比較の世界からの脱却ステージ(女性の精神的自立とは)

2025年1月15日

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

私のステージが進むごとに更新していくステージをひとつの記事にして販売しています。


さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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どうやら、比較の世界からの脱却を行っていることが私にとってツインレイのように感じられていたらしい( •ω-  )★バチコーン

比較の世界から脱却するとは、男女の関係性から自立へと向かい、不平等のなかにある平等という世界観へ突入するということ。

ステージの構成は、

  1. 出会いによる依存
    • 姉弟として出会い、信頼による依存の関係性を構築をする
  2. 母性による分離
    • 姉と弟を母性により分離させ、依存による虚脱状態となる(100の依存物を取り上げる)
    • 姉・・・・・・天照、引きこもり
    • 弟・・・・・・素戔嗚、追放
  3. 依存と逃避
    • 依存していた部分を埋め合わせる為に、好きなものへ逃避行動をする
    • 逃避による妄想性の発揮
  4. 比較世界からの脱却
    • 比較によるテーマにより生じる精神を抜ける(優劣や比較、傲慢から脱却)
  5. 自己統合
    • 自分の過去のトラウマなどを統合し、自己のアイデンティティを統合させる
    • 優劣や比較が生じる原因の払拭
  6. 自立
    1. 好きなものをより現実化させる
  7. 再会(?)

と、なっている。

先ず、初手の信頼関係の構築が出来ているかどうかにより、自立へ至るかどうかが決まる。

信頼関係が構築されていない場合、個への信頼ではなく、異性(抽象性)への依存となる。

個として対象を信頼するとき、サイレント中においても他の異性との関係性は齎されないが、異性(抽象性)への依存となるとき、サイレント中に他の異性とお付き合いする。

理由だが、異性への依存と個への信頼による依存は意味が違うから。

異性への依存は「誰でもいい」ので、サイレント中には他の異性とお付き合いをする。

個への信頼は「あなただから信頼する」ので、サイレント中に他の異性との関わりはもたない。

比較によるテーマにより『依存』か『信頼』かとして、サイレント中に分岐点が生じる。

信頼と依存が同梱されている女性たちは、依存を取り除くために母性(または母親)により分離を強要されることになり、依存による喪失を覚え、離人する。

異性依存であり誰でもいいとき、サイレント中に他の異性とお付き合いをするが、信頼と依存の関係性であるとき、喪失による離人から禁断症状を起こしたかのように「好きなこと」に没頭する。

  1. 相手への信頼と依存
  2. 母性により相手を切り離す
  3. 相手の存在の代替え品として好きなものを手に取り行動をする

私の場合はブログでスピリチュアルの理論をたて続けることであった。

スピリチュアルが好きなものであり、それに対して「理論を建てる」という行動を起こす。行動が依存によりぽっかりと空いた穴(無)から目を背ける作業となる逃避行動である。

逃避し続けながらも自己統合をするが、最中、妄想性も発揮する。妄想性も逃避である。

最終的に自立の段階で好きなものに現実性を齎すことで自立とする。

無とは、無限にやり続けることでもあり、自己発展を遂げるのみの「夢中になれる好きなもの」となり『無限』となる。

  1. 依存を与える
  2. 依存物を取り上げる
  3. 虚無を産み、逃避により好きなものへ逃避行動をする
  4. 虚無(異性への依存)と向き合うこと(自己統合)により、好きなものに現実性を与える
  5. 好きなものが無限化する

私の場合、スピリチュアルに依存している時、ブログによる机上の空論となるが、自立するとき、レイキに触れていくことでスピリチュアルを現実化させる。

つまり、スピリチュアルに逃避することが依存であり、依存をやめ、現実性を孕ませると、無限に好きなことをやり続けられる、異性に依存せずともひとりでも居られる女性が成立する。

 

女性の自立とは――であるが、それは経済的自立ではない。精神的自立である。

精神的自立とは、無限に好きなことをやり続けられ、異性のことを忘れられるほどに没頭することが出来るものを手に入れることを意味する。

つまり、夫――好きなものとして対等にすることが出来る趣味があるかどうかである。

好きなことをし続けることを許可し、夫に依存せず、振り回されない精神の獲得には『無限に好きなことが出来る』必要性がある。

無限に好きなことが出来るとは、比較や優劣のない世界で生じる、底の見えない深淵というかたちのある好きなものである。

つまり、ずっとやっていられる夢中になれる趣味である。

ここに女性に経済的自立の必要性はないと書いておく。

女性は経済的自立をする必要性は無い。しかし、好きなことが現実性を孕み、自立するとき、必ずお金が稼がれることになる為、生活的な経済的自立はできないかもしれないけれど、好きなことをし続けるために必要な経費は自分で稼ぐことが可能だと考える。

そのとき、女性の創造性を発揮させ、女性であるがゆえの豊かさを追求することができるようになる。

これを男女における不平等のなかにある平等性とする。

つまり、男性は自立するとき、経済的自立をし、女性は精神的自立をする。

女性は精神的自立のために必要な経費は自分で稼げるし、男性は生活的自立のために必要な経費を自分で稼ぐようになるとき、共存ができると考える。

生活的自立のための費用を稼ぐ男性は『自立している』し、精神的自立のための費用を稼ぐ女性は『自立している』のである。

 

これは母性による分離が生じることにより成立している。それは自立の意志である。

男性が『生活的自立の意志』があれば、分離をする。女性が『精神的自立の意志』があれば、分離をする。

そこに自立の意志があれば、姉弟の関係性を終わらせ、互いに分離することを望むのである。

 

それは比較ではないのである。また優劣もないのである。

男女に優劣はなく、比較すべきものでは無いのである。

それぞれがそれぞれの気質を理解し活かすとき、私たちは自立している。つまり、相手の仕事を手伝う等のこともない。

自分が好きなことを女性がしてもいい時代がきた。だけれど、女性は子供を産むことも視野に入れなければならない。

そのとき『精神的自立』が果たされ、私たちは女性らしい豊かさを持った自立を果たすのである。

それは何かを極める無限性のものである。

女性は「好きなこと」をして生きていいことを自分に許可をし、好きなように生きていいのである。

家庭のために犠牲となるのではなく、家庭の豊かさのために好きなことを女性はする。

そんな女性を支える男性とは、生活を軸として生きる存在にならなければならない。

青春の影かなと思う。男性は夢を追いかける日々を終えて、女性を愛する。

女性は男性に愛された時、自分の夢を追いかけるのである。