ツインレイと五虫の克服をし四霊に到達すること(重要な感情の克服について)
(中略)
そして、その虫を自分の中から除去することができれば、麒麟、鳳凰、霊亀、黄竜という四つの虫の王を夢見する可能性があるということ。引用:四霊による虫の王と蟲毒の関係性について
と、書いたのだが、実は逆で『自分自身のなかに存在している虫』を肯定することができると、虫の王の夢を見ているようである。
とはいえども、自分のなかに存在している虫が『ハエ』なのか『鳳凰』なのかは別の話である。はたまた『悪いハエ』なのか。
虫の
種類詳細 鳳凰 羽虫 知 羽根が生えた生物(蝶、鳥) 麒麟 毛虫 仁 毛が生えた生物(毛虫、獣) 霊亀 甲虫 霊感 甲羅を持つ生物(団子虫、亀) 黄竜 鱗虫 自我 鱗を持つ生物(鱗虫、蛇)
そして、裸虫という人間(キリスト)である。
それぞれの象徴が発生する理由があるようであり、その意識にアクセスするには、その精神を獲得している必要性がある。
夢見にて『鳳凰』『麒麟』『霊亀』『キリスト』を見ているが、最後の黄竜はこれからである。
虫の 種類 |
虫の私 | |
---|---|---|
鳳凰 | 羽虫 | ハエ |
麒麟 | 毛虫 | カモ |
霊亀 | 甲虫 | タコ |
黄竜 | 鱗虫 | —— |
キリスト | 裸虫 | ケヤキ |
羽虫のほうにカモがいると思ったんだが、順序的にはカモが毛虫として考えたほうがいいかもしれない。これは、私自身が夢見にて「自分がほかの動物になっている」ことがあったものである。
ほかにも『ユニコーン(ペガサス・馬)』、『不死鳥』の夢などを見ているが、こちらは私がなったことがあるわけではなくて、夢のなかでみている。なにか関連要素はあると思われる。
五虫の意識レベルの違い一覧
低次の自我による五虫と、高次の自我による虫の王の違いである。
本質的部分を元に、低次の自我性と、高次の自我性を私たちは私たちのなかに構築している。
低次の自我とは『自分自身の感情や欲求レベル』であり、高次の自我とは『発展性や繁栄、また人の為』という自分へのこだわりやエゴイズム性を抜けた段階においての能力である。
また、この能力の獲得において、私たちは虫の王の夢を視るようである。
本質 | 克服テーマ | 克服 | |
---|---|---|---|
鳳凰(蠅) | 人の気を引く | さびしい | 楽しませる力 |
麒麟(鴨) | 縄張り意識 | 怖い | 領域を守る力 |
霊亀(蛸) | 桃源郷の構築 | 身の保身 | 構築する力 |
黄竜(蛇) | 責任 | 独善 | 穢れを背負う力 |
キリスト(槻) | もっていない | 考え無し | 無心・無私 |
鳳凰(羽虫)のさびしさの克服
鳳凰 | 詳細 |
---|---|
虫の種類 | 羽虫 羽根が生えた生物(蝶、蠅) |
能力 | 知性 |
本質 | 人の気を引く |
低次の自我 | 多くを楽しむ力 |
高次の自我 | 人を楽しませる力 |
克服テーマ | さびしい感情 |
五虫である羽虫を私は『蠅』として見た。蠅は『虫』『黽』の字で構成されています。黽は爬虫類という意味と縦と横によじれるという意味でもあり、縦に横によじれて飛ぶ虫——が蠅である。
鳳凰のテーマは『知性の使い方』である。この知性の使い方が「自分のさびしさを紛らわせるために行動をする」ことなのか。はたまた「人を楽しませるために(人にさびしくさせないために)行動をする」ことでは意味が違ってくる。
低次の自我は、自分のなかにある感情に対して知性を使う。高次の自我は人のなかにある感情に対して知性を使う。
どちらも「人の気を引くこと」に繋がっており、どうして人の気を引くのかだが、それが自分がさびしいからなのか。はたまた、人を楽しませているから人の気が引けるのか。このふたつによって意味合いが違ってくる。
ゆえに、鳳凰は『人気運』を意味している。人を心から楽しませようとする人は、人気を得るということだ。
蠅は、
- いたずらや嘘
- スリル
- 子供らしく飛び回る
- 楽しい・喜び
という感情と結びつく。つまり『楽しむこと』である。いたずらもちょっとした嘘も、楽しむためにある。
低次の自我が『さびしい』ではなく、低次の自我は『楽しい』という感情が基本である。
蠅がウロチョロしているとき、いたずらをしている。蠅がコップのなかにわざわざ水面ギリギリまで向かうとき、スリルを楽しんでいる。死と生のはざまを楽しんでいる意識である。
蠅を純粋に見ると、ただ『楽しんでいるだけ』である。人生は楽しむものである。人生が楽しくないのはさびしいからである。さびしいと思うのであれば、人を楽しませたらいい。
人を楽しませると、自分のさびしさもなくなるからである。鳳凰への到達性は、人生を楽しみ、人の寂しさに寄り添い、そして人生の楽しさに触れることにある。
そして、さびしい感情という間違った低次の自我性を持っているとき、高次の自我は『不正の人気を得る』ことになる。あなたのなかに「さびしい感情を動機のもとに」という低次の自我があるとき、私たちは人の気を引きたいだけの人間になると言うことだ。
楽しそうな領域があるとき、私たちは飛び込んでいい。蠅のようにコップの淵を走り回っていいのである。
しかし、さびしいからって人の気を引いて悪いことをしてはいけないよってことだ。それを叱ってくれるのは麒麟である。
だから、鳳凰と麒麟はふたつでひとつとしてペアリングしている。
鳳凰の克服テーマは『さびしい感情』である。いかなる道もある。あなたがどのようにさびしさを克服していくのかはひとつのテーマである。
麒麟(毛虫)の恐怖の克服
麒麟 | 詳細 |
---|---|
虫の種類 | 毛虫 毛が生えた生物(毛虫、獣) |
能力 | 仁・心 |
本質 | 縄張り意識 |
低次の自我 | 仲間意識が強い |
高次の自我 | 領域を守る力 |
克服テーマ | 恐怖の克服 |
そういえば、麒麟が怒りを持つとき「怒らなければならないシーン」にのみと言われている。そして、麒麟はとても優しい存在であり、心ある判断を下すという。
多くの獣たちは、自分たちの縄張り意識が強い。そして仲間意識があるのが獣とも言える。麒麟は、そんな獣の頂点にある縄張り意識に対してをテーマにして持っている。
私たちは自分の縄張りに入ってくる存在への敵対心を持つことがある。そのとき、私たちは恐怖を感じるだろう。
私たちの反応は『逃げる』のか『牙をむくのか』のどちらかである。
怖いから牙をむいているのか、怖いから逃げ出すのか。どちらになるのかは、自分のなかにある毛虫の意識の違いだと思われる。
低次の自我である毛虫は「なわばりをおかされたときの反応」により、生じるものである。根源には恐怖があるが、恐怖に対して私たちはどのように対応するのだろうか。それが低次の自我である。
しかし、麒麟は恐怖を持つのではなく「悪いことは悪い」という怒りを持ち、その裁量においては心を持っている。私たちはそんな優しいルールのなかで守られているときがある。私たちが悪いことをしないように怒られる。
その怒りそのものは、普段は優しい麒麟であったとしても、問題があるときは起こらなければならないのである。
麒麟の到達性の前は『ユニコーン』である。自分の領域に純粋なる心以外の介入により攻撃せれるとき、ユニコーンは激怒する。
ユニコーンの意識がもうひとつ上の段階に到達するとき、麒麟の夢を見る。ユニコーン以上に相手の心を思いやり、自分のことではなく、人の為を想ってこその怒りを持っているということだ。
人の領域を犯してはならないし、人の領域を荒らしてはならない。人の領域は人の領域。介入してはならない領域まで冒してはならないということ。
克服テーマは『恐怖の克服』である。
霊亀(甲虫)の身の保身の克服
霊亀 | 詳細 |
---|---|
虫の種類 | 甲虫 甲羅を持つ生物(団子虫、亀) |
能力 | 霊感 |
本質 | 桃源郷の構築・着実性 |
低次の自我 | 努力する力 |
高次の自我 | 理想と現実の一致 |
克服テーマ | 幻想世界に留まる・身の保身の克服 |
ツインレイの方々の多くが『ツインレイの幻想世界に留まる』という話をしているんだが、このテーマがとても熱いのがツインレイだと思われる。
霊亀は桃源郷を背負っている存在である。
私たちは自分たちで未来を構築していくことができるし、自分で自分の桃源郷と言う理想を構築していくことができる。その力は『構築力』である。
それは亀の歩みは兎よりも早いという意味かもしれない。
私たちは理想をスキップして楽をして手に入れることがあるわけではない。着実にひとつひとつの積み重ねをし続けていく必要性がある。最後の最後に、もしかしたら、それは失敗になるかもしれない。だが、その失敗すらをも次へ繋げていくことが霊亀となる。
私たちの中にある身の保身は、将来を獲得することができない。自分を守る意識は何もできないことを意味し、努力をしないことである。
そして、自分の向かうべき未来へ歩みを進めることが出来ていないとき、またはなにひとつ未来の為に努力をしていない時、私たちは私たち自身を幻想世界へと落としていく。
ツインレイと出会い、多くの人たちが努力をしなくなったような気もする。運命という言葉にかまけ、自分の未来を構築していくことを忘れてしまったかのように、先へ進むことが出来なくなってしまった。
だからこそ、私たちは亀の歩みである。ゆっくりゆっくりひとつひとつを積み上げていかなければならない。しかし、その努力をどのようにすればいいのかすらわからない世界が『ここ』なのかもしれない。
タコは墨を吐いて、周囲を暗闇にする。低次の自我は自分の未来を暗闇にさせ、その暗闇の中に閉じこもることを意味している。
その世界では霊感と呼ばれるものや多くの幻視・幻聴がやってくるだろう。これを統合失調症の種とする。
統合失調は自分の理想と現実が乖離してしまい、努力をどのようにしたらいいのかわからない。現実を見ることが出来ていないから、今何をするべきなのかがわからないのである。
霊亀は、自分で自分を構築していく。自分を理想の自分へと着実に歩ませていく努力を意味している。いわば、理想への進む力強さである。
この道に楽なことはない。
克服しなければならないのは『身の保身』である。自分の理想的な未来を獲得するためには、今の自分が持つ身の保身をひとつひとつ取り除き、自分を守る意識を捨てていかなければならない。
あと、なぜか、この類の人たちは「自分の為に」って言葉を多く多用している気がする。
誰も自分の為に何かしてくれることなんてねぇべよ。ただ、その人がその人の役割やっているだけだと思う。世界が幻想に囚われると「誰かは自分の為に何かをしてくれている」と思う感覚があるんだと思う。
黄竜(鱗虫)の独善性の克服
黄竜 | 詳細 |
---|---|
虫の種類 | 鱗虫 鱗を持つ生物(鱗虫、蛇) |
能力 | 自我 |
本質 | 責任 |
低次の自我 | 存在肯定 |
高次の自我 | 穢れを背負う力・自己責任能力 |
克服テーマ | 独善性・自分は正しい意識・人のせいにする意識の克服 |
アダムとイブのお話に出てくる蛇が関係していると思われる。
私たちは、ここに存在してもいい。ここにいる。という感覚を培うことで、自分の存在を肯定し、自分の存在を受け入れることにより、相手の存在を肯定し受け入れることが出来るようになっていく。
アダムとイブの蛇が神にかまってほしくて独善的な行動をとった。独善的とは「自分良ければそれでいい」意識でもあるし、ほかにも「自分は正しいことをした」と人に迷惑をかけているのに思っていることでもある。
たとえば「自分は相手に迷惑をかけることで相手に学びを与えた」と言葉にすることかもしれない。他人からすれば迷惑行為である。その言葉を言っていいのは迷惑をかけられた側しか言えないはずなのに、自分の存在肯定を悪に持たせることで存在価値を持たせる意識である。
この世には善と悪があり、悪人がいなければ善者は成立することは出来ない。悪人の意識として蛇がいる。自分の存在を認めることが出来ないがゆえに、わざわざ人に悪意を向けて存在肯定を刺せようとすること。これが悪しき存在肯定である。
ただ蛇は「認めてほしいだけ」ではあるんだが、自分の存在を自分で認めることができないでいるがゆえに、人に認めさせようと悪事を働き続ける。
この意識は「自分は正しい」と他人へ意識の押し付けを行い、またケンカを売る節も感じられる。ほかにも、自分が悪いのに人のせいにする意識である。
独善性とは、わかりやすい言葉だと思う。独り善がりの善性や正義を他人に振りかざしているとき、私たちは独善性を抱えている。
なんだかとても僕のヒーローアカデミア的な視点だと思われる。
黄竜は戦争に加担し、世の穢れを背負い、神の世に戻れなくなった——とされている。
私たちは、この世に生まれ、育ち、生きているだけで世の穢れを背負っているようなものである。
悪しき低次の自我性はどこかで『自分にはひとつも穢れがない』と思っているかもしれないが、黄竜は穢れ、神の世に戻れずともいいと、戦争に参加した。
これこそが、私たちのなかに『生きる覚悟』なのかもしれない。自分は穢れている、我こそは天使ならず、我こそ地獄の民であることを受け入れ、そんな地獄のなかで「人のために働くことで自分も汚れていくこと」を望む意識である。
穢れを一気に引き受け、私たちはこの世の輪廻のなかに生きることこそ、黄竜の意識だと思われる。
だから『自分の問題を自分で背負うこと』が出来るようになり、すべてにおいての事象の自己責任をとり、そのなかで、相手の罪さえをも背負い、穢れていくことのへの覚悟が黄竜である。
これこそが堕天した私たちの自意識に必要なものだと思う。私たちは神ではないし、私たちは天使ではない。私たちは穢れ、また、その穢れは誰かの為に働いた功績である。
克服するべきテーマは『独善性』や『人のせい』『自分は正しい』という責任についてである。
すべてにおいて、自分の行動や発言の責任は自分にある。自分で自分の行動や発言の責任はとっていかなければならないし、それをとらないように言い逃れするのが『蛇』である。
そして、私はその蛇を捕まえることなく逃がしている。みんな、戦っている気がする。言い逃れをしようとする蛇たちはほとんどを私は逃がしている。(どうしようもない言い訳つけて逃げるねん。w)
だって逃げたいんでしょ。だったら逃げていいよって思っている。私から言い逃れて、言い負かして逃れることが『私が他人だから』出来るけれど、自分からは逃げられないから。
どんなに頑張っても、自分が持つ自分の罪から逃げることは出来ない。逃げられるはずがないのに逃げようとしている蛇が、ちょっとは愛おしい人が私なんだよな。
キリスト(裸虫)の考え無しの克服
キリスト | 詳細 |
---|---|
虫の種類 | 裸虫(人間) |
能力 | 人間 |
本質 | もっていない |
低次の自我 | 思考力 |
高次の自我 | 無心・無私 |
克服テーマ | 考え無しの克服 |
私たちは何も持っていない。何も持っていないのが人である。能力もなければ、何かしらの飛びぬけて秀でたものがあるわけでもない。
本質的部分で人は『何も持っていない』のである。
私たちはだからこそ『考える』のである。考え続けていくのが低次の自我にある。私たちは考え続け、自分はどうあるべきかを試行錯誤する。
仏教では『思考を手放す』などの段階があるかもしれないが、低次の自我では思考を手放してはならない。
たとえば、何も考えたことがない人が続行して何も考えていないのと、何かを完が続けた人が何も考えなくなったとの意味合いが違う。
つまり、無心の状態を維持するためには、まずは思考力を鍛えていかなければならない。それがこの世だからである。
私たちは、霊体によりふよふよ生きているわけではない。この世には犯罪だってあるし、国によって法律だってそれぞれに定められている。それらを無視して考え無しの行動をしてはならない。
キリストは元々が人であり、その後、死後に神となった。ブッダさんも同じである。
そして『教え』が生まれた。キリストさんやブッダさんが考えぬいて『教え』を生み出して、死後に神となった。この世界観が『宗教』という思想になる。
私たちは、何かを考え続けたからこそ、その先に『無私』『無心』という領域へと達していくのである。
人が人であるために、思考は手放してはならない。考えない人間は『考え無しの結果』しか得られない。
ほかの四虫たちも、すべて思考によって打破していくことができる。それは私たちが虫ではなく、人だからである。
人だからこそ、私たちは多くの克服をしていくことができる。それは人が人であり、人が思考する生き物だからである。
先ずは『考えていくこと』である。
自分には何も持っていない。だから、考え続けていくことで私たちは『持っているもの』が生まれるようになる。
克服テーマは『何も考えていない自分』である。
五虫が悪さしている人
すべての五虫を私たちは持っている。その五虫が最終的にどのベクトルにまで達しているのか——というだけであり、五虫は皆の中にいる。
だけれど、この五虫が悪さしている人たちもいる。虫の居所が悪い人たちだ。機嫌が悪い人たち。
五虫が悪さしている人は、人の気を引きたくて、ありとあらゆる手法をつかって気を引く。
許可もなく他人の領土にズカズカ入り込んできて荒らし、自分のことを守る意識が強すぎるあまりに失敗を恐れ何もしない。あやふやな幻想に留まり発展性がない。
独善的な判断をし、他人に迷惑をかけても気にも留めない。
何も考えていないからなにか質問しても的を得た回答はないか、人の意見を丸ごと鵜呑みにして自分の意見として伝えてくる。
楽しいこともなさそうだし、いつも怖がってて、自分を守ってる。何か行動し始めたと思ったら、他人に迷惑をかけているみたいな人。やることなすこと裏目に出て、人に嫌われる。
蠅は煩わしいし、鴨は逃げ出すし、タコもヘビも気持ち悪いし、ケヤキ見てても何も感じないよね。
つまり、さびしい人は煩わしいし、恐怖を抱えている人からは逃げ出したくなるし、身の保身をしている人や独善性の人は気持ち悪いし、考え無しの人には何も感じないって感じ。
低次の自我の五虫が成立している人
では、虫ベクトル(低次の自我)の人たちはどんな人たちなのか。
楽しいことに引き寄せられるように、自分が楽しいことを実行している。
仲間意識が強く、自分の未来や理想の為に努力をし続けている。
自分の存在を認め、他人の存在を認めている。そしてよく考えている。
どれも人たらしめている人の元祖的な健全な意識です。
低次の自我はすごく大事な意識だと思われる。楽しむことを楽しみ、理想の為に努力をする。人が生きるために必要な低次の自我性だと思われる。
出会った頃のツインレイの彼くんでしたね。
高次の自我の虫の王が成立している人
自分が楽しんでいると、他人もいっしょに楽しめるようになっている。さびしさの克服が終わっている。
自分がもつ領域を守り、それが人を守ることにも繋がっている。人を叱る意識があるが大抵は温厚な人である。怒るときは大抵「必要があるから」である。恐怖の克服が終わっている。
自分自身の理想と現実が一致し、自分の世界観を構築している。身の保身を克復している。
自分で自分のすべてを背負っている。独善性・エゴイズム性を克復している。
無心であり、無私である。自分のなかに『なにもない』感覚を持っている。考え無しを克復している。
面白い人だと思うよ。高次の自我がはっきりと明確に成立している人は、すごく面白い。
特に「理想の体現性」をも持つから、背中を追いかけたくなる。こんな人になりたいって思える人になる。
悪い虫を克復すると高次の自我が成立する
以下、一覧である。
高次の自我 | 低次の自我 | 悪い虫 | |
---|---|---|---|
さびしい | 共に楽しむ | 楽しむ | 気を引く |
こわい | 守るために戦う | 逃げる | 威嚇する |
身の保身 | 理想の体現性 | 発展する | 何もしない |
独善性 | 穢れを背負う | 責任をとる | 人のせいにする |
考え無し | 無心へ到達する | 考える | 何も考えない |
虫の王が悪い虫退治する必要性があるものは、この通りである。
- 鳳凰・・・・気を引くために悪いことをする虫(楽しむ)
- 麒麟・・・・恐怖で威嚇し、人に攻撃をする虫(逃がす)
- 霊亀・・・・何もせず、自分の理想だけを追いかけ現実をみず幻想のなかに留まっている虫(どうしたらいいのかがわからない虫)(方向性を定める)
- 黄竜・・・・人にせいにし続けている虫(穢れを背負う)
- キリスト・・・・何も考えていない虫(心配りする)
つまりなんだが、悪い虫を低次の自我に戻す作業で、
人の気を引きたくなったら、楽しいことを探しなさい。楽しんでいいんですよ。
威嚇したくなったら、逃げなさい。怖かったら逃げてもいいんですよ。
何もしていないんだったら、何かしなさい。何かをしていいんですよ。発展しましょう。
人にせいにしたくなったら、自己責任をとりなさい。自分で背負いなさい。
何も考えてないなら、考えなさい。そのために教えがあるよ。学びなさい。
ってことなのだと思われる。
で、ツインレイの問題なんだが、人の気を引きたい人、妙に威嚇してくる人、何もしていない人、人のせいにしている人、何も考えていない人がいるんだと思われる。浮き彫りになってきてしまうっていうか。
自分のなかにいる悪い虫に気づいて、その虫を退治していきましょう。
共に楽しみましょう、怖いものからあなたを守りましょう、理想を現実にしましょう、穢れて生きましょう、無心へと到達し人の心に寄り添いましょうって高次の自我たちはいっているんだけれど、己の中にある『さびしい』『怖い』『保身』『独善』『考え無』に気づいていかないと、高次の自我ってどうしてやりゃいいのかわからないよって話でもある。
さびしいなら楽しみを与えるし、怖いものがあるなら逃がしてあげるし、何かしたいならやったらいいと思っているし、責任をとっている限り、穢れを取り除くし、考えているならば無心の境地を与えるよってことなんだ。
高次の自我は常に与えたいって思っているんだけれど、悪い虫がそれを阻害している。
高次の自我に到達しなくていい。でも、ただ『自分の本心』に気づいていくことだけが大事なんだよ。
で、この高次の自我に到達した人は、他人の悪い虫をついばむ。
愛おしいと思っているよ、さびしいのも、こわいのも。自分を守っている人も、自分勝手な人も。なんも考えていない人たちをも、四霊とキリストは愛しているし、受け入れている。
だからって、それで『悪さ』をしたらいけない。あなたの人生が破綻するからだ。
さびしいからって、人の気を引こうと迷惑を掛けたらいけないでしょ。怖くて人についたらいけないでしょ。自分を守るために妄想に憑りつかれているのは間違えているし、人のせいして自分の問題をなかったことしたらいけないし、何も考えずに犯罪を犯しちゃダメだよね。
ダメなものはダメやねん。なんでもかんでもしていいわけじゃない。
高次の自我は、共に楽しむつもりだし、あなたを守るために戦う。そして理想のために必要なものをそろえ、あなたの穢れを背負うよ。そして、あなたの心にいつだって共感している。
神は共にある。それを信じて『生きる』ことが大事なんだ。