぞれ『依存先』があるんだけれど、毎日やっている習慣のなかで『これは依存だな』と思うものは『ついやっちゃう』とか『無意識に行動している』ことが多い。

私は、ブログに記事を書き続けてきたんだが、これもまた習慣レベルのものになっているが、ひとつの依存ではないか? と考えられる。その依存が絶たれ始めた今、現実を見ている。というか、現実を動かし始めるようになった。

私は『ブログ断ち』を何度かしているけれど、私は書かずにはいられない人。つまりハイパーグラフィアなんだけれど、結局、これもひとつの依存のカタチなんだと思う。この依存もまた「書かずとも良い」状態にゆるゆると移行している今、誰かと関わったり、旅行に出かけたりが増えた。

結局、依存だったんだと思う。私が外に出かけないでいい状態に『書く』ってことで解消しているのである。

だから、私は『現実的なものを無視している』というよりも『現実的に動くことを書くことで阻止している』状態だったような気がする。

ちなみに今日は2時間の散歩(約20キロ歩いてきた)が終わって、帰ってきてからポテチをバリバリ食べまくり、なんとなく『書こう』と思い書いている。

そして、現実が充実している人間は『書かない』んだと思う。SNSも開かないような気がする。その場その場で「楽しい」とき、インターネットを開くことはないし、書くこともなければ、SNSをやることもないし、誰かを気にかけることもない。

 

ツインレイ関係のことで、もしかしたら、ツインレイの再会をしても「ツインレイ」で検索したりする人がいるみたいで。そういう人も度々、私のブログを読んでいるらしいことは知っている。

私は今「ツインレイ」で検索することはゼロである。というか、元々、ツインレイの基本的な思想を知る以外に、誰かの思想を知りたいとは思っていなかったのもあって、「ツインレイ」で検索することが極小のことだったと思う。

それでも「ツインレイ」で検索をするときは、心のなかに不安がくすぶっているときが多かった。不安が「ツインレイ ○○」みたいな感じで検索をさせる。私は、その不安を打ち砕くかのように、書き続けた。しかし、それもまた不安からの逃避に他ならないのだと思う。

ツインレイで検索をすることが受動性を意味するのであれば、私は能動的に不安からの逃避をしていたにすぎない。

つまりは『書き手』も『読み手』も、カタチが違えど、そこにある不安からの逃避があるんだと思う。だから、私は最終的には「必要最低限程度の配信」程度のブロガーを目指すべきだと思っている。少なからず、ハイパーグラフィア状態からは脱却するのではないか——と思う。

そして、私の執筆が時に、誰かに現実を齎してくれたらいいなと思っている。

私はずっと「ここには正解はない」と言っているが、本当に、インターネットには正解はない。あなたの正解は「現実」にある。その現実に、どうか帰っていってほしいと思っているんだ。

インターネットのなかに自分の答えはない。誰かの答えはあるかもしれないし、ヒントになるものはあるかもしれない。でも、私たちの経験は現実により生じ、私たちの智恵は現実により活かされている。

そうやって現実に存在している『事実』だけを受け取っていくとき、私たちは霊感や迷妄を終え、本当の幸福を得ることができると思う。

私たちの幸福は、精神的な幸福と、現実的な幸福がある。もし、あなたが精神的な幸福を持っているのであれば、現実的な幸福を手に入れるために歩き始めなければならない。

もし、あなたが現実的な幸福を手に入れることが出来ているのであれば、精神的な幸福を手に入れるために、心の声に耳を傾けなければならない。

どっちかだけじゃない。どちらも手に入れるために、私たちは心の声を聴き、現実を直視する力を手に入れていく必要性がある。

 

私は「ふたりでたのしむ」がテーマなんだと思っている。

ひとりで何でもできる。それが『自立』なんだと思う。

でも、ふたりで楽しむ。これが『共存』なんだと思う。

結婚しても、自立したふたりは、お互いがお互いに干渉がないとき、互いが別行動になることが多いのではないかと思う。

でも「ふたりで楽しむ」ことができるとき、私は共存が出来ているんじゃないかって思うんだ。

自分の趣味に相手が合わせてくれるのでもなければ、相手の趣味に自分が合わせるのでもなく。お互いがお互いの寄り添う一点を共存と呼ぶと思う。

その一点を探し求めて関わり、お互いが譲歩し合える時、共存なんだと思う。

その共存は、どこまでが譲れて、どこまでは譲れないのか。そのあたりの『自分の譲れる範囲』『自分の譲れない範囲』が、ちゃんと決まっていないとうまくやれないんじゃないかって思う。

それがちゃんと通じる人とは、共存ができる。でも、通じない人とは後から文句が出てくるものだなと思った。通じない人とは『自立』が出来ていないんだと思う。

どこかで相手に譲り過ぎてしまったり、相手に譲られるのが当たり前だと思っていたり。

 

精神的な依存は自分の時間を失っている。

精神的な依存は「あなたがいないと生きていけない」って気持ちとかかな。

現実的な依存は共存の時間を失っている。

現実的な依存は、お酒やギャンブル、ワーカホリック、ゲーム。ネットサーフィンなど。行動によって依存すること。

 

依存は時間を奪う。心の依存は自分の時間を失い、現実の依存は誰かとの時間を失う。

失われた時間を取り戻す私たちは、依存を断ち切る必要性がある。

いざ、私は精神的な自立を果たし、自分の時間を取り戻そうとしている。また、現実的な自立を果たすときの私たちは『社会的に自立』するのではなく、行動による依存を断ち切ることなのかもしれない。

現実的な依存は誰かとの大事な時間を失うからである。

私たちは心や魂で通じ合っているわけではない、自立しているからである。

私たちは、現実で『誰か』がいることで通じ合えるのである。それは時間ありきの話である。

私たちは時間のなかで生きているからである。

そして、私たちはすべてを与えられている。私たちは自分の時間も、誰かと繋がるための時間も与えられている。

時間が受け取れないでいるのは依存があるからであり、依存している限りは、共存的な関係性を構築することは出来ない。

 

私たちが自立している時、必ず、私たちの時間である『共存の時間』はピタリと重なるだろう。