ツインレイの個性化とアニマとアニムスの統合
ユングを読んでいると、アニマとアニムスは成長を遂げたのち、最終的にはアニマとアニムスの統合により『個性化(セルフ)』に至るとの経緯を錬金術に見つけたのだと知る。
私自身も、この経緯については興味深く、錬金術に関する書物をいくばか読ませてもらった。そして、そのなかでとりわけツインレイに関連性を感じたものも『哲学者の薔薇園』であり、ユングと同様にある。
錬金術では『相容れないものをひとつにする』という同一化における現象を起こす。相容れないものとは、私たち自身のなかに存在する性質の分離にある。
私たちの人間の肉体は、先ず一つ目に『女性』と『男性』に分類され、同一として捉えることはない。そもそも『別の肉体』なのである。
私たちの身体は、このように二種類に分類され相容れないものとして存在しているように、私たち自身のなかにも同じように相容れない『別の存在』が分離している。また、その分離している存在を私たちは知覚しない。
肉体と精神が同一である。つまり私たちは常に『半分の肉体』『半分の精神』とも言える。完全性のない二極に分離した片割れとしてが自分自身にある。
私は自分が『女性である』という知覚はない。人が自分自身の精神に性別を持ち、知っているのかがわからなかった。そして私は自分のなかに存在している性別を敢えて言葉にするのであれば『青年』とした。
結婚をする前の男性にある。このとき、私自身の性別が『処女(結婚をする前の女性)』であるならば、まだ理解し得ることだったと思う。
ツインレイという分離そのもの
ツインレイとは——。かくいう私たちという人間そのものは『分離した存在』とも言える。この世が二元性に存在し、二元性のなかにある限り、私たちは『ふたつのうちのひとつ』に過ぎないと言うこと。
そして、ツインレイは、ふたつに分けた魂として語られているが、私自身は『魂の定義そのもの』についてを考えあぐねてしまい、最終的な結論としては『末那識』となる無意識領域のなかに存在する『心』という概念化される部分が分離しているとして定義した。
- 前五識(眼・耳・鼻・舌・身)
- 意識(考えることや心の動き)
- 末那識(自分に執着している心・迷い)
- 阿頼耶識(すべての種子)
私たち人間は、いくつもにわたって分離した存在である事実をまずは知っておくべきなのかもしれない。
私たちの肉体そのものが『男性』『女性』として分離しているまずの大前提の部分に『末那識』が存在している。私たちには確かに心の性別があるということでもある。
しかし、このときの私たちの心の性別は、真逆の性別を持っている末那識であることも忘れてはならない。
末那識による心の性別が真逆として存在しているが、肉体による性別は私たちが自覚している性別にある。
肉体が男性であれば、心は女性である。肉体が女性であれば、心は男性である。
このように、私たちの肉体と心の性別は真逆にセットされるようにして生まれてきているが、しかし私たちは肉体の性別を心の性別として捉えているのである。
まずの私たちの分離は肉体による性別の理解に始まり、次に、精神の性別の理解へと繋がっていく。
性別による分離は、まずまずの私たちの分離の始まりに過ぎない。
自らが光として充てられたときに生じる抑圧した自己という影の投影。
物質は光に照らされた時、影を映し出すということだ。その物質が『私たち』にある。
いわば、私たちにとって光と闇(影)——私はこれを天使と悪魔に暗喩していたようだ——がひとつになるには、物質の中へ光と闇を統合させていくことにある。引用:四大元素による統合と光と闇の統合(六大元素の統合の経緯)|ツインレイと錬金術③
私たちは地上で肉体が持つ悪魔に気づくことになる。私たちの心のなかに住まう悪魔は『何でもできる』という。その悪魔が持つ凶器はときに犯罪者ともなり、ときに私たち自身の人生のすべてをおびやかすような恐ろしい意識にある。
人を殺したほどの強い衝動を私たちはひた隠しにしている。誰かを恨むとき、私たちは必ず頭のなかで誰かを傷つけているだろう。その意識そのものが私たちの殺意にある。その殺意そのものを抑圧しきるとき、私たちは『シャドウ』と呼ぶ自らの陰湿な側面性を持つ——少なからず真っ当な人生を送っていきたいというのであれば、目を瞑っていきたいと思う自己の側面性が分離を起こす。
もし、ツインレイと出会い、サイレント期間に『闇』と向き合うのであれば、私かこの闇こそが『シャドウ(影)』だと実感する。少なからず、私は当事者と出会い、「私の影」だと感じた。そして同様に「私は一歩間違えればこのようになっていた」という事実にも直面したものである。
影と直面する私のなかに生まれた感情は『嫌悪』『軽蔑』というような強い感情にあった。
それこそが私たちが持つ、個人そのものを形成するために必要な『アイデンティティの影』にあり、私たちを不自由にしている意識そのものにある。
私たちのなかに存在する『自己』と『自我』による分離も、これはまた目を背けることは出来ない。
私たちは意識のなかで生きている。その限り『無意識』を自覚することができない。意識と無意識の分離は、無意識が無であり、自覚を持つことができないためにある。
ツインレイと出会う少し前における分離現象では、自己(無意識に存在する私)を自覚した瞬間がある。私たちは私たちのなかに自己を認識することがでいない。出来ないが、二元性の両極を自覚するとき、自己を意識へと認識させていく経緯があるのである。
また、この自己たるものが成長し、二元性を吸収したとき、私たちは『個性化(セルフ)』を得る。
分離を結合する想像上の一角獣
私たちのなかに存在する分離は、上記から『肉体の男女』『精神の男女』『自己と影』『意識と無意識』と、並べることができる。
この経緯で私たちは『一角獣(ユニコーン)』を夢見ることになるだろう。比喩ではない、そのままにある。
「知の均衡に気を配り」、「地球の力と宇宙のエネルギーを取り込む」生き物、「天と地、愛と光、目に見えるものと目に見えないもの、意識と無意識を結びつける」存在
引用:一角獣の分化史百貨
一角獣とは、ふたつに分離している存在をひとつに結びつける役割を担い、またその役割を終わらせたあとに遭遇する夢のなかの象意として存在しているのである。
私たちはユニコーンの逸話のなかでとても有名なものをよく耳にする。処女以外には角を向け、処女の胸で眠る生物なのだ——と。
この言葉を私たちは『性行為を成していない純粋な存在』として定義するが、少なからず私たちも三十半ばになって『性行為をしたことがない』という奇特な存在はなかなか少ない。
ユニコーンが懐くのは『二つを結びつける前の存在』にある。また、これからふたつに別れた分離した存在を結びつける存在でもあり、ユニコーンの役割そのものは『処女ではない存在にキレる馬』ではないようだ。
そして、その一極そのものをことごとく傾倒させ、分離させている純粋なる『一極性』をこよなく愛し、また、一極に分離しきれていない意識を結合させることは出来ない。
であるがゆえに、一極に傾倒させることが出来ていない意識を『不純』とし、一極に傾倒させた意識を『純粋』とするのだろう。
このとき、たしかに私たちは『処女』ではないのである。このとき、たしかに私たちは自らが不純であることにすら気づいていない存在なのである。
ユニコーンとは、自らのなかに存在する『一極に傾倒した処女性』懐くのであり、また、その一極そのものが一極に傾倒しきる必要性があるということだ。
ツインレイの精神を結合化させていく経緯
ツインレイの精神そのものを、影とした自らの悪意あるビジョンを分離化させ、自我と自己における分離を起こし、男女における違いを重んじるとき、私たちはその性差を受け入れる性を重要としたい。
私たちの精神は、先ずは一極を学び、もうひとつの一極を他者から投影し、結合させていく必要性がある。
また、自我と自己における分離においてを始めとする必要性もある。まずは自らのなかに『無意識』の領域を呼び起こすことが手始めとなる理由は、私たちの肉体そのものを変革することは出来ない為である。
私たちの精神構造そのものは変革させることが可能だが、肉体を精神から改造することは不可能であるため、各々の無意識領域のみで分離を自覚していく必要性があると言うことだ。
アニマ・アニムスの具現化
ツインフレームの段階において語られている内容であるが、先ずは『アニマ』『アニムス』という自らが持つ異性性を認識していかなければならない。
これがまずは大前提にある。
自分自身が持つ異性親からもらう異性性を超克していくことにより、私たちは自らのなかに『本当に自分が望んでいる異性像』を自覚していくことが出来るようになる。
多くのツインレイたちが『ツインレイと出会った』と思う段階がここにある。
自らの異性像が『親』に投影されたままでは、本当に自分自身の魂が求めている存在なのかと言えることにある。
この段階を経ていく経緯で、私たちは『恋』をやめていく。
私は、アニマ・アニムスという異性像と、理想であるグレートマザー・オールドマンという理想の異性像と、アニマ・アニムスという自分自身の恋愛対象(聖婚対象)を同一化させていることによる混同を避けるためにあると考える。
恋とは、理想を打ち砕き、また自らのなかに存在する異性親におけるコンプレックスの打破をするために存在し、またこれが因縁とも呼ばれる堪え難き恋となる。
ツインレイとは『兄妹』にある。ゆえに、恋というよりも禁断の恋でもあり、また家族愛に近し。恋愛感情というような『好意』そのものを抱き、恋に落ちる感覚それそのものは、アニマ・アニムスに対して求めている理想と、それから現実との分離を求めて行っている。
ツインフレームの経緯を終わらせた段階で「ようやく結婚が出来る」のが、私たちにある。その結婚とは魂による結婚にある。
人間が持つ肉体における恋愛を終えていく段階では『自分の性別を失ったような感覚』にさえ陥る。ゆえに、私たちはやたら滅多の恋に落ちることもない。ただ『家族』を探している。
このとき、私たちはようやく『本当のツインレイの存在』を直感的に知ることになるが、それは自らが持つアニマ・アニムス、異性へのコンプレックスをすべて終わらせた段階により、ようやく到達する意識にある。
ゆえに私たちは『前からツインレイの相手による情報を知っている』状態にたどり着く。いわば、ツインレイの情報はツインフレームの段階を経てようやくにある。
また、ツインフレームに対して懐かしい感覚とは『親に対しての哀愁』によく似ては尚、ツインレイに対しては懐かしい感覚は生じない。
理由はこれにある。もとより生き別れた兄妹に対して感じる戸惑いのほうが先決する為だ。ようやく出会えた存在に「懐かしい」とは思わない。私たちは今の今まで発生した段階からこの世に堕ちる前まで、共に過ごした記憶など『ほとんどない』のだから。
ないものにたいして懐かしいとは思わない。だが『しっくり』はくるだろう。
ツインフレームのテーマ
ツインフレームのテーマそのものは『我に執着をすること』にある。
自分ばかりが良い思いをしようとすればするほど、ツインフレームのテーマに縛られる。自分が、自分がと思えば思うほど、迷いも生じ、どのように判断すればいいのかがわからなくなる。
けっきょくのところ、ツインフレームのテーマは『末那識の迷いの払しょく』にある。末那識そのものが持つ『自分への執着』を手放していくとき、ツインフレームのテーマを終わらせることができる。
相手を愛するとは何か、それは本当に『愛なのか』ということだ。
自分に執着がある限り、ツインフレームのテーマを抜け出すことはない。本当の意味で『相手を愛すること』が出来たとき、ツインフレームのテーマを克服することになる。しかし、この段階を困難とする理由は『自分を愛しているから、相手を愛せない』ことにある。
相手を愛したとき、自らを傷つけることになるだろう。しかし、それこそが真実の愛であり、また私たちを理想から解放する手段にある。
アニマ・アニムスの近親相姦説
アニマ・アニムスの統合の経緯で、私たちは『自らのなかに存在する自己』を導き出すことが大前提にある。
前回のツインフレームの課題は『肉体における男女』を自覚する必要性にあり、また男女の自覚の違いを受け入れること、それこそが『愛』へと到達するものにある。
しかし、次なる問題は『無意識』という、私たちが自覚し、認識し、手に取ることができない・触ることができない領域へと進む。
そのためにはまずは意識を克服していかなければならないのである。その意識そのものがツインフレームの課題にあり、無意識の課題ではツインレイを手前として『無意識を呼び出す』必要性がある。
さて、『無意識に対しての自覚がある人』はどれだけいるのだろうか。たぶん、いない。少なからず、統合を果たしたと思われる私自身も無意識を自覚することは出来ていないとも言えるんだろう。
その無意識を自覚することはできないが、無意識を意識側からアクションをかけ、認識することは出来る。それが『世界に対しての理解』にある。この辺は少々割愛し、折り入っての話として別記事を設けたいが、無意識そのものを私たちは自覚することはないが、ツインレイのステージにおいては無意識がメインテーマとなってくる。
ツインレイのふたりは『肉体を超えての存在』にある。いわば、肉体関係は先ず持たない。これを大前提として私は持ち得たいと思う。
ツインレイのふたりが肉体関係を持ったとしても、それは『戯れ』に近い。そして、そこに『恋』は持ち得ない。少なからず、とても純情たる『心』は存在し得るものでもあるが、肉体関係というよりも、精神の為に関係性を持つとも言える。
欲求にかられて肌を重ねるのではなく、精神がひとつになることを求めて肌を重ねるということだ。
ツインレイは精神的な関係性であるからこそ『どろどろした関係性』にもならない。もっとも、これ以上にピュアな関係性を求めることもないだろう。
正直なところ、不倫などにもならない。そもそもツインレイと出会う人たちは『影を具現化される存在』でもある。
影とは『絶対的に自分が成りたくない存在』を律する心にて排除したときに生じる存在にある。いわば、影とは『犯罪者』であり『倫理道徳から背いた存在』にある。
不倫などによりツインレイが関係性を生じるとき『倫理道徳を内包している・許容している』という自己に対しての律する心の欠如にある。その場合、影の形成が成されていないと考え、ツインソウル・ツインフレームの段階として捉えるのが妥当ではないか——と考える。(だからこそ肉体関係が生じるのである。)
また、精神と肉体は『同一にある』としても考えられる。
精神そのものが『処女』であり『青年』であるとき、私たちは独身なのである。それを未熟とも呼ぶ。少なからず、この段階を経て大人になるが、現実による結婚とは『自分の心に何かしらの悪を受け入れる』ことにより生じている事実も理解し得る必要性がある。肉体関係も準ずる。
ツインレイが『既婚者である』という可能性は私のなかでは極めて低いのではないかと考えている。
精神=現実。精神そのものに対して『不道徳』を孕むとき、現実でも結婚が成立する。いわば、私利私欲による結婚が成立するのである。しかし、精神が不道徳と手を組まぬとき、現実でも結婚は成立させることが出来ない、出来ないのである。
私のなかで結婚とは『同じ罪を背負う共謀者』にもある。結婚しているのであれば、同じ罪を背負い、共に生きるその人を大事にせよと思う。
そして、ツインレイもそうたいしては変わらない。魂の近親相姦という罪を犯すのだから。
私たちにとって、その罪こそが喜びでもあり、また死ぬほどの罪でもある。
不倫がなんだ、既婚者が何だと私自身も思う。肉体による罪よりも、魂による罪のほうがはるかに深いだろう。それこそ万死に値するからこそ、私たちは死ぬほどの罪を背負うのである。
私が思うに『覚悟がないことはやめときなさい』だ。私は不倫をする覚悟がない人だ。自らを泥棒猫に身を落とすだけの度胸もなければ、人からモノ(夫)を盗む覚悟もない。人にののしられる覚悟もなければ、不倫して時間を失い、金を失い覚悟もない。
覚悟あるならば不倫すればいいと思う。それで何かを失う覚悟があるのであれば。その覚悟がない人が多くを失ったことだろう。
私は彼に対して『すべてを失う覚悟』を腹に括ったが、今ならばそれの意味も解けるだろう。それこそ、彼と共に罪を背負い、また自我を失い、彼との縁を失う覚悟にある。私と彼が魂の繋がりを失う覚悟を持つことにある。
彼と私に今は魂の繋がりはない。私たちは魂を『兄妹』から解き放ち、『個性化』をさせてしまったのだから。
ツインレイにとっての結婚とは聖なる結婚である。それは近親相姦であり罪なる結婚である。
現実で不倫をしている人たちと、そうたいして変わらぬ秘匿されたひとつの罪にある。
この罪は万死に値し、聖とは復活に値する。ツインレイとは表裏一体にある。
私が持った彼に対しての『犠牲者にしたくない』とは、このことかと思う。近親相姦による罪を彼に着せたくはないのである。だからこそ、私たちは離別をしたんだろう。
ツインレイの個性化
ツインレイの個性化は『聖なる結婚』『罪なる結婚』の両側面により成立している。
個性化とは『二元性を自らのなかに成立させること』であり、また、一極性へと傾き、もう一極性を内包することである。
その過程においてのふり幅は、ツインレイたちにとって最大となるとき『ツインレイ』と出会い、それまでの間には徐々に内包していくとして捉えることになるだろう。
そのための準備として、先ずは『自我が自己を自覚すること』を始めとし、分離現象を起こす必要性がある。
次に分離により自覚された自己(無意識の私)を育て上げていく経緯がツインレイの関係性にある。また、自我(意識の私)を育てる経緯がツインフレームにある。
自我とは『律する心』にあり、自己とは『開放する心』ともとれる。
社会的には律し、無意識的に解放され、循環する状態が個性化だといえるだろう。
ツインレイたちは、お互いが持っている性を交換し、統合させていく経緯を自らの精神領域で行っていく。
出会った当初のアニマ・アニムスは本質的な兄妹愛により関係性を構築しているが、ふたりの関係性が『禁断の恋』へとなりえる時、ふたりは離別を迎えていくことになる。
ツインレイのふたりはサイレント期間における表面的な部分では離別を迎え、精神的な部分では結合を果たすようになる。
そして、その結合をする過程において、多くの『古い概念』『従来のコンプレックス』など、無意識に存在している個人的な無意識領域における自分が表出することになる。
個人的無意識から表出する存在たちを自らのなかへ統合化させていくことで、最終的には『集合無意識』へと到達していく。
この経緯から、私たちの精神とは『自らが生み出し、自らが創造している』ともいえるが、最終的には吸収し、ひとつの個体へとされていく。
自らの実在する自我、自己と、対局するように存在するコンプレックスを統合させていくと、最終的に自己統合が果たされていくということだ。
この自己統合が果たされていく経緯と、ツインレイが持つアニマ・アニムスの統合は少しずつ進んでいくことになるだろう。純化をしながら、少しずつ結合するのである。
また、このとき、ツインレイのふたりは『繋がっている』状態にある。繋がっているからこそ、サイレント期間ではなにかしらの繋がりを感じることになる。
最終的には、ふたつを分離させる。分離させることにより、ツインレイたちは『兄妹』という双子の概念から解き放たれるのである。
ツインレイの卒業とは、長い時間をかけて行われている。ツインレイの卒業とは『双子の卒業』であり、ふたりの縁を切ることにあるのだ。
最終的な目標は、ツインレイが持つ『アニマ・アニムス』の意識がそれぞれ二極として自己のなかで平定されることにある。このとき、ようやくツインレイのふたりは『対等なる関係性』へとなる。
兄、そして妹という、兄が持つ庇護欲と、妹が持つ他力本願が消失されていく。
ツインレイが大人になること
従来のアニマ・アニムスはこのように思ってた。アニマを守らなければならない、アニムスに従わなければならない。そのために、ツインレイのふたりは『男性性』と『女性性』を磨き、お互いにとってふたりの関係性が崩れないような『兄になれる人格』と『妹になれる人格』を磨き上げていくのである。
しかし、ツインレイたちは、いよいよ大人になるとき『青年』『処女』の段階を抜け、子供を作るような関係性へとなっていく。
このとき、ツインレイの相手に対してと対等な関係性を構築することを望むが、二元性を吸収していないツインレイたちは対立せざるを得ない状態にある。魂そのものが反発し合うのである。
ツインレイがいっしょにいられる期間は、まだまだ青い未熟な時期であり、兄妹といっしょにいられる家族の期間なのである。
サイレント期間とは『大人になるモラトリアム』の期間であり、この期間で『二元性を持った魂』にまで成長してくことがツインレイには求められているが、このモラトリアムを抜けることなく、兄妹の関係性を維持することも出来たのではないかと思う。
このとき、ツインレイは『一極性』を持っているがために、ふたつは最終的には対立しあう、または支配による関係性を最も重要視するような少なからず成熟とはいえない関係性となる。
ツインレイのふたりは成熟することに、自らのなかに存在する『異性性』を内包することにより、より、ツインレイの相手との関係性を維持することができるようになる。
しかし、ツインレイのふたりは、それぞれ『大人』になるのである。
ツインレイたちは、ツインレイと出会う前段階における『ツインフレーム』の段階を無視してはならない。
ツインレイたちは、ツインフレームとの交配をへて、その後、ツインレイと出会っているのである——。
いわば、これがツインレイの『個性化』へと繋がっている。
アニマ・アニムスの統合の完成のサイン
私はさよならツインレイというものを書いている。
こちらは、アニマとアニムスの統合の段階において『アニムスの意識』により書かれている。
冒頭には意味深の内容が多く、わかっていない文章などが多く書き込まれている。当時はアニムスの意識が統合しかけている状態だったがゆえに、自分が書いたというよりも、ツインレイの彼くんが書いたという感覚のほうが強かったのである。
こちらのkindleではこのように記述が存在している。
ときが刻々と近づいており、私は同化の準備へ入らねばならないらしい。
ツインレイの再会と共に私は消える。蒼という存在のなかに統合されるのである。
あと一ヶ月足らずと統合しきることになる。そのとき私はツインレイの再会を迎えている。私は『蒼』をツインレイの相手に差し出さねばならない。
引用:さよなら、ツインレイ
この一ヶ月だが、統合そのものは本書を書き上げてから1か月ほどで統合しきったのだと思われる。
しかし、統合後『ツインレイの相手の自己統合』が存在しており、それを『同化』としているのだと思う。