報告|ツインレイ、愛に目覚める
ここにきて初めて花粉症になり、咽頭炎と気管支炎になっております。だけれども当人はとても元気で、外にでかけられないことにモヤモヤしている。
夕べは、ひたすら胸にレイキを当てていた。なんてたって気管支がヒリヒリしてかなわない。
途中から堰き止められていた感情が溢れかえり、号泣したが、泣いた理由はわからない。普通にアニメ見ていただけだし、特になんかあったってわけでもないし、何か考えていたわけでもない。
ただの情緒不安定か。
つっこみはさておいて、ものすごい量の涙を流しているなかもずっとレイキはあてていた。
途中から胸のヒリヒリが抜け、咽頭炎も楽になっていった。翌日の今日は痰が絡んで声が出ない。爆
私のなかに存在していた大きな悲しみが胸に溜まりこみ、それが花粉症を引き金に咽頭炎と気管支炎になっていたようだ。
だけど、悲しみの感情の記憶はない。たぶん、私の中にある記憶のない記憶に関する感情なんだと思う。三歳の時の記憶。
題名は「ツインレイ、愛に目覚める」てなっているけど。
私は今、ツインレイの彼に恋人が出来たことを報告されても受け入れられる気がする。
「そっか、よかったね。」って言えるところにまでこれた。無関心だとか、愛していないからとか。特にもう好きじゃないからとか、そういうわけじゃなくて、単純に「よかった、幸せになってね。」って思える。
私たちは『自分とツインレイが幸せになる』ことにこだわり過ぎているのかもしれない。
ツインレイの彼が誰といっしょにいようが、幸せになれればそれでいいはずなのに自分が幸せになりたいことにこだわり、こだわりゆえに、私たちはツインレイの別れを悲しんでいるように思う。
私は自分の幸せを捨てたのかもしれない。けど、とても楽でもある。彼が幸せならばそれでいいんじゃないか、って。
この視点は『無価値』を軸にしている。私にとって彼がとてつもない無価値なる存在であることを受け入れていくときがきたって感じでもある。
愛しているって、それはいっしょにいることや愛を伝えることじゃない。ツインレイの彼が幸せでいることを喜ぶことにある。
もしそれが、私が隣にいなくても——。
私たちの苦しみは、私たちの中にある自分へのこだわりにあると仏は言う。
私たちは「自分が」という意識がある。自分が人を助けたい、とか。自分が誰かの役に立ちたい、とか。これが傲慢という意識でもあって、私たちが別にやらなくても他の人たちがやってくれることもある。
私たちは他人を受け入れることがなかなかできないでいるからこそ、『他人が自分の代わりに何かをしてくれていること』を理解することも出来なくて。それがもし、自分がやりたい役割だったら余計にそれに対しての執着も生まれていく。
私たちにとっては『ツインレイの相手を幸せにすること』に執着している理由は、その役割を自分がやりたいからなんだと思う。
でも、その役割を私たちがやらなくたってきっと誰かがやってくれている。
これを愛だと呼ばずに、私は何を愛とすればいいのかがわからないよ。
そして、私は『無価値を愛してきた』けど、これからは方向転換を余儀なくされている。
新しい創造である。
私は価値あるものを愛そうと思う。受け入れようと思う。私は自分のなかにある価値ある自分を愛し、受け入れていく。そして他の人が持つ価値あるものを愛そうと思う。