ツインレイの魂が肉体に受肉するって話。(協力者とか、変化とか、覚醒の話)

Kindle版
さよなら、ツインレイ
当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。
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いわば、変化を手助けして援助してくれている存在とは、ツインレイを悪者に仕立て上げ、よくわからないことで攻撃し、批難し続けている人たちがツインレイの魂を人間の器に受肉することを手伝っているのである。
ツインレイではよく現実崩壊が起きるって話があるんだけど、じゃァ、何が起きてんのかなって話をば。
ツインレイのち、ふたりは『変化する』『そのまま継続する』のどっちかになる。
一方が変化する場合、もう一方は変化を拒絶することになる。私の場合、サンレントの始まりはこの『変化』と『変化への拒絶』によるぶつかり合いによって生じている。
変化をする側は『死と再生』を迎える。
変化をしない側は『現実崩壊』を迎える。
変化をする側『死と再生』
変化をする側である死と再生とは、自分のなかに死んでいる部分が黄泉がえりを果たすことになる。
では『死んでいる』とは、どのようなことなのか。
私たちのなかには『魂』があるわけで、その魂が人体に受肉を成功させ、魂がヒャッフー! と人体を自由自在に動かせている状態が『生きている』という状態である。つまり、魂の望みや使命を肉体が受け入れている状態が生きている。
つまり『魂が生きている』状態が、生きているとする。
逆に死んでいる状態とは、魂の望みや使命をこの人生で実行することが出来ていない状態を意味する。
やりたいことがやれていない。これは使命を果たすことが出来ていない。
我慢している。これも、何かしらのやるべきことをやれていない状態である。
そういった「我慢している部分」が「死んでいる」とされ、この死んでいる部分をぶっ壊して『よみがえり』を果たすわけである。
あなたはこの人生で何をするために生まれてきた? という問いかけに応えられるような人生を生きることが出来るようになること。それは大前提に、自分のなかに我慢している部分ややりたいことができていないという状態があることを意味する。
そして、変化の為には痛みがある。私たちは私たちではなくて、本当の私たちになっていく過程で、繋がっていた人たちとはどんどんと縁を切るし、古い環境は手放し、新しい環境に適応していかなければならないのだ。
つまり、変化をする側とは「変化を自ら起こすこと」にある。私たちは自ら甦り、再生をしようとする。
変化をしない側『現実崩壊』
変化をする側が、ガマンしている部分が破壊され、新しい自分に生まれ変わる(魂が受肉できる器になる)ことをやっている最中、変化しないことを選んだ側。
自分が変化することが出来ない側は『現実が崩壊していく』ことになる。
変化する側は、我慢が外れていくから変化を自ら望む側になるんだが、変化しない側は、我慢しているけれど我慢し続けることを選ぶからこそ、現実が崩壊して、最終的には我慢しない環境になっていく。
こっちもまた痛みが伴うわけなんだが、自分とは折り合いの悪い相手は、相手が怒って消えるなどのことが起こりえる。
自分にとって望んでいるわけでもない環境の変化が起き続けるのだ。そして、崩壊した現実を受け取ることが『変化しない』を選んだ側のことになる。
つまり、変化しない側とは「環境が変化を起こし、変化を受け取る」にある。私たちは、甦りを求められ、再生を求められる。常に捨てられ続けるし、変化しないからこそ、見限られ続けると言うか。環境が破壊されまくり、その破壊に打撃を受ける。
結果、メンタルも崩壊する。
人のなかには『変化できる部分』と『変化しない部分』がある
私たちのなかには『変化できる部分』と『変化できない部分』があるんだが、私の場合、ツインレイの相手と一緒にいる期間は『変化できない部分』が露見していたので、現実が崩壊していった。彼は変化できる部分を変化させていたと思う。
次に、変化できる部分があって、その部分を変化させようとしていた。それがサイレント期間に入ってからであり、彼は変化できない部分によって現実が崩壊していく。
つまり『変化する』と『変化しない』は、どっちも変化しているのである。
肯定しようが、否定しようが、どっちにしたって『死と再生』は免れなくて、肯定できる部分は自ら変化をすることができるし、否定された部分は、じゃァ、現実から攻めてしまえば、結局は全部『変化』だよね? って話されている。
つまり「変化」にたいして、否定と肯定が繰り広げられただけで、どちらも変化であり、では変化の真逆は何なんだろう? ってことになってくる。
これが『変化をする(否定・肯定)』と『他責者』がここにはあるのかな? と思っている。
変化を促す存在がいて、変化を促す人たちとは『他責者』なのである。
変化の為の他責者とは何か
たとえば、変化をするとき、私たちは「自ら変化する」「現実が崩壊する」というような自分を切り替えていく変化が起こりえる。それが否定と肯定により繰り広げられているのだが、変化できない人たちもいる。
変化するべき時に、やらない人たちもいるってことだな。じゃァ、それってどういう人たち? っていうと、変化するべきときに変化のエネルギーを他者に投げていく人たち。
いわば、「誰かが悪い」とか「人のせいにする」という人たちが変化のエネルギーをツインレイたちに投げかけていくのである。
するとどうなるのか。ツインレイたちは「悪者に仕立てあげられる」し「なんかよくわからないことで攻撃される」等のことが多く起こる。
変化ができない人たちとは、変化を受け入れられず、自分が変わることよりも人を変えることに尽力を尽くすわけなんだが、それが『変化をする』『変化をしない』という洗濯すら出来ずに『変化ができない』人たちになってしまう。
ツインレイのサイレントの始まりで、私は「私が悪いんだ・・・・・・」と自責になり、彼くんもまた「おれが悪いんだ・・・・・」という自責になっていると思われる。(そういう人だったし・・・・・・)
つまり変化とは『自分で自分の責任をとる』ことにより変化が促されるんだが、『自分で自分の責任を取らない』人たちもいて、その人たちは、変化するのではなく、変化する人たちを手助けする状態になる。
いわば、変化を手助けして援助してくれている存在とは、ツインレイを悪者に仕立て上げ、よくわからないことで攻撃し、批難し続けている人たちがツインレイの魂を人間の器に受肉することを手伝っているのである。
敵とすら感じられる彼らこそが援助者なのである。
ツインレイ的な変化の現象

私たちのなかには『変化しない部分』があって、その部分は勝手に現実崩壊をすることになる。では、この現実崩壊だが、現実崩壊をすることにより、変化せずに守っている部分があるとする。
この守っている部分は、お互い『片方の変化しない部分』=『片方の変化しない部分』となっている。現実崩壊を先にしたほうは元々自分の魂の部分を変化させなかったし、そもそも受肉が出来ている部分は変化しないわけである。で、変化させたら肉体に魂が受肉できない。
そして、変化する部分とは「自分ではない部分」である。自分ではない部分とは、我慢している部分。我慢している部分ややりたいことができていない部分は「自分に戻る」必要性がある。これがツインレイのなかでも個々として育ってきたアイデンティティの部分。

こういう感じかな・・・・・・。
最初の出会いの時点では、

こうでしかない。つまり、現実崩壊する側と変化する側のツインレイとなる。ちなみに最初にお互いツインレイであることに気づいている体感を覚えるのは、最初に『ツインレイの現実崩壊部分』が共鳴を起こすから。
次に、ツインレイたちは各々の役割分担にはいる。ちなみに私は「なとちゃ、合わせられるよ。まかせて!」と言っていたので、私が「変化しない部分」を構築していった。つまり、彼くんに「合わせた部分」が変化しない部分となる。
その間、彼くんは「変化する側」なので、自分のアイデンティティや個を構築していく。
最終的に、私自身が彼をコピーして「変化しない部分(ツインレイの部分)」を構築後『反転』する。反転するとは、今度は私が「変化する側」になり、彼が「変化しない側(ツインレイの部分)」に着手するようになる。
中心部分になる「ツインレイの部分」は、お互いでいっしょに構築していく部分となる。だから、いっしょにいる期間に構築していく。現実的には私が彼に合わせているが、精神的(魂的)には、彼が私に合わせている。
一方である合わせている側のなかにツインレイの部分が構築され、合わせられている側は、サイレント中にツインレイの部分へ適応を示していく。その際、アイデンティティがツインレイ部分が構築されている側は崩壊している状態になるので、アイデンティティを再構築へと突入する。
いわゆる、片方は「アイデンティティがない」ことが大前提で始まっている。自分がないからツインレイの相手に合わせられ、魂のすり合わせができる。魂のすり合わせによりツインレイのアイデンティティを取り戻してから、自分のアイデンティティを取り戻すことになる。もう一方はアイデンティティが確立している。
このとき、ツインレイは、片方のみにアイデンティティを持たせる人生を生き、片方には『何もない空っぽ』が求められている。そうであるがゆえに、先ずはひとつの〇を構成することができる。その後、ツインレイの出会いを経て、ふたつの丸を合わせて、三つの丸が構成されている。
私たちツインレイは、ツインレイである部分(魂の一致部分)と、自分が自分である部分(魂の不一致部分)を有している。
このとき、私たちは自分が自分である部分を持つツインレイの相手に当初は怒りを覚えるものだが、ツインレイの再会時においては、自分が自分であることへの喜びと、相手が自分ではないことへの喜びを実感することになるだろう。
そして、人のせいにする部分があるとき、私たちは変化しないことも変化することも選べない。するべきことは、変化をしていく人たちへの協力である。しかし、そのとき、私たちは「自分の人生ではなく、他者の人生に干渉している」存在へとなっている。少なからず、自分のするべきことに着手が出来ず、また、自分のするべきことが他者の人生への干渉となる。
他者の人生への干渉をし続けていると、自分の人生がおざなりとなる。おざなりとなっている間、私たちは誰かの人生を援助し続け、その存在を覚醒へと導き続けているのである。みんなが協力者となっている。
で、覚醒の促しって冥王星がやってるよね。