散文|ツインレイの再会の権利の話とサレンダー『大人の自分を受け入れる』
ふと、思い出したこと。もう五年以上の昔の話だよ。
師匠になんか誘われたときに断ったんだよな。そんときに「じゃあ、賭けをしようよ。おれが勝ったら——」と言われ、分かり切った勝負を吹っ掛けられた。
答えがわかりきっているのに、つい「勝ち」のほうに賭けた。自分がするりとそちらの方に賭けた、というか、瞬時に促された。
そして、賭けた直後に気づく。
目の前の勝負には勝って先生との本当の勝負には負けたことに。
何が起きているのか。先生は勝敗への欲求を抑制しきることが出来ている。なんなら、その部分を超越している。だから、相手を勝たせて自分の勝負に勝つってことを瞬時に組み上げてきた。
たいてい、私たちは本能に動かされている。「勝ちたい」っていう闘争本能は目的を危ぶまらせる。何がしたいのかすら忘れてしまう。これが本能と知性が分離されていない状態。
先生は、本能と知性が分離して、なお結合をしている。だから本能を利用することができる。
これが師弟関係ってやつなのかもしれないが、先生からはすごく賢い人ってどんな人なのか? の本当のすごさを見せられてきた。
本領発揮の先生には太刀打ちができない。
知性と知性で、どちらが正しいのかという世界じゃない。どんなに賢くても通用しない世界の人。
そもそも自分の想うとおりにさせる為に必要な手段を精神的にすら持っている。マインドコントロールってわけでもないんだよな。ただ、知っている。
だから、自分が間違えていても、それを『通す』ことができる人。
でも、できるけれどやらない。それができる人。人をコントロール手段を知っているし、出来る。でも、それをやらない。
「どうして?」
って聞けば、たぶん返答はこう。
「自分の思い通りになることがつまらないから。」
あるとき「いろんな人がいる。だから面白いんだよ。」と疲れ切った声で先生は言っていた、本心じゃないと思う。すごい優しい人なのよ。
これがあたいの神道の先生。できる。けれど、それを敢えてやらないことができる人。
勝ちたいがゆえに、本来、何がしたいのかすら忘れている。それが闇でもあるのかな、と。暗闇のなかに落とされる。
なとりに勝ちたい、ツインレイに勝ちたい。ただそれだけで、本来なにがしたかったのかの目的を忘れた。それが闇の意識。
暗闇のなかに入ってしまう。それは自分自身の勝敗へのこだわり。
本来なにがしたかったのかを忘れてしまったから、自分の人生の目的を失ったとも言える。
一貫性を持って、社会の勝敗に巻き込まれないこと。
とはいえども、自分のなかにも闘争本能がある。その本能を練り直したようである。
これは、本当の意味で対等に争ってきた人たち。根っこには対等に争うべき相手とまっすぐに戦うこと。
対等に争うつもりがない人もいる。そもそも「逃げている」人たちとは、対等に争うことができない。卑怯な争いをされる。でも、この世は卑怯な争いばかりなんだよな。
だからさ、対等に争いましょうってことで相手がちゃんと向き合ってくれた瞬間、当人は逃げ出す。
もし、自分自身のなかに闇があるとしたならば、それは勝敗へのこだわり。でも、それは本当に対等に争うことが出来たときにようやく勝敗へのこだわりを捨てることができる。戦いたいという思いはずっとここにある。
それは「対等になりたい」っていう欲求。
だけれど、対等になりたいわけじゃない人たちは逃げる。対等に戦うことから逃げる。争いから逃げる。
本当の闇の意識が存在しているのであれば、それは闘争本能ではなく、戦う意思が持てないことが闇なのかもしれない。
人の真正面に立ち、人と勝負をすることができない。
「敗けたくない」ってだけ。
敗けたくないから卑怯に勝とうとする。たいてい粘っているみたい。負けを認めることが出来ない。
それは「勝ちたい」わけじゃない。
だから、一生勝てない人生になる。勝敗という概念に勝つことができない。
敗けたくないって意識は勝ちたいわけじゃないから。だから卑怯だし、自己防衛に徹する。あれやこれや知性を自分を守るために使い、敗けないように生きる。
それはずっと敗け続けているも同然なんだが、当に忘れてしまっている。
敗けないように生きて、敗けている。
本当はどうしたかったのかを忘れてしまっている。だから敗けている。
姪っ子と将棋を数年前に指したとき。姪っ子に将棋を教えていて、私は飛車角落とし状態で勝負した。
長女のほうは徹底の防御、将棋が先に進まない。歩兵が前に後ろにうろうろしているだけ。だから聞いたんだよ。
「敗けたくないのか?」と。したら「敗けたくない。」と言う。
だから言った。
「だから勝てないんだね。」
って。将棋の目的は勝敗を決めること。将棋は両者が『勝とうとすること』に意味がある。防御は勝つための手段に過ぎない。
勝つための手段が目的にすり替わっている瞬間があるってこと。そのとき、人は防御を選び、また勝てると踏んだとき無謀な挑戦をする。
だから一生勝てない。もし勝てたとしても、それはまぐれか、相手が手抜きをしてくれただけ。本当の意味で勝ったわけじゃない。それで喜んでいる限り、一生、勝てない。
相手が手抜きしてくれるのを期待するか、一発屋になってまぐれを期待し続ける人間になる。
最後に残るのは負け惜しみ。負け犬の遠吠え。
何度も私が姪っ子に言ったこと。
「勝ちたいなら考えろ。勝ちたいならどうするべきか考えろ。誰も教えてくれないよ、だから自分で考えるしかない。思考を放棄するな、思考に没頭しろ」って。
ちなみに次女だが。
こちらはね。勝てる子。やっぱり考えている。どうするべきか。
で、私が飛車角以上に色々と落として、アドバイスしながら将棋さして最後にやっぱり私が敗けたとき。
彼女に聞いてみたんだよ。「どうして私が勝てないんだと思う?」って。
少し考えて「アドバイスして、飛車角を落としているから。」って返答が来た。
それでいいんだよ。私は勝負に負けたけど、勝負に勝った気分だった。目的は果たされたから。それから彼女とは将棋を指していない。
対等ではないから勝てた。それを受け入れることができるかどうか。
長女はね、これが出来ない。
甘やかされて育っているから「敗けたくない」が強い。相手がハンデくれて、それで『勝つ』ことに慣れてしまっている。
でハンデを与えてくれることを期待している。
あたいがハンデを抱えて勝ち続け、最後に究極のハンデの一歩で敗けたときに聞かれた。オセロ。
「これは私が勝ちになるのか。」と。
究極のハンデを与えられて「自分が勝った」と思いたいその心理は「違います」と言われて打ち砕かれて終わった。
なんでこうなったのか——だが。私は姪っ子たちと対等の意識がある。
人として扱った。
最初は姪っ子に「大人げない」って言われながらも対等に戦った。もうこの時点で、姪っ子たちが「大人は甘やかしてくれるのが当然」という当たり前の概念がある。
当たり前じゃないでしょ? 彼女たちだっていつか大人になるんだぜ。じゃあ、どうやって対等になっていくのかを教えなきゃいけない。勝ち方を教えなきゃいけない。対等に戦う方法を学ばなきゃいけない。甘えるな。
それは敗けた世界でしか得られない。
敗けたことがない。それは可哀想なことなんだよ。誰もまともに対等に相手にしてくれなかったってこと。
ちなみになとり。「勝つまで食らいつく」よ。
将棋は、父のほうが熟練なんだがな。初めて三ヶ月目でようやく一回、勝てた。
それまで毎日やり続けた。勝つまでやった。考え続けた。どうしたら勝てるのかをずーっと考え続けてきた。
で、敗けたら、父がどうして私が敗けたのかを教えてくれる。それの繰り返し。毎日毎日、屈辱の日々よ。w
勝てるまでやり続ければ、いつか勝てる可能性が絶対的にあるから。
たぶん、将棋関係の人はほとんど「敗けた、悔しい。もう一回。」をずっとやっている。
悔しいなら考えろ。「まだ、敗けてねえ」って次の勝負を挑む。これが勝つコツなんだよな。
これをやってこんかった人は他者の挑戦をバカにする。甘やかされて育って、人と対等に育ってきてないから、人を馬鹿にすることでしか自分を対等に持ち上げることができない。
ツインレイのこともそう。
私はずっと挑戦し続けている。横やりを入れて、甘やかしてくれるのを期待している人もいる。なにかのおこぼれがもらえるとでも思ってんのかもしれない。
だけれど、私は彼らに勝っても仕方ないって思っている。そこで勝敗を決めたところでどうしようもない。
誰かに勝っても、ツインレイの再会が出来るわけじゃないでしょ?
ツインレイの比較をして、誰が正しくて誰が間違っているのか——みたいなことを考えて勝敗を決めようって話でもない。
私の目的は「自分が再会したい」のね。誰かよりもいち早く再会したいとか、誰かに認められたいとかでもない。
ただ『自分がそうしたい』という自分の人生がそこにある。そのために努力をし続けている。自分と戦っている。
闇は最後に、目的がすり替わっている。
ツインレイに勝つことへ目的がすり替わり、自分の目的である「ツインレイの再会」を放棄している。
そう。もうどうでもよくなっている。自分の人生が、自分の望みがどうでもいい。そんなことよりもツインレイの相手や周囲のツインレイに勝つためにどうしたらいいのか——ただそれだけを考えている。
私に勝てばツインレイの再会が出来る、という感覚になっているのかもしれないんだけれど、私に勝ってもツインレイの再会は出来ない。
課題の分離、あなたの課題はあなたの課題。私の課題は私の課題。お互いの目的は同じだけれど、ここの争いによる勝敗は、目的のための手段にはならない。
でも「ツインレイの再会ができない」という理由にはなる。
その理由は大人に対等に扱ってもらった経験がないから。そして他人に甘え続けているから。
他人に甘えても、結果「ツインレイの再会が出来る」という保証はないところに勝敗を求めてくるし、なんなら、他人に甘えている限り、自分の人生には戻っていくことができない。
自分の人生へ戻れ。自分の目的を思い出せ。
そのために「どうしたらいいのか」を考えろ。考えを放棄するな。
自分の目的を誰かが果たしてくれるわけじゃない、誰かがツインレイを呼んできてくれるわけじゃない。ツインレイが頭を下げて謝罪してきてくれるわけじゃない。
いつか運命が巡ってきて、降ってわいたような幸運の再会がツインレイにはやってくるらしいぜ。
で? それはいつなんでしょうか。教えてください。
人は行動によって運命を切り替える。今、自分が何をするのか、その結果が今を構築している。
現実性を失うとはそのようなことだと思う。
「何もしない」でい続けても結果はでない。何もしないでい続けられるのは、それは何かしらに甘えて依存しているからである。
そのとき人には闇がくすぶっている。
そして、私は今「何もしない」を選んでいる。
連絡しようとすれば出来るのかもしれない。会いに行こうと思えば、住んでいる地域はわかっているんだから会えるんだと思う。探せばいい。彼が活動している範囲はしっているんだし。
でも、敢えてそれをやらない。
運命を信じているとか、あやふやなものじゃない。何もしない理由を何かしらの言い訳をして「何もしない」わけじゃない。
やりたいことや自分の望みを我慢しているわけじゃない。
ただ私は「そうしたい」から何もしていない。私の望みは何もしないこと。
ツインレイの彼に何かしらのアクションを起こしたいっていう欲求を抑圧しているわけじゃない。新しい行動への言い訳はないよ。
私は、彼に何もしないをしたい。
何もしないことが今の私にできることだから。自分に今なにができるのか、それは「何もしないこと」なんだと思う。
冒頭に戻るよ。
先生はできるけれどやらない。同じこと。出来る。でも、だからこそ「やらない」っていう権利がある。
できないことをやらないことにすることはできない。そもそも権利がないから。
できるから、私はやらないことができる。
裁判も同じ。裁判を起こすことができる、だから「やる」「やらない」を自分に決定権を持たせることができる。
そのなかで「やらない」を選んでいる。
その理由は色々あるけれど、やらないことが今の自分には一番のいい手だと思うから。
腐っても策略家ってだけだよ。
だから動と止の融合だよ。「やらないをやる」ことが出来るようになること。
権利がある、だからやらないを選んでいる。人の動きがおもしれえから。w
手のひら、コロコロコロ・・・・ってする。
やることをやらないのと、やらないのをやるのとは別。
多くの人がひっくり返ってんだな。やりたいことをやらないから「やる」の権利がない。だから「やらない」を選べない。やってもないから権利がない。権利がないものは実行もできない。
やりたいことやっていない人たちは、再会の権利すら与えられていない。
再会する権利を手に入れたらいいだけだった。
なとりは権利を持っている、でも敢えてそれをやらない。
ツインレイの再会の権利を持っている。だから、敢えてそれを「やらん」ことにした。
理由は面白いから。w
私がやらない理由がわかった人は、私がドクズだちと思うよ。いいぜ、真正クズ野郎になろうぜ。ニヤニヤ
私は私の本性に気づけばいいだけだった。忘れていた。
こいつ、真正のクズだった。でも最高に気分がいい。
最上級に面白いから。
もし私がこのトラップにハマったんだったら、マジで笑う。マジで結婚する。一生ついていく。ww
理由は面白いから。wwwww
もし彼が私ならば。この悪手に気づいたら大爆笑すると思う。
意味が分からん。だが、それがくっそおもしれえ。
したらば、ひとしきり笑って、降参して、ひっくり返ってワン! 腹を見せるよ。
だって、私たちは「そういう知的生命体」だから。
知性のなかにある面白さは「騙し合い」のなかにあるからね。そこに旨味がある。
だから騙されることに意味がある。
騙されないと面白くないんだよ。
彼は私に騙された、そしては私は私に騙された。彼に私は騙された。
もはやサレンダー。私は私に降伏する。
おまえが一等賞だよ! 最高じゃねえか。
面白けりゃなんでもいいわ。www
もうずっとサリンジャーのライ麦畑だよ。
大人になりたくない。闇の根源はここ。ピーターパンシンドローム。
支配されたくない、騙されたくない、決めつけられたくない。
この社会は、支配と騙し合い。そして決めつけのなかに成立している。
私は支配者で、人を騙す人で、自分勝手に人を決めつける人になる。
不条理な社会の大人になる。純粋なままでやっていけるほど、この社会は甘くない。
ただ純粋なままでいたいから、大人に駄々をこねているのが闇なんだなと思った。
自分だけがお奇麗でいたい。でも、もう不条理な大人として出来上がっていることに見向きもしたくない。
支配されたくないといいながら支配し、騙されたくないと言いながら人を騙している。決めつけられたくないと言いながら、自分勝手に決めつけている。
まんま、この世の不条理の大人として出来上がったウザい自分を受け入れられない。
闇とは、大人になりたくない子供のままでいたいのに、くっそゴミクズみたいな大人になってしまった自分を受け入れられない気持ち。
これが反抗期かな。大人との対等性の話。
あたいは一足先に大人を受け入れるよ。
騙し合いも支配も、決めつけも楽しみながら生きていく。
あたいは彼くんといっしょに大人になろうとしていた。そんだけ。だから「待ってた」んだと思う。