最近、自己統合を進めているシャドウについて

レイキやチャネリングにご興味がある方、お気軽にどうぞ。
Kindle版
さよなら、ツインレイ
当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。
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最近は、積読が増えてしまったので本を読みながら、シャドウの自己統合にふけっている。
自己統合しているものは私のシャドウである。
- 不安
- 許せない
- 怒り
- 嫌がる自分
私には、不安もなければ、許せないこともなければ、怒りもなかった。
感情が分離しているのもあって、不安を切り捨て、許せない気持ちを切り捨て、怒りを切り捨てた。
だから私には、そんな感情は存在していなかったのだ。
私は誰かに望まれた私になるべく、私は自分を分離していったのである。
その分離した感情の集合体は『守られていない自分の悲しみ』を意味していた。
不安な気持ちを無視され、許せない気持ちを無視され、私の抱える怒りを無視された。
嫌がることを強制的にやらされ、自主性とは真逆に育てられた人間である。(途中でドンドン、自分の気持ちが分離していってしまったんだな)
また、嫌がることを押し付けられること多く、嫌なものを押し付けられても、それを受け取ることが善という世界である。
嫌がらせを受けても我慢しろって意味。
最後に私は『自分が一切守れない人間』に育った。
私は私を守れない人間に育ち、誰かが私を守っていかなければならず、また、保護者を求めて生きる――という存在に仕立てあげられた。(依存性パーソナリティーってことだな)
だが、自分を守らないということは、誰かに守ってもらうことすら拒否するというマインドまで生まれたのだ。
だから私のことは誰かが守ることも、私が私を守ることすら出来なくなった。
シャドウは一致と不一致により生じる。
- 一致・・・・・・自分
- 不一致・・・・・・守る――守らない
自分というものがそこにあるとき、その自分を私は守らなかった。
ゆえに私のシャドウは『自分を守る』という存在にある。
私が分離した感情は『怒り』『許せない』『嫌なことを拒絶する』『不安』であり、私のシャドウは、私に怒り、私が許せず、私を拒絶し、私への不安を常に抱えている存在となる。
テーマは自己防衛であり、私は自己防衛を持たず、相手は過剰防衛を持っている状態となる。
過剰防衛の部分が『怒り』『許せない』『嫌なことを拒絶する』『不安』として現れ、他害へと切り替わるのがシャドウである。
それは私が自分を守れなかったことに怒り、許せず、拒絶できず、不安を抱き続けているということ。
私の中にシャドウがいて、そのシャドウは私への怒りを抱え続けているのである。
それは他者を投影して理解したけれど、私は私が許せないのである。
誰かに害されるとき、そんなときに自分が許せないのだ。それは自分を守れていないから。
そして、そんな私を許そうと、また苦しんでいるのである。
私は嫌がっていたし、嫌なことはやめて欲しいと言っているが、相手は嫌がっていることすらわからない共感性がない人間たちもいる。
嫌がっていることが受け入れられないのだ。
それは私が嫌だという気持ちを受け入れたらいいんだろうなって思った。
拒絶することは悪だと思ってたけれど、いささか、嫌なものは拒絶してもいいやと思えたよ。
シャドウがなぜ分離したのかと言えば、それは優しさと心の傷からだった。
シャドウがどうして結合するのかと言えば、それもまた優しさと心の傷から生まれるものだった。
分離も結合も、私はどちらも同じことを意味している表裏の課題だと思うが、拒絶することが善のとき、拒絶することが悪の人もいる。
でも、根源には『分離している』という課題がある。表になるか裏になるのか――の話であって、表裏のどちらかに行動が限定されるとき、分離は明確に起きている。
裏と表は相容れないが本質は同じ、分離している。
ランナーとチェイサーも同じシャドウで理解ができる。
片方が逃げることが善の時、片方は逃げないことが善なのだよ。
追いかけることが善の時、追いかけないことが善の人にも出会うだろう。
でも、逃げる・逃げない・追いかける・追いかけないにも本質的な課題がある。
逃げる人には逃げない力を、追いかける人には追いかけない力を。
どちらかに分離して偏りすぎているからこそ、私たちは『ランナー&チェイサー』になっている。
表のコイン、裏のコインとして認識する力を『1枚のコイン』として認識できるとき、私たちは結合された意識となっている。
しかし、大元にある1枚のコインに表も裏もないと盲目的に思っている無知な私たちは、経験によって表と裏を知る機会に恵まれているのである。
青年期には『自分が正しいと思う正義を貫く』わけだけれど、青年期を抜けて大人になる人たちは『相手にも一理あることに気づく』という視点へと発展していく。
表しか見えていない1枚のコインには裏があったのだ。
その裏に気づき、その裏を心底愛することが出来たならば、私たちはいつだって誰とでも『ひとつ』であることがわかる。
ツインレイに限った話じゃない。
誰しもがあなたとわたしは真逆なのだ。
真逆な性質を持つあなたを、どれぐらい受け入れられるのか――は、私たちの中に巨大なる分離が存在している事実に気づくことである。
だからさ(´・ε・`)
あたいは二十代の自分が『若かったなー未熟だったなー』って思うんだよ。
今、三十代になって、私は物事の側面しか理解できていなかったっていう視野の狭さに気づいたよ。
自分で自分のことがわかってないっていうか、自分の半分しかわかっていなかった。
残りの半分は「あなたたち」なんだよね。
みんな。
みんな、私のひとつの側面で、みんなを受け入れることは、私を受け入れることなんだよな。
最近は、イライラしたりするときは、自分の側面が燻ってるって思って、分離人格を探すようになった。
私は彼を全て愛したけれど、それは私の中にある彼というシャドウを愛したのだということ。
それは他者を愛したからこそ、私は私を愛せる。
だから私はこの期間、彼を愛した分だけ、私を愛し受け入れるターン。
私は私を愛せなかったから。
この異性性によるシャドウが自己統合するとき、同時に、同性性のシャドウも自己統合が促されると思う。
また、彼と私の一致とシャドウについて。
- 一致(霊)・・・・・・同じ魂
- 不一致(男女)・・・・・・大事にする、大好き
のはずなんだがな。大好きな人を大事にできないし、大事な人を大好きになれなくて、その隔たりは男女の違いになるねん(´・ε・`)
たいてい、ここらへんにくると何かしら確信的な理解が出来るようになる罠。
異性性の自分を受け入れたらいいんだよ(´・ε・`)
大事にできるし、大好きになれるよ≡⊂( ^-^)⊃