精神的な自立(無)と肉体的な自立(孤独)と依存について

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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人のなかには依存として『絶対的孤独による依存』と、『無による依存』が存在しているようである。

絶対的孤独とは、人がこの世で孤独という存在であり、誰かとひとつになることができるわけではないという事実である。

つまり、あなたと私は同じではないという意識である。

この絶対的孤独による依存は、性依存(恋愛依存)に傾きやすく、独りでいることができない等の問題から、誰かを常に求め続けるような気質がある。

ゆえに、孤独を受け入れることが出来ていない時の私たちは異性と結びつきやすく、次々と異性を変えていくような依存性をも感じられる。

依存とは逃避である。何から逃避しているのかはそれぞれ違うが、孤独とは私たちがこの世でひとりである存在であることが受け入れられないとき、私たちを異性への依存を生むのである。

では、無の依存とは何か——である。

無とは、私たちが精神体のみになるとき、浮遊しているようなものである。

私たちの未来は闇である。そして確定がない。もしあなたが占いや未来に確定事項を知りたいと思うのであれば、それが無からの逃避であり、一時的に無により生み出される不安を回避している可能性がある。

私たちのなかにある無は深淵を覗き、終わりのないものに気づくことである。そして、真実である。また、真理である。

その事実に触れる時、私たちは不安になる。無を受け入れることが出来ない時、私たちは物質的な依存をするようになる。

それはアルコール依存、薬物依存(多岐に及び、私の場合は安定剤への依存)というカタチで顕現する。

そこにあるのは、私たちがこの世にい続ける時間をなるべく少なくし、意識をぼやかし、無に触れる恐怖から逃れるためにある。

あなたのなかに無があるとき、あなたは真理に触れながら逃避を続けている。そこにある紛れもない事実に目を向けられずに、私たちは死にたくなるのである。

そして、自分の人生を破滅させるような人生を歩むのである。

かくなる私は、私の存在に意味などないことに幼少の頃から気づきつつある人生である。そのときの私は、将来の夢などひとつも持てない存在だった。

 

私たちは、異性を目の前にして、この絶対的孤独と無による問題から目を逸らそうとしている。

ツインレイ。そんな存在と出会ったのであれば、あなたは何かしらに向き合えないでいる『何か』がある。

それが私の場合、絶対的孤独という地上の人。無という楽園の人であった。

あなたのなかにツインレイが棲むとき、あなたのなかで孤独が癒され、無がなかったことのように感じられているかもしれない。

しかし、それはいっしょにいる期間のみである。

サイレント中のあなたのなかにツインレイが棲み続けることは地獄のような期間でもある。あなたのなかに棲みついているツインレイは、あなたの時間を止め、依存を克復するように——と促されている。

私たちはツインレイから自立するようにして、絶対的孤独、そして無からの自立をしていく。

もし、あなたがサイレント中に、孤独を癒すような誰かを差し替えるように入れ替えたとき。

もし、あなたがサイレント中に、無をなかったことにするような誰かに差し替えたとき。

きっと、あなたは再びツインレイに出会うとき、再び、お互いがお互いを自立するような関係性を持つことは出来ない。

孤独を埋め合うような関係性、無を埋め合うような関係性である。これを依存と呼ぶ。

少なからず、その関係性を悪だと言い切れるほど、私は強い人ではない。その弱さがあってこその人でもある。そして、その弱さを愛おしいと思う私にとって、少なからず、それが悪だとは言い晴れないのである。

しかし、自立をしている、依存をしている。このどちらかに分類するとき、それは依存となっているだろう。

 

あなたのなかに孤独はあるだろうか。では、孤独のままに、孤独を埋め合わせるような恋をしてはいないだろうか。

あなたのなかに孤独がないのであれば、あなたはきっと孤独を持つ人に惹き合いながらも、その人を拒絶するだろう。あなたのなかにある孤独が今も泣いているのは、あなたが孤独であり、寂しがっていることに気づいていないからである。

あなたのなかに虚無はあるだろうか。誰かを生きがいにするような人生を送ってはいないだろうか。

あなたのなかに虚無がないのであれば、あなたはきっと誰かを生きがいにする人生を拒絶してはいないだろうか。あなたのなかにある無が今もくすぶっている。それは、あなたのなかに死が押し寄せてくる恐怖と、生きる意味がないことに気づいていないからである。

私は依存的な人だからこそ、孤独を埋め合わせようとし、無を埋め合わせようとしたのである。

彼らは依存を否定する人だからこそ、孤独を否定し、さびしい気持ちをなかったことにし、無を否定し、自分に生きる理由を見つけ続けている。

私たちはそんな風に惹き合い、出会い、お互いが埋められないでいるパーツを埋め合わせようとしている。

私たちは自立しようとしているし、依存しようとしている。このふたつが揃うときの私たちは、共依存ではない。自立した関係性による共存である。

人は寂しい生き物である。そして、人に生きる意味など与えられていない。それを果たすのはあなたじゃなくてもいい。

人は強い生き物である。さびしさに立ち向かうことができる。そして、人に生きる意味を見つけることができる。

私たちは、寂しくもあり強くもある。私たちに意味などないけれど、少しずつ意味を見つけていくことができる存在である。

 

もし、自立と言う言葉があるのであり、あなたが自立心旺盛な人間であるならば。そんなさびしいことを言ってくれるなよと思う。

ひとりで生きてくれるな。誰かと共に生きていく喜びを覚えてほしいと思う。

もし、あなたがさびしい気持ちだけで生きているのであれば、強く生きろと思う。

ひとりで生きていることを認めろ、あなたの孤独を誰かを癒してくれることはない。でも、あなたは誰かの孤独を癒してあげる存在であることに気づく日まで、孤独を受け入れて生きてく強さを持て。

もし、あなたのなかに虚無があり、生きる意味を見つけ続けているのであれば。そんな自分を捨てるような人生を送ってくれるなよ。あなたに意味などない、もっと自由であれ。

もし、あなたのなかに生きる意味がないのであれば、意味がないことを受け入れては尚、あなたの存在を求めている人に気づいていってほしい。

 

私たちがもし、何かに迷っているのであり、道しるべがないのであれば、それは私たちのなかにある真実を受け入れられないからである。

真実に触れた人たちは、どうしてか真実を受け入れられずに迷うのである。真実は暗闇の中にある絶望である。

あなたはその暗闇の中にある絶望を背負って生きる存在である。その絶望のささやきは、私たちにとって確かに地獄を味合わせることになるだろう。

だけれど、それ以上に、絶望の先に希望が視えたときのあなたの世界はきっと美しいものだろう。

あなたが思うほど、この世は美しくもないけれど、きっとあなたが美しくしていくだけの価値がある世界である。

だから、泣かないで。

依存